或るチェロ弾きと

駅前の大通りを抜け、二本目の細い路地に入れば、古びた塗炭屋根が荒廃した印象を与える、昼間でも暗く陰鬱とした道なりに、文化住宅がある。深緑の壁の塗装はすっかりはがれてしまって、ぼろを纏っているようにも見える。私が住む其処は、扉を開けるだけでブリキの何かが壊れるような金属の擦れるような、ぎしぎし軋んだ音を立てるのだ。腹の辺りがきゅうと苦しくなるその音を聴いて、チェロ弾きの彼は苦笑いした。
「なんだか、それ、弦の不協和音みたいな音だね」
 私が生返事をして扉の取っ手を放すと、また奇妙な音がしたので、彼は笑った。
 チェロだけを持った彼は、私の部屋のおんぼろな扉を盛大に叩いて、出掛けようとこれまた大声で言った。私に有無も言わせず部屋から連れ出した。彼は、わたしに背を向けたままで「頼みたいことがあるんだ」と呟いた。

 晴れた日でも暗い通りは、冷たい空気に包まれている。騒ぎ立てる蝉の声はどこか遠くの世界のようで、私はぼんやりと夏の日に似合わない風景を眺めていた。送電線が血管みたく絡み合った頭上から覗く空は青い。
 文化住宅を出て二百五十メートルほど進むと、狭い路地が開け緑の木漏れ日が眩しい道に出る。そこでやっと私は、今は八月、夏の日であると認識するのだ。
「まぶしいねえ」
 綺麗な双眼を細めて言った。異様に白い肌をした彼は、こんなに炎天下の太陽の元では、アイスクリームのように溶け出してしまいそうである。いや、もしくは、焼けて爛れはしないだろうか。まったく夏が似合わない人間である。私はいつも、彼の異様な痩躯と白塗りの顔が気にかかっていた。
 暑い日差しの中に佇む喫茶店がある。昔から通っている喫茶店は明るく気品の漂う店だった。
 チェロを担ぐ彼を連れて来るのは初めてかもしれない。店内に並べられた骨董品を見つけて、彼は瞳を輝かせていた。
 喫茶店は冷房が良く効いていた。数人の客が疎らに座っていた。皆猛暑から逃げてきたようで、あるサラリーマンはアイスコーヒーを啜り、若い男女はアイスクリームを食べている。レースのカーテンによって夏の路上から隔離された此処も違う世界だ。
「こんな良い店があったのだねえ。初めて来た」
「そうだろうね。地元のやつじゃないと、滅多にこんな風な辺鄙な所には来ないよ」
 椅子を引いて座ると、彼は私の前へ座った。大事であろう彼のチェロは、無造作に床に置かれている。
「そんな雑に扱って良いの、そのチェロは?」
 私が問うと、彼はへらりと笑った。
「津島にさあ、頼みごとがあったのよ」
「はあ」
「僕はチェロを弾いていて、色々と劇場を回ったりするわけだよ。で、お前は作家を目指しているのだろう」
「何を頼みたいわけなの」
「歌を作ってほしいのよ。子供だとか、年寄りだとかがすぐにぱっと覚えられるような、楽しい曲をさあ」
 何だ、それ、と私は毒づいた。
 谷崎は偶に難しい話をする。高校からの付き合いであれ、彼のチェロについて語るときや、暗い話――例えば自分の家庭の話題を私に打ち明けたときは、きまって難しい言葉選びをする。しかし、今は彼らしくない簡単な頼みごとである。しかも作家志望の私に、歌を作れ。よく考えてみると、これまでの彼の頼みごとの中で、一番に難解だっただろう。
「ずっとモーツァルトだとか、なんとか短調だとか、飽きちゃうのだよ、僕がね。だから、お前の才能を見込んでさ」
 私は生返事をした。谷崎の冷たそうな薄い唇から紡ぎだされるのは、何処となく熱心な声色の言葉だった。
 水を持ってきたウェイトレスがそっと私と彼の前に水を置いた。浮かべた氷がからりと涼しげな音を立てる。谷崎の顔を見るなり「素敵なネクタイですね。アルマーニですか」と訊いた。急な出来事に目を丸くした谷崎だったが、見目麗しい女子に気に掛けてもらえたことが嬉しかったのか、ご名答、とウインクしてみせた。その女は顔を赤らめて調理場へ戻っていった。何となしに私はむっとした。
 彼はお気に入りの古びたチェロを眺めて、少し微笑んだ。その顔を見て、少し胸が締め付けられるような心地がした。
美しいその目は、きっとチェロばかりを映すのだろうな。誰にこんな綺麗な笑顔を見せるのだろう。チェロの弦を弾く細く長い指は、何に触れるのだろう。
「わかった。その話、受けるよ」
 おそらく私にそう答えさせたのは、恋焦がれた思いでもなく。純粋に彼の奏でる音色が聴きたくて、だ。他意はない。以前聴いた何とかホ短調は、ゆったりとした曲調だった。しかし、それでいて要所に研ぎ澄ました冷たい氷のように鳥肌が立つような、攻撃的なものだった。もう一度、彼の奏でる音色が聴きたいという欲望が、私にそう答えさせたのだ。
「だから、さ。また私に聴かせてよ。谷崎のチェロをさ」
 谷崎は少し目を丸くして、それから私を見て微笑んだ。それは、誰かを見るときの視線でも、チェロを愛おしそうに見るでもなく、優しいその目は、私を映していた。
「ありがとう」
 チェロと共に紡ぐ私の作り出した言葉は、きっと綺麗だ。使い古したおんぼろのチェロで良い。汚れた紙と原稿で良い。それだから、きっと美しい。
 喫茶店の扉が軋んだ音を立てて開いた。それと共に蝉の叫び声が聞こえ、夏の熱い風の中で微かにチェロの高い音がした。
彼はチェロを撫でて微笑んだ。

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