鏡の森

例えば明日世界が崩壊したとして、そのときに悲しいと思えないのだとしたら、なんで毎日こんな退屈な時間を過ごしているんだろう。わたしたちは幸せになるために生まれてきたはずで、それなのに、このまま生き続けても幸福になれるという確証はどこにもない。それってすごくすごく、不公平なんじゃないか。フェアじゃない。肌に張り付く制服の温度だとか、橙色に染まった公園の土だとか、そういうひとつひとつが全部、ぜんぶ、おもちゃみたいで気に食わない。退屈だ。頼んでもないのに産み落とされたこの世界は、わたしが生きるには大きすぎて狭すぎる。
「あのさあ、マチは考えすぎなんだよー」
 明るい茶色の髪が、夕日に塗られて真っ赤に光っている。ブランコに腰掛けて、棒付きキャンディをガリガリと噛んでいるわたしの正面に立つサナエは、今日も元気だ。胸焼けがするくらい。
「わたしが考えすぎなんじゃなくて、サナエが能天気なだけでしょ」
「暗ーく考えたって仕方ないじゃん。もう生まれちゃったんだし、生きてんだし、世界は終わってないしー」
「割り切れるサナエが変わってんの」
「ありがとー!」
「別に褒めてない……」
 サナエとわたしは、ただ学校が同じだけの、赤の他人。同じクラスの箱に入ってるだけの、ただの知り合いだ。性格も、趣味も、好みも、何も合わないただの同級生。それなのにサナエは、何かと私に構う。単純に、なんで、と思う。サナエは男女問わず友達も多いし、話し相手には困らないはずだ。だけど放課後、こうやってわたしを何処かに誘って、何か特別なことをするわけでもなく話し続ける。今日見た本のこと。朝食の話。家族との会話。好きな物、嫌いな物、世界の終わりや、漫画の感想――どれも、重要じゃない、たわいもないことばかり。何が楽しいのか分からないけど、誘いを断るほど不快な時間ではないし、流れに身を任せ続けている。
「世界が滅びたときのことなんて、滅びたときに考えればいいよ。滅びた時に、悲しいか悲しくないか考えればよくないー? 悲しいと思ったら、マチの人生は幸福だったってことになんでしょ? なら、そんときハッピーになるように、今を過ごせばいいじゃん」
「まあ、そうなんだけど……どうしたら自分が幸せになれるかなんてわかりっこないじゃん。仮に見つけられたとして、本当に幸せになれるかなんてわかんないし」
「マチって、けっこーめんどくさいよねー」
 笑うサナエを睨みつけたけれど、サナエは気にせず笑い続ける。わたしはなんだか悔しくなって、サナエに問いかけた。
「じゃあ、サナエは? サナエはわかるの、自分の幸せ」
「みんながハッピーなことかな」
「……あのさあ」
 そういう、ふざけた答えは求めてないんだけど。そう言おうとして、サナエがじっとこっちを見ていることに気づく。
「本気だよ、あたし。あたしは、みんながハッピーになってほしい。誰も死んでほしくないし、誰も傷ついてほしくないし、誰かが幸せで、誰かが不幸っていうのがゆるせない」
 サナエが隣のブランコに腰かけて、地面に両足をつけたまま前後に揺する。ゆらゆら、と鎖が揺れる。さっきまでわたしを観ていたサナエの目は、どこでもないどこかを見つめているみたいだった。
「……そんなの、無理に決まってるじゃん。だってみんな違う生き物なんだよ? 幸せの形なんてみんな違うし……」
「さっきマチが言ってたよね。幸せになるために生まれてきたのに、幸せが確証されてないのはフェアじゃないって。難しく考えすぎだなあって思うけど、あたしもそー思うよ。ハッピーになるために生まれたのに、ハッピーじゃないなら、生まれてきた意味がない。生まれてくるって言う選択肢があるのはおかしいって」
 サナエがわたしをみる。こげ茶の瞳が、燃えるようにわたしを見ている。この子は、いったい誰なんだろう、と思った。私の知っている、松風サナエじゃない。二つに結んだ髪の毛も、たれ目気味の目も、形の良い唇も、どれも松風サナエの特徴をもっているのに、わたしの知る彼女ではない、と思った。けれど、それと同時にこれが確かに彼女なんだ、という気持ちがしてくるから、不思議で、怖くて、遠い。わたしは、サナエが次に何を言うのか、心待ちにしている自分の心に気が付いてしまった。サナエの唇が生み出す言葉を、期待してしまっている。わたしの理解と退屈を飛び越えた答えが作られる気がして。
 顎から汗がしたたり落ちる。水が飲みたい。頬にくっついた髪の毛が不愉快だ。プールに入りたい。支離滅裂な思考がごちゃまぜになって、溶けて夏になっていく。公園の砂が夕焼けになるのをやめたころ、やっと言葉を発することが出来た。
「……じゃあ、サナエは」
 ――サナエは、どうするの。誰も彼も幸せになれないのだとしたら。そんなこの世界を、許してしまえるの?
 サナエが笑った。いつもみたいな、晴れた空を思わせるような笑顔だった。わたしの耳に唇を寄せて、喋るというより、囁くみたいに答えをくれる。サナエがくれた言葉は、ずっとわたしがほしかったものだった。
 幸福がなんなのかわからない。どうすればわたしが幸福になるのかなんて見当がつかないし、この先永遠に手に入らない気がしていた。けれどもわたしは、この時確かに、わたしの幸福を予感してしまっていたのだ。世界が滅びたときのことなんて、滅びたときに考えればいい。サナエの言葉をリフレインする。あれは別に、能天気な回答なんかじゃなかったんだ。サナエは、ちゃんとわたしの「ハッピー」を探していてくれた。
 サナエが立ち上がって、わたしに手を差し出す。サナエの生み出した影が少しだけ、わたしを静かな色に塗ってくれる。口の中が、作られたイチゴのにおいで満たされている。この味を、たぶんわたしは、生涯忘れることが無いんだと思う。
「……マチ。ハッピーだって思えると良いね」
「――思えるかな」
 なんて、形式だけ呟いてみる。思えるよ、必ず。だって今も、どこかずっと、幸福の感触がしているんだもの。
「もし思えなくても、ちゃんとあたしが終わらせるよ。マチが、もう一回選択肢からやり直せるように」
 サナエが笑う。わたしが、サナエの手を握る。鞄を置いたまま、わたしとサナエは歩き出す。これからどうなるのかなんて、少しも不安じゃなかった。どうなったっていい。ばらばらになって、失われて、もう見えなくなったとしても、わたしはこの手を離さない。サナエの言葉が、胸の中で繰り返されて、体になじんでいく。別物だったサナエとわたし。鏡のように正反対で、けれどもどこかで似ていたのだと、軋んでいく脳が呟いている。明確な終わりが、わたしたちの鮮やかな始まりだった。

 ――"世界が全部幸せにならないなら、最初から、何もかもやりなおせばいい。滅ぼしちゃえばいいんだよ。"
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