Bathtub paranoia
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指に絡まりつく髪、不安、誰かの視線



ネオンテトラの死骸が、汚れた水槽に沈んでいる。
塩素の抜いた水に、音を立て澄んだ水が入り込み、死骸が一気に床へ押し出された。
蛇口を捻れば充満する湯気。
温かな空気が肌を滑る。
刺すような視線を感じる。
誰かが、私を笑っている気がする。

水槽は床に放ったまま、湯船へ飛び込む。石鹸が沈む湯が、淵から溢れ出る。黒い長い髪が、濁った水に浮かんだ。
ああ、邪魔だ。
この長い黒髪が。
あの子が恨めしい顔で、私の髪を見ているから。
ひと思いに、切ってしまおう。
母の鏡台から抜いてきた、少し錆びた鉄製の鋏を灯に翳す。


「マコト、風呂か」


不意に扉の向こうから、男の声がした。
そうよと返事をすると、彼が少しドアノブを捻った。しかし、鍵が掛かっているので、開くはずがない。


「おい、マコト、また籠もってるのか」


彼の声が、鼓膜に突き刺さる。



「そうよ、ここから出たくないもの」
「出て来てくれよ」
「嫌よ。外は不安や、私を殺そうとする視線で一杯なの」
「俺は違う。お前を守りたい、お前の侭にしてやりたいよ」
「いいえ、無理よ。貴方は嘘をついている」


彼がドアを小さく小突いた。
本当に言葉の通りだった。浴槽の外の世界は、欺瞞と不安と猜疑で溢れていた。
私を信じている人はいないだろうし、もしかしたら彼女みたいに、恨んだり良いように思っていない――もしかすると、殺したいと計画している人もいるかもしれない。
そう考えると、恐怖が襲う。皮膚の下を何かが這うような、不快感と恐怖。彼も、きっと私の敵。


「嘘はついてない。なら、お前の望みはなんだ?俺に叶えられることなら」
「じゃあ、この疎ましい髪を切って」


え、と扉を隔てて、彼の小さな声が聞こえた。
鋏で髪を梳くと、数本が湯船へと落ち、泡の中に浮かんだ。


「髪を切ってそれから、私を刺して。殺して」
「な、」
「首でも何処でも刺すの。泡がピンク色になって綺麗よ、きっと。そう、しがらみも妄想も髪も、全て断ち切るように、ピンク色に染まるの」


そうしたら、私の我が儘は通るわね。
呟くと、彼の溜め息の後に、遠退く足音が聞こえた。やはり、彼は嘘つきだった。

酷い妄想かもしれないけれど、私には全てが恐怖にまみれて見える。
空っぽの水槽と、濁った水と、私の髪だけがやけに綺麗だ。渦巻く醜い感情や、私の顔と、あの子の顔、絡まる視線、沸き出す猜疑。それらを断ち切るように。
耳の辺りに鋏をあてた。ざっくりと切られた黒髪が、浴槽に浮かぶ。



これであの子の恨めしい顔は、妄想となり果てるかしら。