Night burns stars
わたしの内気なランプをはげましてやろうと広大な夜がそのすべての星々を点す。
(タゴール『蛍』。この短詩はある婦人の扇に書かれたものである。)
バシュラール『蝋燭の焔』より

#1

町外れの神殿は、忘れられた神様を祀っているのだと、母さんが言っていた。千と幾百の年を遡り、そこから少し宙を駆けたところにいらっしゃる神様で、今は人びとの安寧を叶えてくださることになっている。全ての世界で二番目に美しい神様だという話だけが伝わり、一番に綺麗なのは誰なのか、どんなことをなさった神様なのか、それはもう誰も知らない。村で一番の長老も知らない、と母さんは言っていた。
このあいだの戦で焼けてしまって、それ以来すっかりだだっ広くなってしまった草原にその神殿はある。神殿と言ってもただ床と、倒れた柱があるだけの場所だ。すでに祈る人も無い。祈るための場所は、戦よりもずいぶん前に町の中心の教会に移った。
草に呑まれそうな白い石の床は円形、縦横に走る唐草模様に似た彫刻は、全て文字なのだそうだ。忘れられた文字が、忘れられた神様の言葉によって、我々の知らない幾何学模様を作っている。そのなかの、何かの決まりのあるらしい片隅では、翼のある獣と火を吐く蜥蜴が口を開け、反対側では三日月が涙の滴を零しているように見える。涙を形作るのもまた文字だが、他の図形とはまるで質感が違った。幾筋もの絹糸が流れるように見える繊細な彫刻なのに、ただ線が連なるだけで字体としての装飾は無い。ただ、か細い線が寄り集まって言葉をかたどり、滴となって零れ落ちている。

――夜が星星を燃やす

三日月の涙は、こう零しているのだという。わたしの背丈が、父の腰ほどしかなかった頃のこと。遠すぎて白い霧の中に霞むような記憶だ。
丘の上の小さな家。父が居て、母が居たころ。やわらかな風の入る窓辺。そこが父の指定席だった。父はいつもどおり窓辺の椅子に座って、窓の向こうを見つめていた。草原と、その向こうにある神殿。ちいさなわたしをみようともしない後姿が悲しくて、わたしは父がこちらを向くのをずっと待っていた。けれども父はわたしに気付かないまま、川に笹舟を浮かべるような、聞いたこともない声音で、その言葉を呟いたのだった。
夜が星星を燃やす、と。
「パパ、それなあに?」
わたしが声をかけると、父は驚いたように振り返り、きょとんと見上げるわたしを見て眉根を寄せた。不快だと言わんばかりの険しい表情だったので、ちいさなわたしも聞いてはいけなかったのだと悟った。父の冷たい青眼に耐え切れずにうつむいて震えていると、父がわたしの名を呼んだ。感情の読めない平坦な声音に、叱られると思い込んだわたしはきゅっと目を瞑って「ごめんなさい」と叫ぶと、身を翻して逃げ出した。
父はもう一度わたしの名を呼んだけれど、返事もせずに駆けていった。父の声には怒っているような色は無かったけれど、慌てている風でも心配している風でもなかったのだ。父が付けたわたしの名は自分でも綺麗だと思うのに、父に呼ばれるとまるでどうでもいいつまらないもののようだった。
あてもなく走っていると、いつのまにか神殿の前に来ていた。立ち止まり、白い床をぼんやりと見やる。人気が無くて寂しい、少し怖い場所だと思っていたのに、どうして来てしまったのだろう。普段は決して神殿に近寄ろうとしないわたしが、そのときに限ってそこにいたから、父はその言葉について話してみる気になったのだろう。
それが父の意志でもなんでもない、単なる気まぐれでしかなかったことは恐らく間違いない。
けれど、父の気まぐれは運命に似ていた。

そんなことがあってから何年もしないうちに母が亡くなって、わたしは子の無い家へ養子に行くことになった。養子と言っても同じ町の見知った家だったけれど、それでも実家とは距離ができ、気付いたときには父の姿はなかった。
わたしと父と母が暮らしていたちいさな家は空き家になり、わたしは家を取り壊して建材を売り払った。父が戻ってくるかもしれないとは考えなかったし、実際二度と戻らなかった。父の所蔵の書物、母が持っていた僅かな反物、何一つ残さずすべてを処分し、残ったものは燃やしてしまった。わたしの手元にはなにも残さなかった。
父の行方は杳として知れない。わたしが探そうとしないので、町の人たちも敢えて探さなかった。父はもともと町では浮いた存在で皆に遠巻きにされていたと、娘のわたしにも何となく分かっていて、いなくなったことが不自然だとはまるで感じなかったのだ。ふんわりした性格だった母以上に、浮世離れした人だった。わたしやほかのひとびとを憎んでいたのではなくて、ただ関心がなかった。窓の向こうのずっと遠くのほうを見ていた。そんな気がする。





#2

父よりもひとまわり年上の人が訪ねてきたのは、わたしが遠い街にお嫁に行く一月前だった。
「キリエと仰る方を訪ねてきたのですが、彼女をご存知でしょうか?」
台所で養母が夕食のスープをかき回している夕暮れ時。わたしは表で西の空を見ていた。嵐が来るという話だったけれど、紫の雲が浮かぶ橙の夕暮れは静かだった。けれどいつもより、青の気配が強い気がして戸口のほうを振り向こうとしたら、声が聞こえて、いつのまにかその人が立っていた。このあたりでは珍しい、真っ黒い髪と藍色の目の男の人だった。
「キリエはわたしですけれど」
真っ直ぐに見下ろしてくる視線にたじろいだわたしがぎこちなく応えると、彼は納得したようにひとつ頷く。ゆったりした仕草だった。高価そうな黒い外套といい、柔らかな物腰といい、わたしがこれまでの人生で出会ったことの無い種類の人間だ。こんな田舎町にはそぐわない、上等のひと。訝しげなわたしを安心させるように微笑んで見せると、闇色の紳士は穏やかな声で言った。
「驚かせて申し訳ない、私はクレドと申します。サンクトゥス……あなたの父上の、古い友人です。」
わたしは眼を見開いて彼の顔をただ見つめた。深い色の目に、わたしの顔が映っていた。
「あなたがもうすぐ嫁がれるという街を通りかかって、サンクトゥスの娘さんがこの町にいるということを知ったのです。彼はもうここにはいないのでしょうが、せめてあなたにお会いしたかった。」
「父にあなたのような友人がいたなんて、とても信じられません。いいえ、父に友人がいることそのもの、わたしには嘘のようです。」
酷い言い草かもしれない。けれど、父を尋ねて誰かが来ることなど生まれてこの方一度だってなかった。家に来る手紙だって、宛名はいつも母だった。
「そうでしょうね。私自身、もう長いこと彼に会っていません。」
父の友人は、どこか遠くを見るように私を見ている。父の面影を探しているのだと、ふと気付いた。
「……わたしは、父に似ていないでしょう?」
わたしがそう言うと、クレドは沈黙した。言葉を捜すような仕草をして、小さく溜息をつく。
「いいえ、とてもよく似ておられるはずだ。」
それは、不思議な言い回しだった。
「そんなことを言われたのは初めてです。」
疑わしげな目付きをするわたしに、クレドは苦く笑うばかりで、何も答えなかった。

養い親の家で実父の話をするのは気が咎め、わたしはクレドを元の家のあったところへ連れて行った。父を偲ぶことのできるようなものは何もかも処分したと話しても、彼は驚きも嘆きもしない。ただひとつ頷いただけだったので、わたしはなぜか、遺品のひとつものこさなかったことを悔いた。
この町に住んでいた母のもとへ旅人として偶然に訪れた父が、そのまま夫婦として留まったという両親の馴れ初めを語るわたしを見守る彼は、わたしの中に父の影を見たいのだろう。彼はおおむね満足そうだった。
嬉しいのか悲しいのか分からない気分のまま、やがてわたしが生まれ、母が亡くなり、父が去ったところまで話した。クレドが悲しみを顕わにすることは決して無かった。
「ありがとうキリエさん。サンクトゥスのことが聞けてよかった。」
そう言って、彼は微笑んだようだったけれど、クレドの顔は薄い闇に溶け始めて奇妙な陰影を見せていた。藍色の眼が深く煌いて、それは山に隠れてしまった夕日よりも、夜の気配に照らし出されているような気がする。
「こんな話は娘でなくても出来ることです。それ以上のことを、わたしは知りません。」
髪が風に嬲られて鬱陶しい。わたしは長い髪をかきあげながら、クレドの表情に眼を凝らした。彼は廃墟の前でただ静かに佇んでいる。わたしは苛立っていた。はじめからなにもかも知っているような、あるいは諦めているような彼は、わたしなどよりずっと父に似ている。わたしの知らない場所を見ている人間だ。
「知らないということはありませんよ。あなたはご自分で思っているより、ずっとサンクトゥスを継いでいらっしゃる。」
クレドはわたしに問わないでも何もかも知っているのではないか。そんな疑念が浮かんで、わたしはきっとそのときとても嫌な顔をしていたと思う。
しかし彼はやはり揺らがず、苦笑か微笑かわからないゆったりした表情を夜に溶かして、予言のような声音で告げる。
「本当ですよ。ただ炎色がちがうだけです。」
そしてもう、二人とも何も言わなかった。

風が強まり始めている。
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