
lotus
満月の夜だった。
小さな国に跡継ぎが生まれた祝祭のなか、祝い酒にほろ酔う王は夜風に当たろうと、宴席を離れて庭園を歩いていた。
夜空にむかって真直ぐに伸びるヤシの林を抜けると、睡蓮の池が月の下で眠っている。白い花、青い花、薄紅の花。午になると色とりどりの花が水面に笑顔を浮かべるのを思い出して、王はひとりほほえむ。
池のほとりには先客がいた。国一番と評される魔術師は、祝いの夜にふさわしく真白い礼装に身を包んでいるのだが、目深にフードを被ったその姿はうっかり見逃しそうなほど夜の空気にとけ込んでいた。乾杯のときには確かにかがり火のもとで酒杯を掲げていたのをどうやって抜け出したものか、無礼すれすれの行いに目くじらを立てる人間はこの国にはいない。王は池のふちを回りながら、笑みを含んだ声で呼びかけた。
「お前らしいな、宴のなか瞑想とは」
魔術師は無言で会釈をすると、隣に立つ王の方へわずかに体の向きをかえた。
「よい夜です」
やわらかく掠れるという独特の声で、魔術師はそう言った。
「星のめぐりを観ておりました。御子は星に恵まれていらっしゃる。すこやかにお育ちあそばすでしょう」
「そうか」
王は短くそう返すと、そのまま穏やかな目を睡蓮の池に向けた。
岸ちかくの水面は睡蓮の葉に覆われ、月の光が窮屈そうにわずかな水面を照らしている。王宮のほうからは賑やかな音楽と浮かれた話し声、たいまつが爆ぜるときの焦げた匂いがかすかに漂ってくる。
「あなたには感謝のしようもございません」
少しだけの沈黙を破って、魔術師はそう呟いた。
「こんなに大切にしていただいたのは初めてです。あなたにお目にかかるまで、私は花の香りなど知りませんでした。夜空はこの身を溶かす闇に過ぎず、月の光は厭わしく、流れる水は返り血を濯ぐだけだった」
死神とまで呼ばれたこの身が今となっては滑稽にすら感じます。そう言って魔術師はのどを鳴らした。昔からの習い性で音を立てることを極力避けようとする魔術師の、それはめずらしい笑い声だった。
「感謝などされる覚えはない。お前はすばらしい魔術師だ。だからみな大切にする。あたりまえのことではないか」
不思議そうな声が隣から聞こえてきて、魔術師はまたのどを鳴らして笑った。
すぐれた魔術を行うものとしてではなく、魔術師という存在を丸ごと愛することの価値を、王をはじめとしたこの国の人間は誰も理解していないのだった。
しなやかな指がフードを払い、南国には生まれない銀色の髪があらわになる。魔術師は突然膝をつくと、驚いて差し伸べられた王の手を取り額に押し当てた。
「心よりお祝い申し上げます、わが王よ」
この国の誰一人として出すことの出来ない、魂に癒えぬ傷ばかりを刻みつけられたものの声で、そしてその傷を幸福へと昇華させたものの声で魔術師は言祝いだ。
「あなたと、あなたの御子と、平和で美しいこの国に贈り物がございます。…流れ者の私を王の側近にまで受け入れてくれたご恩に報いることをお許し下さい」
わたしに、このくにをまもらせてください。
額から胸へとおろされた手の甲に押しあてられたくちびるが、敬虔な祈りを捧げるかのようにそうつぶやいた。
ーいつかおまえにも…。
遠くから声が聞こえたような気がして、スレートは辺りを見回してみた。
朽ちかけた宮殿には午後の光がきらめいているだけで、寝台から体を起こして屋外に目を凝らしてみたところで、苔むした石造りの庭園にもヤシの林にも人影はない。あるのは抜けるように青い空と、生き生きと繁る濃い緑、咲き乱れ匂い立つ花とそれに誘われた虫や鳥、夜行性の小さな獣の息づかい、そういったものだった。
何かが足りないような気がする。急にそう思いつき、スレートは寝台を降りた。裸足でぺたぺたと歩く床には大きなタイルが敷き詰められ、その下から華奢な草花がひびを入れて伸びている。力強いレリーフがほどこされた石柱には鮮やかな緑苔が張り付き、さらにたくましい木の根が崩れかけた土台を支え、落ちた屋根にかわって頭上を守っている。
空だけを見つめてまっすぐ伸びるヤシの林を抜けると、スレートは睡蓮の池へ真直ぐ向かった。池のふちには睡蓮が咲いている。白い花、青い花、薄紅の花。色とりどりの花と丸い葉で、水面は覆われている。無造作にかき分けて足を入れると、水の冷たさが心地よかった。
睡蓮が浮かぶ辺りはふくらはぎまでしか水がない。寄ってくる魚につま先で構いながらしばらくざぶざぶと散歩しているうちに、スレートは目が覚めかけたときに聞こえた声の正体を突然思い出した。
スレートが「うまれる」ときに、創造主がかけた呪文だ。
スレートの創造主は、むかしむかし、護国の術をおこなった。全ての災厄を払いのけ守りたい命を守りきるために、チャコールとスレートが作られ命を吹き込まれた。
守護の鳥チャコールは全ての益をもたらす光。睡蓮の子スレートは全ての害を飲み込む闇。対として作られた二つの命だが、国が滅んで守るべき民を失った聖鳥は静かに衰え消えてしまった。残されたのはかつての王宮とこの庭園と、闇を飲み込んだままのスレートだけだ。
スレートは全てを記憶している。この体が作られて命が吹き込まれたその瞬間からいままでの全てを忘れていない。だから今はとっさに思い出せないその呪文も、記憶をたどれば必ず思い出せるはずだった。
記憶を探って自然とうつむいたスレートは、水鏡に映る自分のすがたを知らず凝視した。
長い銀髪、瞳は灰色。肌は青白く、くちびるは薄く。
ーおまえは、わたしとおなじすがたにつくったよ。
柔らかく掠れる創造主の声が、揺れる水面から浮かび上がってくるようだった。スレートは己のすがたを見つめたまま、さらに記憶の巻物を手繰る。
スレートの役目は、光の鳥チャコールと共に生まれた闇を身の内に封じ、長い時間をかけて「溶かしていく」ことだった。華々しい光の対として生まれた猛々しい闇を、いつの日か闇ではない、光でもない命としてその身に溶かしていくこと。創造主はそういう言い方でスレートに使命を教えた。
ーわたしもそんないきかたをしてみたかった。
創造主はつぶやくように言って、しなやかな指でスレートの頬を撫でた。その瞳には薄い涙の膜が張っていて、瞬きをすると珠のように目の縁に盛り上がりはしたけれど、こぼれ落ちる寸前になされた次の瞬きで凪いだように瞳の表面を覆い直した。
創造主の命が残りわずかであることをスレートは知っていた。護国の術をおこなうことによって、もともと長くはなかった寿命がさらに削られて、欠け始めた月がすっかり姿を隠してしまうまで永らえることは出来ないのだった。
ーいのちがおしいのですか。
命を吹き込まれたばかりで、言葉を直截的にしか使うことが出来ないスレートは、そんな言い方で創造主の意を汲もうとした。
スレートと同じ容姿をした創造主は、驚いたように眉をあげ、そして口角をすこしだけ上げてのどを鳴らした。
ーそうだね、いのちがおわるのはおしいな。
その会話を最後に、創造主はみるみる衰弱していった。そしてまだ三日月にもならない夜半に、ひっそりとこの世を去ってしまった。
王や王妃や家臣たちが事切れた体をかき抱いて泣くのを、スレートはすぐそばでみていた。次から次へと流れる涙をみていた。チャコールの広げた翼よりも強く輝く涙は、ただの入れ物であるスレートの目にはちっとも浮かぶことはなかった。
ふいに強い風が吹いて、平らかだった水面は漣だち、そこに映った姿を見る間に歪ませていった。
不確かに屈折し、所々間延びして見える自分の姿は、王や王妃や家臣たちの慟哭の瞳に映る、涙に歪んだ創造主の姿に瓜二つだった。
円状にひろがっていく波の中に、新たな波紋が生まれて広がっていくのを、スレートはじっと見つめた。
ぽたりぽたりと、雫は立て続けに水面を揺らして綺麗な円を広げていく。ふいに視界が大きく歪み、ぽたぽた、どころではなくなった。
スレートの涙に誘われたかのように、風は湿り気を帯びて強くなる。急に立ちこめた雨雲が、激しいスコールを降らせ始めた。
かなしい。
激しい嗚咽に苦しみさえ覚えながら、スレートは涙を流し続けた。
創造主を喪った時を思い、スレートはかなしんだ。その時自分がかなしいと思わなかったことをかなしんだ。命を吹き込まれただけ、生きているだけだった体をかなしんだ。むせび泣く人たちの姿をかなしんだ。
そして、死んでいく自分と同じすがたにスレートを作った創造主をかなしんだ。つくりものに過ぎない自分に託された願いをかなしんだ。
ーいつかおまえにも、こころがうまれますように。
その願いは力を帯びて呪文となり、スレートに刻み込まれていたのだ。
こころはいつから生まれていたのだろう。痺れたように揺らぐ頭で、スレートは考えた。
創造主が息を引き取ったときだろうか。嗚咽に彩られた葬儀のさなかだっただろうか。王の子どもがはじめて言葉を発した瞬間だろうか。新王の即位式の朝だろうか。緩やかに老いていく国を、チャコールと見つめ続けた日々だろうか。それとも、いまこの瞬間に、杯に注ぐ水があふれる瞬間のようにしてこころは生まれたのだろうか。
いつのまにか産声のような叫びをあげて泣きながら、ついにスレートは膝をついた。生暖かい雨と、ひんやりとした池の水と、熱い熱い涙と、すべての水に溺れてしまいそうな錯覚を覚える。
「…あなたの願いは叶いました。今、私にはこころがある」
嗚咽に嗄れた声が、震えながら水面に落ちた。顎を伝い落ちた雫が新たな円を描き出すのを見ていることが出来ず、スレートはきつく目をつぶって顎を上げた。
「けれどひとりきりです!」
荼毘に付され天へ送られた創造主を見つめるように銀色のまつげを震わせて、スレートは空を仰いだ。
答えなどあるはずもなく、スコールは生暖かい雨を降らせ続けた。
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