水槽

目の前には、どこまでも続く田野。車窓に広がる緑の景色は、高低もなくただただ平坦だった。そこいらに点在する民家は、電車のスピードにより視界の隅にあっという間に追いやられたが、また緑の地に散らばる茶色の屋根が見えた。小一時間もその景色を見ていたために、既に見慣れたものとなっている。
 椅子に腰掛けたまま伸びをすると、締まりのない口から自然と欠伸が出てしまう。だが意識は覚醒したままで、睡魔がやってくることはない。車内には鳴海の他に、出かける装いをした数人の老人しか見当たらなかった。
 理想を掲げた旅ではなかった。あらゆる希望や期待を捨てて、無様にアパートを飛び出してきたというのに。狭い水槽から飛び出すように、知らない海を見たがって駆け出した魚のように。世間知らずだった学生の頃の憧憬を、未だに抱えている自分に驚いたものだった。
 分厚い窓ガラスに頭を預け、そっと目を閉じる。射し込む光に瞼の裏が鮮明に色づき、そこに広がる赤に安堵した。だが、心地よい眠りにつくことは出来ず、がたがたと揺れる電車の音に意識は囚われたまま。
 駅に停車していた電車がゆっくり動き出すと、「次は鵠沼です」というアナウンスが聞こえた。鳴海は、もうふた駅で目当ての海だ、と少しわくわくとした心持ちで、相変わらず無音で流れていく民家の波を見ていた。深緑した川を跨ぐ鉄橋を渡る電車に、鳴海は昔観た映画を思い出す。無音のショートムービーというもので、白と黒の田舎町の古臭く懐かしい雰囲気ながら、鮮やかに故郷を思い出させる映画だった。こうなると余計に眠気は醒めてしまう。読書でもして、目的の駅までの長い道程を潰そうと、鳴海はボストンバッグを探った。ふとかさりと紙が手に触れ、はてこんなものを入れただろうかと不思議に思い、取り上げた。丁寧に糊付けされた白い封筒だった。そういえば、早朝、出発する前に広告と共に郵便受けに入っていたのだ。差出人の名前もない手紙だった。鳴海はこの身元不明の封筒をどうするか迷い、バッグの中へ放り込んだのだった。ゆっくりと破れないように注意深く口をあけていく。二枚の便箋と、少し固めの画用紙が入っていた。

「鳴海、君がこの手紙を読んでいる頃には、おれはきっと逃げ出してこの世界にはもういない」

 はっとして、鳴海は視線を泳がせた。この一文で差出人が誰であるか判ったのだ。

「絶望したとか、そういうのでない。ただ、もっと違う景色が見たくなった。小さな水槽や鉢で小回りに泳ぐ金魚は、外の世界に焦がれているに違いない。その気持ちが、やっとわかったんだ。だからおれの部屋にいた魚もみんな逃がしてやった。それが本当に正しいかなんて分からない。おれがこの小さくて大きな水槽から逃げ出すことは、正しい決断なのかさえ分からない。鳴海たちの優しさが怖かったのだろう。おれは此処から逃げ出す。だから、追いかけないで」

 鳴海の目から涙が零れた。大事なピースをいくつか失くしてしまって、もう世界は元通りにならない気がした。彼を形容した『純粋』この二文字に、鳴海はどれほどの涙を流したのだろう。この時だけは、つまらない風景が続けばいいと願った。ゆっくりと時間が流れれば、ゆっくりと涙が流れれば。欠けたものが戻りはしないことなど、鳴海が一番よく知っているのだ。それでも、まだその一匹の存在が鳴海の小さな水槽に存在してほしい、今なら零さずに掬えるだろうから。

「きれいな世界だった。今日も雨だ。終わりを見に行くために海へ行きたいな」

 水槽を模した一枚の画用紙に、美しい赤い色の魚が泳いでいた。自由になったそれは、紙の上を悠々と泳いでいた。

「間もなく江ノ島、江ノ島駅です。湘南モノレール線はお乗換えです」
 鳴海をまどろみから引き上げたのは、車掌のアナウンスと停車した緩やかな動きだった。鳴海は急いで鞄を持って立ち上がり、開いた扉から飛び出した。小ぶりな電車はゆっくりと駅を出て行く。向かいのホーム越しに青い海が見えた。それは人工的な水槽でなく広い、孤独な二匹の魚が目指した海であった。湿った潮風が、乾いた頬を撫でた。


海がまだ無味だった頃
大海に焦がれた水槽の魚が
悲しみに溺れて死んだ