空、残像、キャンバスの青
青の絵の具が溶けた水を、そのまま大きなキャンバスにぶち撒けたような、透明感のある青。そこに白い筆の先が泡を描いていく。まるで、人間が見たことのない水の底のようで。そこに魚を描き入れたくなった。

「またきみか、そんなに僕の絵が好きなの」

この絵の作者が此方を見て言った。ピンクの絵の具が乗ったような、きれいな色の唇が弧を描く。俺が頷くと、彼女は更に嬉しそうな笑顔になった。

彼女の名前は、アキハ。年はおそらく十代後半だろう。彼女は女性なのに自称が「僕」という不思議な人だ。彼女は毎週水曜日と日曜日に、この河原に絵を描きに来る。初めてアキハに会った八月七日も日曜日だった。
彼女は、画家だと言った。売れない絵を描いているのだと。

八月七日、俺は偶々河原を通ってコンビニへ行った。その帰りに、アキハと出会ったのだ。当初は、雑草ばかりの所にキャンバスだけが立てられてあった。周りは海でもないのに、イルカの絵が描かれたキャンバスに俺は見とれていた。そこに、白と水色のワンピースを着た女性が現れたのだ。それがアキハだった。
それから、毎週彼女のいる河原へ足を運び、絵を観るようになった。

今日描いている絵は、青一色だけの絵だ。とは言ってもグラデーションがきれいで、そこに垂らされた白も、泡のようだ。
夏の空はキャンバスの上の青色で、絵の具を広げたように積乱雲が浮かんでいる。もくもくと膨らんでいる入道雲は、まるで綿菓子だ。割り箸を刺せば、口へ運べそうである。けれど、その絵は海の絵でも、空の模写でもない。何の絵かと尋ねると、彼女はくすくすと笑った。

「これはね、僕の全て。僕の心であって、全てなの」

そう言って、インディゴブルーをパレットの上へ出した。

「本当にきれいな色、絵だね」
「そう?きみに誉められるなんてうれしいね」
「絵に関しては、褒めることしか出来ない人間だから」
「褒めることしか出来ない人間じゃなくて、誉めることが出来る人間じゃない」

蝉時雨が俺と彼女の短髪の上へ降りかかる。彼女は一心不乱に水を含ませた筆でインディゴブルーを溶いている。
ぷかぷか浮いた雲は、目の前の川に飲み込まれて、青になって空の色になった。気が付けば、俺たちの頭上には雲一つ無い空が広がっていた。

「青はきれいだね、僕さえ飲み込んでくれる。過去も思い出さなくて済むんだ、絵を描いていると」

彼女が微笑を浮かべた。
インディゴブルーが、液体になった。パレットの上で一つの海が出来上がった。彼女はそれを筆で掬うと、キャンバスの上に乗せた。みるみるうちに、上部が暗い藍色で染まっていく。美しい青のグラデーションだ。

「さ、これでいいかな」

筆をパレットに置き、キャンバスを台から外した。草の上に大きなキャンバスが広がる。
アキハが、ごそごそとポーチの中から三つ絵の具を出した。そこにインディゴブルーのチューブを混ぜる。

「きみにはこれをあげる。この絵は大きすぎて持ち帰れないだろうし、だから絵の具をあげるよ。この絵を忘れないように」

俺は差し出されたそれを見て、素直に受け取った。きみには必要ないかも、と言われたけれど俺は、ありがとうと返事した。
アキハは、ぱたぱたと台を畳みポーチを肩に掛けて、草原から立ち上がった。バイバイと手を振る彼女の後ろ姿を見ていた。

青い空はいつの間にか橙に変わって、雲が斑に出てきていた。



八月二十八日、日曜日。生憎の雨だった。しかし、いつものように傘をさして河原へ行ってみると、やはり絵を描いている彼女の姿は、なかった。
ズボンのポケットには、前に貰った絵の具が四つ。ブルー、スカイブルー、コバルト、そしてインディゴブルー。まざまざと青ばかりで埋められていたキャンバスが目に浮かんでくる。
彼女は何処に行ったのか。此処にいないのは定かである。
あのキャンバスから抜け出した青が、今河原に降らした雨を、彼女はきっと知っているのだろう。



「絵も写真も、色褪せる。けれど、僕ときみが出会った夏の思い出は、きっと色褪せない」


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