Night without Tapir


ーどうしてあの人は私に微笑みかけてくれないのかしら。
 針仕事に使う華奢なはさみを無造作に振り下ろしながら、彼女は不思議そうに呟いた。
ー私が赤毛だからかしら。知っていて? あの人は金色が好きなのよ。
 問いかけの形をとりながら、彼女は返事など求めてはいない。無造作に振り上げられ、振り下ろされるはさみは、それを握る華奢な手ごと鮮血に染まっていた。
ーだからきっと、金髪のこどもがほしいのだと思ったのに、どうしてあなた、赤毛なのかしら。
 そう言って、彼女は初めて腕を止めた。無感動に見下ろす先には手芸用のはさみでめちゃくちゃに髪を切られた子どもが、からだを丸めてうずくまっている。
 良家の子女らしい、良質のリネンで作られた服は、その下にある皮膚ごと切り裂かれ、突き刺され、にじんだ血に染まっていた。
 母親を少しも刺激しないように、息を殺してうずくまる姿を無感情に一瞥すると、彼女はぽいとはさみを投げ捨てた。ドレスの袖口に赤黒い飛沫が飛んでいるのに気がつくと、「やだ、着替えなくちゃ」と呟いて背を向ける。
ーあいしているの。
 彼女はクローゼットに向かいながら、うってかわってやさしい声でそう言った。
ーあの人を手に入れるために、何だってしたわ。けれど、結婚してこどもを産んでもあの人は私のものにならない。どうしたらいいのかしら。
 そうだ、今から会いにいけばいいのよ。嬉しそうに言って服を選び始めた彼女は、もう子どものことなど頭にはない。目をきつく閉じて頭を抱えるように丸くなり、悲鳴一つ上げずに惨劇をやり過ごした子どもが、そっと目を開けて無表情に母親の背を見つめ、そして痛みに顔をしかめながらも足音を殺して部屋を出て行った頃には、彼女は金色のビーズがちりばめられた絹のドレスを選んで嬉しそうに微笑んでいた。





 スローバラードがほの暗い店内を満たし始めている。
 丁寧に磨きあげられたバーカウンターでは、一人の青年がシェーカーを振るっていた。
 最近店に入ったばかりだという彼は、カウンター席を独り占めしている女性客の熱心な視線を感じてか、カクテルを作りながら薄い微笑を口元にうかべてみせた。
 鮮やかかつ優雅に腕を振るうと、青年はシェーカーを置いた。縁の薄いグラスに中身を注ぐと、音もなくカウンター越しに差し出す。
「ジャックローズです」
「ありがとう」
 ルージュをひいた唇をかすかに動かして礼を述べると、バラ色のカクテルを受け取った白い手が、バーテンダーの手元に紙片を滑り込ませた。
 青年は驚いた様子もなく、ごくさりげない仕草で紙片ごと手を引いた。そのまま目を合わせることなく、シェーカーを片づけにかかる。
「おいしいわ。腕がいいのね」
 素直なほめ言葉の中に媚の色をほんの僅かにじませて、女はそう言った。
「ありがとうございます」
 バーテンダーはまた口元に笑みを浮かべる。
 女がもう一言、青年から引き出そうと口を開いたそのとき、店のドアが開いて新たな客が現れた。
「すみません。交代させていただきます」
 ドアベルの控えめな音に女が気を取られた一瞬に、青年はそんなセリフを滑り込ませて軽く一礼した。
 女は引き留める言葉を探したが、顔をあげた瞬間、琥珀色をした青年の目に確かな合図の瞬きを認め、開きかけた唇の端をゆっくりとあげた。
「またお会いしたいわ」
「またのお越しを、お待ちしております」
 夜の駆け引きは、店の外に持ち越されることになった。





「どうよヴォイド、うまく引っ掛かった?」
 窓際に寄せられたベッドの中から気軽な調子で声をかけられ、気配を殺して帰ってきたつもりでいたヴォイドは少しだけ驚いた。
「オーロラ」
「うーん、今何時?」
 オーロラと呼ばれた赤毛の女は、シーツの間から腕を伸ばしてベッドサイドの時計をつかむ。文字盤を見て「この時間なら首尾は上々?」とつぶやくと、動物じみたうなり声をあげて上体を起こした。
「うまくいった?」
 少し眠気を残した顔で笑いかけられ、ドアを閉めたところで固まっていたヴォイドはようやくベッドのほうへ歩み寄った。
「うまくいった。これでトープ家の内部は筒抜け」
 にやり、としか形容の出来ない笑い方からは、恋多き令嬢と一夜の火遊びを楽しむ慇懃なバーテンダーの姿など想像することもできない。
 暴言すれすれのせりふに対してオーロラがとった反応は、ちょいちょいと手招きをして近寄ってきたヴォイドの頭を、こどもにするようにくしゃりとひと撫でするというものだった。
「ごっそり戴けそうね」
 オーロラは笑いながら、ルビーにダイヤ、エメラルド、とでたらめな節を口ずさむ。ヴォイドは女が身につけていた高価な宝飾品を思い出して笑いながら頷いた。金持ちを狙っての盗みは、綿密な下調べと慎重な手回しを必要とする。スリルは大きく、実入りはとびきりで、二人ともこの仕事を気に入っていた。
「おつかれさま、ひと眠りしましょ」
 ごそごそと開けられたひとり分の空間に、ヴォイドは素直に体を滑り込ませ、ヘッドボードに乗り上げていた枕を引き寄せた。オーロラがベッドの反対側に落ちていた枕を拾い上げて、自分の頭の下に押し込む。ふたりは仰向けに並んでもぞもぞと居心地を整えた。
「…いま、起こした?」
 目を閉じたヴォイドがそういうのを、同じく目を閉じたオーロラは半分眠りに入りながら聞いた。ヴォイドの体温が近くにあると、あっという間に眠気が襲ってくる。
「あんまりいい夢じゃなかったから」
 寝言に近い返事に、「そうか」と安心したような溜息が帰ってきて、オーロラは微笑みたいような気持で眠りに落ちた。





 のしかかってくる体はいつでも酒臭かった。頬を殴られて頭がくらくらしても、アルコールに酔ったのかと錯覚できそうなほどだ。
ーなんでお前はいつもいつも。
 口汚いののしりは、ぼうっとなった頭には雑音にしか聞こえない。面倒くさくて目を閉じようとしたら反対側を殴られた。
ーこの前だってそうだ。どうして俺の客を盗るんだ。
 別に盗った訳じゃない。あっちが勝手に引っぱりこんできただけだ。抵抗して、万が一怪我でもさせればもっと怒るくせに。
 そんなことを言おうものならさらに数発お見舞いされそうだったので、何も言わずに力を抜いていると、それもまた気に食わなかったようだ。
ー父親もわからないお前を養ってやってるんだぞこっちは。
 鍛えあげられた重い体が離れ、次の瞬間靴のかかとが腹に振り下ろされる。思わず声を上げると、さらに数回蹴りつけられた。
 ここに置いてくれと頼んだことは一度もない。おれがあの女にとって人質になると思ってここで飼い殺してるんだろうが、それもどうやら見当違いだったな。
 そう言ってやりたいが、喉から吐き出されるのは弱々しい呼吸と血反吐くらいなものだ。
ー殺してやりてえって顔だな。
 のろのろと体を起こし、精一杯睨みつけると間髪を入れず嘲笑が降ってくる。
ー今のお前なら、多分出来るぜ。やってみるか?
 乾いた音をたてて、銀のナイフが床に跳ねた。反射的に手を伸ばしたが、それを握りしめるには体に言い聞かせなければならなかった。
ーそれは、お前がもってるようなおもちゃじゃねえ、人を殺すためのナイフだ。
 お前におれが刺せるか? 憤怒から嘲笑へと表情を一変させた相手を睨みつけながらゆっくりと立ち上がる。
ー刺してみろよ。
 重たいナイフを両手で握りしめ、体の脇に構える。確実に殺すのならば腹。
 濁った目を睨みつけたまま一歩踏み出す。
 けれど、その一歩の先がどうしても踏み出せなかった。冷たい汗が油のように体を伝い、手の先からじんじんと痺れがはしる。体の芯は凍り付いたように沈み込み、周りに厚い膜ができたようだった。
ーハハハハハ! 傑作だな!
 耳障りな笑い声もどこか遠い。
ー逆立ちしたってお前におれは殺せねえよ! ガキん時からさんざんおれに痛めつけられてちゃあ、体がおびえちまって動かねえよなあかわいそうに。
 いい見せ物だったぜと笑いながら、こちらに背を向けて歩き出すのをただ見送る。
 今走り出せば、あの無防備な背中に致命的な一撃を見舞うことが出来る。いくら頭でそう考えても、冷たく痺れた体は微塵も動こうとはしなかった。
 ドアが閉まる音がして、だんだん感覚が戻ってくる。
 あざ笑いながら投げつけられた台詞がだんだんとはっきり思い出され、何を言われたのかを理解した瞬間におれは叫びだしていた。





ーすまない。
 お父さまはそう言ってわたしを抱きしめた。
ー伝わると思っていたんだ。言葉にしなくても、愛情を伝えることが出来ていると思っていた。あの人があんなに思い詰めていたことにも気がつかなかった。
 お父さま、血が止まらないわ、あまり喋らないで。私はそう言おうとして気がついた。
 もういいんだ。お父さまは、もうお母さまに殺されてしまったのだから。
ー私は、わかってたよ。お父さまが私たちを愛してるってこと。
 胸が痛いけれど、これだけは言っとかなければいけない。そう思ってむりやり笑ってみせると、お父さまは頷いて私の頬をなでた。私は小さい時から、お父さまのがさついた大きな手で撫ででもらうのが大好きだったのだ。
ーお前にも、わたしの勝手な思いで、何度も辛い思いをさせたな。
 低くしわがれたお父さまの声。やさしい話し方に涙が出そうになる。
 煙がのどにしみて軽く咳き込んだ。お母さまが銀のはさみで自分の喉をかききる直前につけた火は、あっという間に屋敷中に燃え広がってしまって、何人ものひとがやけどをしたり死んでしまったりしているのだろう。
 お父さまはお母さまに翡翠の指輪を贈った。お母さまの目の緑色が大好きだったお父さま。私はけっこういろいろと知っている。
 ロケットの肖像画はお父さまが描いたお母さまだった。赤い絵の具は高くて買えなかったから、目の色だけを緑に塗った白黒の綺麗な女の人を、お母さまは金髪だと思い込んでしまったのだ。
 何度それをお母さまに教えてあげようと思ったことかわからない。けれど私からお母さまに話しかけても、お母さまには聞こえなかった。お母さまが私を見るのは、私にはさみを振り下ろす時だけ。いいえ、その時さえ、お母さまの目は私を見ていなかった。  お母さまは、あんなに金髪の子どもをほしがっていたのに、私を産む時に体を壊して二度と子どもを産めなくなってしまった。だから私を産まれなかったことにしたかったのかもしれない。
 頬をなでていた手が背中に回る。私が最初にお母さまに殺されたときも、お父さまはこうやって背中をなでてくれた。
ー私、だいじょうぶよ、お父様。
 私は顔を捻ってお父さまの方へむけた。とても短い茶色の髪と、焦げ茶色の目。私はどっちも似ていない。
 お父さまも知っているのかもしれない。私はお母さまが、金髪の誰かに頼んで産んだ子どもだということを。
ー大丈夫よ。ひとりで生きられるわ。
 それでもお父さまは私を愛してくれる。血のつながりさえ私にくれた。腕のいい宝石職人だったお父さまは、お母さまに殺された私にルビーの心臓をくれた。お父さまの血を注いで生き返らせてくれた。だから何度も私は生き返ることが出来た。お母さまを傷つけてしまわないために。
 お母さまも、気がついたら良かったのに。
ー大好きよ。お父さまも、お母さまも。
 宝石の鼓動は鳴りはじめが凄く痛い。痛いのを我慢してそう言って、お父さまの頬にキスをする。
 お父さまは泣きそうな顔で私にキスを返してくれた。





「ヴォイド!」
 つよく揺すられて、ヴォイドは目を覚ました。息が上がっている自分を訝しく思う寸前に、見ていた悪夢が脳裏によみがえり強い吐き気に襲われる。
 のろのろと口元に手をやると、その手は死人のように冷たかった。自然丸くなる背中を、オーロラの手が何度も撫でる。ゆっくりと背中をさすられ、ヴォイドは目を閉じた。まず深く息を吐いて、自然に吸う。何度か繰り返すとひどい吐き気も徐々におさまってきた。
「オーロラ・・・」
 こわばりの解けた体をぐったりと横たえ、首だけを巡らせて名前を呼ぶ。
「着替えなさい。凄い汗」
 気にした様子もなく言ってベッドを降りたオーロラの腕を、ヴォイドは思わず掴んだ。
 幼子が親にすがるようなしぐさに、オーロラがくすりと笑みを漏らす。
「タオルを取りに行くだけよ」
「あとでいい」
 うつむいたままそう言うと、声なく笑う気配がしてベッドに重みが戻ってくる。オーロラは正面からルカを抱きしめると、汗で湿った髪をゆっくりとなでた。
「大丈夫よ、ヴォイド」
 やさしい声でオーロラはささやいた。声と同じようにやさしい指が、耳の上あたりの髪をかいやるように何度も梳く。
「大丈夫。ただの夢だから」
 ヴォイドの悪夢が彼の過去そのものであることをオーロラは知っていた。彼女にとってもまた、過去すなわち悪夢だったからだ。二人はもう幾度も同じ夜を過ごしては、だれも消し去ってなどくれない夜があったことを思い、今はもうそれがただの悪夢になったのだと確かめる。
「誰ももうあなたを傷つけたりしないわ」
 傷跡だらけのヴォイドの体をオーロラは知っている。そしてヴォイドは、もっとひどい傷を刻んだ体を知っていた。
 こめかみにキスを落とされて、顔を上げると目の前でオーロラが微笑んでいる。そっと目の下を撫でられて。知らないうちに涙を流していたことに気がついた。
「ごめん、オーロラ」
 ヴォイドはゆっくり手を持ち上げると、目の前の細い体を抱きしめた。柔らかい赤毛に頬を埋め、ため息のようにつぶやく。
 オーロラのように傷跡だらけの体と心でほほ笑むような強さをヴォイドはまだ持っていなかった。いつもほほ笑むのはオーロラで、ヴォイドはいつでもそれに甘えるだけだ。
「いいのよ」
 オーロラは穏やかな声で答えた。
「あなたは私の子どもだもの。そうでしょ?」
 ずいぶんと昔、初めて出会った時に交わしたやりとりを思い出して、オーロラの声に笑いが混じる。
ーあなた、私の子どもになりなさいよ。
ーいいな、それ。
 兄弟ほどにしか年の差がないのに、なぜ親子になろうとしたのか。当事者である2人はいまだにはっきりした答えをもたない。
「そうだったな、“かあさん”」
 ヴォイドも湿った声で笑う。
 オーロラも笑いながら一度だけヴォイドをぎゅっと抱きしめると、体を離してベッドを下りた。
「もうタオルはいいか。シャワー浴びて着替えてらっしゃい。風邪引くわよ」
 今度は素直に頷き、ヴォイドはベッドを降りてシャツを脱ぎながらバスルームに向かった。
 シャワーを浴びて汗を流し、着替えながら戻ってくると、オーロラは小さなキッチンに立って何かを火にかけている。
「なに?」
「怖い夢を見たこどもには、ホットミルクでしょ」
 砂糖もたっぷり入れたわ、とおどけてみせて、オーロラはカップをふたつ持ってベッドに戻ってくる。
「あんたも怖い夢を見てたのか?」
「まあ、どちらかというと悲しい夢をね。聞いてくれる?」
 ヴォイドはカップを受け取りながら、ついでにオーロラの指先にくちびるをつけた。感謝や愛情を伝えようとするとき、他に表現を知らないヴォイドはいつもそうやってオーロラに触れる。
「もちろん、聞かせてくれ」
 そうして、彼らの悪夢は一つ一つ根気づよく、「ただの夢」に書き換えられていくのだ。



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