ガラスのコップで、牛乳を飲むな。
口が酸っぱくなるほど言ったのに、洗い場の少し水が入った桶の中には、底が白くなったコップが横たわっていた。
飲むのなら、コップを水に浸けろという言いつけでさえ、守れない男。
セレナータは、長い髪を耳に掛け手を洗った。マグカップを棚から出し、冷蔵庫を開ける。
一リットル入りの牛乳パックを持ち上げると、もう重みを感じなかった。おそらく、コップの底を少し埋めるほどしかないだろう。
諦めてコップを棚に戻すと、遠くでドアの開く音がした。
玄関を覗くと、頭やら肩やらに白い雪を乗せた、ヒカルがいた。あちらこちらに跳ねる癖っ毛から、ぽたりと溶けた雪の雫が滴り落ちる。
ズースはセレナータを見つけると笑った。
「あれだけ、傘を持って行けって言ったのに」
黒猫のような柔らかい毛を拭きながら、セレナータは言った。
同棲しているヒカルの身勝手さに、溜め息が漏れる。当の本人は気にすることもなく、ぼんやりと雪の降る外を眺めていた。ベランダの柵に雪が積もっている。これでは全く洗濯物が乾かない。
「ねえ、仕事どうだった」
「んー楽しいよ、大学の先輩にも会ったし」
「そうなんだ」
セレナータはタオルをズースの肩に掛け、優しく髪を撫でる。
たったそれだけの会話、行為に愛を感じ、ズースは擽ったそうに笑った。
少しばかりすると、セレナータのお説教が始まった。
ガラスのコップで牛乳を飲むな、ちゃんと水に浸けろ。毎度毎度同じことだが、それが出来ないズースに言い訳の余地はなかった。
頬杖をついて、白に色づくベランダを眺めながら生返事をするズースに、セレナータは聞いているのと少し声を荒げた。うんざりしながらもズースは、苛立つセレナータの名前を呼んだ。
むくれた顔をしたセレナータの頬に優しくキスをすると、馬鹿と言いながら彼女は台所へ逃げた。
こうやってセレナータは、いつもズースに絆され、それの繰り返し。
ズースは苦笑いした。
いつもそう甘いばかりではない。
ただ笑い飛ばせれば良いものだが、セレナータの言葉は時折尖って、ズースの心を逆撫でしてしまう。小言は我慢出来るが、積もり積もってしまえばずんと、重くのし掛かるものだ。
いつものように、セレナータが説教を始めようとした時、ズースの怒りが牛乳の入ったガラスのコップと共に、床に叩き付けられた。透明な欠片が、冷たい空気を切り裂く。
鋭く弾ける音の後、部屋の中はしんと静まり返った。ズースの荒い息だけが響く。
セレナータは全ての言葉を呑み込み、逃げるように部屋へ入ってしまった。
それと同時に、ズースも外へ駆け出し、部屋はがらんどうになった。
床に散らばったガラスが、白い蛍光灯の下、乱反射している。
いったい何処まで走ったのだろうと、酸素が足りなくなって初めて、ズースの頭に過ぎった。
息を切らしながら、周りを見渡す。遠く向こうで赤々としたネオンが輝いていた。
雪が、黒く澱んだ空から、ちらちらと舞ってくる。それらはコンクリートの上で、汚く滲んでいく。
ヒカルは、自分の行動がどれほど愚かしく、いかほど矮小なのか気付き、ポケットの中で強く手を握りしめた。
水に変化した雪の上に、重い牡丹雪が積もる。白さえも悲しみに染まりぼやける。全てが音を無くしたような、静寂が夜の街に訪れる。
不意に、セレナータの少し怒気の含んだ「馬鹿」と言う声が頭に木霊した。そんな声が聞こえた気がした夜。
「何も聞こえないな…、何も」
東の空が光で赤く染まり、セレナータの眠る部屋を照らした。
昨夜泣き疲れ、そのままベッドの上で眠ったようだった。体を起こすと、外で雪がちらついているのが見えた。ベランダに積もっていた雪が、陽に溶かされ透明な水を滲ませている。
セレナータは寂しさの中、涙で濡れた頬を擦りながら、窓を少し開けた。
リビングは勿論もぬけの殻で昨日のガラスと牛乳が散らばったままだった。雪のように白い牛乳が、ガラスを拾うセレナータの手を濡らす。ひたすらに砕けたそれを拾い集める。
セレナータの心に、ただ悲しみが積もる。
陽が沈み、夜の真っ黒な空から白い雪が降ってくる。
ぎらぎらと目を突くほどのネオンをも白く染めるのを、セレナータはタクシーの窓から眺めていた。
運転手が何やら話しているのだろうが、セレナータには届いていない。白く霞んで、フィルターが掛かったように、いやに遠くで聞こえるのだ。
セレナータは飽くことなく、上から下へただ落ちる雪を眺めていた。運転手の「着いたよ」という濁声が聞こえた所で、やっと靄がかかっていた全てが、晴れた。
リビングに入ると、どことなく空気が暖かかった。
蛍光灯が照らす机に、一枚の紙切れがあった。乱暴な筆跡で書かれたそれは、ズースの真摯な心だった。そこでやっとセレナータは、涙と共に笑顔を零した。
悲しみが、雪のように溶けて消える。心に積もった雪は、透き通ったな水を零しながら小さな音と共に消える。
台所には、ガラスのコップがあった。少し白く濁った水にぷかぷかと浮いている。
セレナータは、ズースの馬鹿と絞り出すように小さく悪態をつき、コップを洗った。
真っ白な雪の声が聞こえた気がした夜。
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