Returning sin





積まれた瓦礫は、今にも青い空に届きそうだ。その前に崩れてしまうのは言わずもがな、万物の全て、積み上げることは難しいが崩すことは容易い。触れればすぐに壊れてしまう、脆い世界。その世界で呼吸する人間もまた、脆い。

 ウォルツはいつも通り焼け爛れた十字架の下にいた。スラムの細い路地を通り抜け街の外れへ出ると、瓦礫やごみや必要としなくなったもの全てが積まれた山がある。その高みに、朽木で作られた十字架が存在した。ウォルツが物心ついた頃から、この汚らしい十字架は何を言うでもなく、ただごみに囲まれ佇んでいた。誰が何のためにこれを作ったのか、このサイハテの街で死んでいった哀れな魂たちへのせめてもの鎮魂の意か。ウォルツには分からない。しかし、見放されたものの中に立っている十字架に自分の姿を見たのだ。
 仲間との集会を終えると、その十字架に祈るためにごみの山へ登る。それもいつの間にか日課になってしまっていた。彼は、神に祈っているわけではない。信仰の対象も神ではなかった。
辺りには使い捨てられた自転車やバイク、壊れたラジオ、テレビ、冷蔵庫などの電化製品の類、動物の死骸。時には生まれて間もないであろう乳児も捨てられていたこともあった。ウォルツは何も感じない。物の儚さなど何の意味も持たないのだと理解しているからだ。存在意義、生きる理由、ウォルツにはそれらがこの街に積み上げられたごみのようにしか感じられない。ウォルツは溜め息を吐いて、組んでいた両手指を解いた。

「そこから何が見える?」
 不意にかけられた声に、ウォルツはぎょっとした。常時は人ひとりもいない山の麓に少女がいた。少女はウォルツを見ながら繰り返した。
「何が見えるの?」
「何も見えないよ。強いて言うなら……そうだな、瓦礫と絶望に埋められた街が見える」
「そう、あなたいつもお祈りに来ているの」
 山を登ってきた少女は、ウォルツの隣へ来て十字架を見やった。ウォルツがそうだよと答えると、少女も先程の彼と同じように胸の前で指を組み、目を閉じて祈りを捧げた。少女の両手には汚れた包帯が幾重にも巻かれている。
「本当に辺り一面、ごみ、だね」
 伏せていた目をあげて、少女が呟く。美しい景色でも予想していたのだろうか、そのような世界とは真逆のものしかここにはない。焼け付く太陽が素肌を殺し、残飯と汚れた水と週一回の配給が頼り、屍を漁る飢えた烏、夜になれば凍てつく空気が死の臭いを纏ってやってくる。楽園など存在しない。恐らくどこの人間よりも、この街の住人がよく知っている。
 ウォルツはそれらから逃げる術と期待などは捨てていた。彼の世界はここが全てであったから、綺麗な景色や空気、水などにはあまり興味はなかった。
「その手、怪我でもしたのかい」
「うん、ママがお前の手は汚いから要らないって。私、両利きだから。手癖が悪いからママが切り落とそうとするの」
「そうか」
「手だけでなく、私全部が要らないって言われたわ。だからここに捨てられたの。私もこのごみの一部ね」
 ああ、この子もか。ウォルツは傷ついた細い腕に憐れみを落とす気もしなかった。ただ自分自身と重ね合わせるだけだった。必要とされないまま、ごみとして一生を遂げる。彼はそれに不満もなかったが、少女を見て胸にこみ上げる何かがあった。感じたことのない、ふつふつと湧き上がる何か。


「存在の価値とはそんなに大切か?」
「わからない、けれど虚しい」
「自分自身の存在意義など、欲しければ掴み取ればいいじゃないか。手に入れればいい。お前にはまだ両腕が残っているだろう」
「そう、かな」
「ああ、少なくともおれはそうしてきた。おれには存在の価値はごみ同等だがな」
 ウォルツの言葉に、少女は少し笑った。それから大粒の涙が溢れた。堰を切ったように流れ出すそれを必死で拭いながら、少女はまた笑った。ウォルツはまたぎょっとして、自分の黒いセーターの袖で濡れた目を拭ってやった。
「ああ、もう。泣くな」
「ごめんなさい。嬉しくて」
 濁った空気のなか、その涙は美しく輝いていた。太陽光に散乱反射して、何よりも輝いていた。それに少女の存在を見た気がした。
「ここから見えるものは、ごみや瓦礫や絶望だけじゃないよ。あなたも見える。ここにいる」
「そうだな、おれもここの一部だから。贖罪で十字架の下に身を投げた日から回帰した罪を背負う限りは、ここのごみでしかない」
 生まれ落ちた時から背負った罪を、ウォルツは知っていた。生きることが罪と罰だということも、少女に手を差し伸べたことさえ赦されざる罪であることも。
「いいえ、そんなことはないわ。私の醜い腕が掴み取れるように、あなたにも伸ばす手がある。欲しいものは何?外の世界にはあるの」
「それは……絶対に手に入らないよ」
「奪っても、盗んでも?」
「……ああ、きっと」
 ウォルツが言うと、少女は悲しげに俯いた。無知も時には人を救うのかもしれない。ただ欲しいままに手を伸ばせば叶う望みならば、彼はきっと何人であれ殺して奪いとっただろう。いくら金を積んでも手に入らない、だからこそそれに「ごみ同等でない価値」があり、彼は罪を背負うことを望んだのだ。
 地平線の果てへ燃え尽きていく太陽に目が眩んだ。一瞬、眼下の街は宝石のごとく輝いて、その全てに価値があるように見えた。罅割れた窓硝子に光が宿り、泥水の濁りが微かに消えた。飢えた子供たちの汚れた頬を赤く染め、力尽きた男の動かない胸を優しく撫でる。彼女が綺麗と呟いた。

 ウォルツは、この世界で起こる事象になど興味はなかった。しかし、今にも崩れそうなごみと瓦礫と終わりの中に命を捨てる気はなくなってしまったのだ。たった今、そう思った。神でなく、自分の腕を、罪を、背負った十字架を、自分自身を信じてみようと思った。

「迷いはなくなった、行くのだ。歩き続ける、歩みは止めない。欲しいものが手に入るまで」




ああ、そうだ。欲しいものは奪ってでも手に入れなきゃあ
ラブソング/amazarashi