アクリルの
湖畔


眠るように海を漂っているときだった。遠くに見えていたひとびとの明かりが消え、浮かんでいた船から老年の男の姿が失われた。空に浮かぶ星星は柔らかな色を強めて、あとはもう、静かに続く消失だけが私の目の前にあった。男が海に落ちたのかと、波のはざまで彼の姿を追ってみたけれど、しわの深い手のひらも、欠けてぼろぼろになっている爪を見つけることもできなかった。彼は世界から消え、世界からひとびとは消え、私だけが涙の海を泳いでいた。やがてひとびとがすんでいた建物はいつの間にか海の下に沈み、海にコーティングされた地球は人魚のものになった。何年も、何千年も生きる私達は、長い時間を掛けて”ひとびと”のように繁殖し、いつの間にかひとびとと同じように消えていった。
 どうしてか私だけが、このただただ広く美しい場所に取り残された。私の名を呼ぶものが誰もいなくなって初めて、私は自分の名前を一日に一度だけ口にすることにした。他に話すこともないし、話す相手もいない。最初はそれを寂しく思ったけれど、彼らは死んでしまったのではなく、ただいなくなってしまっただけだ。海に溶けて、土に息づき、建物のかけらとなって、魚の鱗のように光っているだけ。それは特別悲しいことではないように思えた。孤独だと、表現できるかもしれない。けれども本当の孤独とは、きっと寂しくて悲しいものじゃない。孤独とは、ただ私が私としてずっと存在し続けていることなのだと思う。
「――メシエ」
 メシエ。私は老年の男がくれた私自身の名を、今日も海に浮かべ星を見る。瞳を閉じて、鰭を動かせば夢になれる気がしていた。

「メシエ」
 彼は私がまばたきをする間、少年だった。快活な笑み。ガラス細工のような青いひとみ。柔らかなチャコール・グレーの髪。太陽の接吻みたいな、そばかすのちりばめられた頬。簡素な船で釣りをし続ける彼と出会ったのはほんの偶然だった。私を見た時、彼がとてもうれしそうに笑ったのを覚えている。メシエ。やっと会えたね。誰かの間違いなんじゃないか、と思った。思ったけれど、口にするのはやめて、彼の船縁に腰かけた。
「メシエ、歌を歌ってよ」
 人魚って、歌を歌うものなんでしょう? と彼は言った。私は首を横に振った。生憎、私は歌が上手くないし、ひとびとの想像のように、魚と言葉が通じ合ったりもしない。人間の言語は理解できるけれど、人魚の言葉しか話せない。歌を歌ったとして、彼には人間の言う”歌”のように聞こえるとは思えない。彼は肩をすくめて、「じゃあおれが歌うよ」と海のにおいが染みついた私の掌を握った。
 私たちは毎日、そうやって日々を過ごしていた。けれども私があくびをするくらいの時間で彼はいつの間にか青年になった。青年になった彼は私に「きみはおれの宝物だ」といった。
 あいしてる、でも、すきだよ、でも、嫌いでもなく、友達、でも家族でもない、宝物。それはまるで触れられないものに対する呼称のようで、少しだけ嬉しくて、ずっと悲しかった。私と彼は一度だけ親愛のキスを交わして、それからもうずっと会わなくなった。一度だけ彼が、彼の瞳の色によく似た可愛い女の子と釣りに来て、私は一人で海を漂い続けた。
 次に彼を見かけた時、彼は老人になっていた。優しい瞳をした男。陽に焼けた肌。骨格のしっかりとした体つき。大きな手。短い爪。彼の姿には彼の人生が染みついている。それをとても、美しく思っていた。
 彼が私に会うためにこの場所に通っているのかどうかは、どうだってよかった。会う気はなかったし、見つめているだけで良かった。彼がいつか消えてなくなるその時まで、見つめられていられるといい、と思っていた。

「メシエ」
 一人になって一万光年くらいがたった。光の速さで孤独は宝石になっていく。メシエ。私の名前。あなたがくれた、ガラスにはなれない透明な名前。メシエ。メシエ、メシエ……。
 目を開けると、いつの間にか私は宇宙を泳いでいた。海がいつの間にか宇宙と一つになって、地球も金星もブラックホールも消えて、ただただ宇宙になったのだと気が付く。私の身体もゆっくりととけて、もう言葉を発せなくなっていく。優しいねむりのような消失だった。

「――メシエ」
 消えていく瞬間、いつかの愛が私の名前を呼ぶ。チャコールグレーの流星が、目の前で光って、そのまま私と一体になっていく。
「きみは、おれのすべてだよ」
 彼の言葉は、もう人のものでも、人魚の物でもなかった。私も彼も、世界の物になったのだ。私は微笑んで、彼と同じ言葉で囁く。バルジ。あなたは、私のすべてだよ。
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