Light ink feather
彼女の庭は薔薇で埋め尽くされていた。
炎のようにかろやかな花びらと、幻のごとくひそやかで高貴な香りはまるで訪れるものを眩ませようとするかのように一面咲き誇っている。
庭のあるじは「炎の魔女」と呼ばれていた。生まれた時につけられたフレアという名前は、本人がとても気に入っていたにもかかわらず、今は殆ど呼ばれることはなくなってしまった。
文字通り背中に翼をはやして生まれる有翼人種は、個体差はあれどすべて何らかの能力をその命に備えている。
系統だった魔術を得意とする黒翼種として生まれた以上、高い能力を周囲に知らしめすことの価値は大きかった。彼女の能力と実力をあらわす称号は、もう一つの異名で語られるときよりもずっと畏怖を込められて人々の口にのぼるものだったので、じつをいうと彼女はあまり好んではいなかったのだが。
薔薇の結界に守られて眠っていたフレアは、ほんのわずか乱れた香りと鼓膜をかすめた微風に目を開き、ゆるやかに微笑した。気配を消してはばたくやわらかな羽音には覚えがある。
客を迎えようと安楽椅子から体をおこしたとき、庭に向けて開け放たれた掃き出し窓に人影が降り立った。ゆっくりと翼を畳み、静かに屋内へ入ってくるのはフレアが予想したとおりの人物だったので、彼女はそのまま立ち上がりやさしい抱擁をうけとめた。
「姉さん」
空気を振るわせるのではなく体に直接響くようなテノールで、彼はそう呟いたきりしばらく動かなかった。問いかけるかわりに「セイファート」と弟の名を呼ぶと、背中に緩く回された腕がほころぶ花びらのような軽さで外される。
「査問に呼ばれました」
姉を元のとおり安楽椅子に掛けさせながら、セイファートは穏やかに、何でもないことを報告するようにそう言った。
実際には、黒翼種が査問と呼ぶ審査は、有翼人種の命脈を保つ重要な儀式的行事の参加者を決めるためのものであり、人々の口にのぼる時それは世間話ではなく大事件として語られる。同系の異種族との混血を目的とした「旅」と呼ばれる行事には、一族より抜きの若者が送り込まれるのが常だった。
「査問官は、僕がリストに載っていることを責めるような調子でしたよ」
おかしそうに笑いながらザンはソファに腰を下ろし、ゆったりと足を組んだ。
「責任の所在をまちがえているわね。リストをつくったのも査問会でしょうに」
フレアも笑みを浮かべてそう言いながら、胸の高さに上げた右手をひらめかせた。その途端に部屋の奥の棚が勝手に扉を開け、白い陶器でできたティーセットが飛び出してくる。名前を呼ばれた忠犬のように床を滑ってきたテーブルの上には、中身を満たされた薬缶と茶葉の容器がトン、と軽い音をたてて出番を待つ。指差すだけでお湯を沸かした「炎の魔女」の力の無駄遣いを眺めながら、セイファートは先ほどとは違う笑い方で言った。
「あちらが何を期待していたのかは知りませんが、僕は“旅”に出るつもりはありません。そう明言しておきました」
茶葉を蒸らす間、穏やかな沈黙が流れる。セイファートはよくしつけられた猫のように大人しく、口元に微笑を浮かべて座っている。
セイファートはいつもほほえんでいる。家から一歩も出たことのないフレアは知らなかったけれど、彼は常にうっすらとした微笑を浮かべていた。
誰に対しても慇懃無礼な態度と相まって、人を小馬鹿にしたようなセイファートの振る舞いは決してこの薔薇の館には持ち込まれることがない。
セイファートにとって、フレアだけが愛情を向けるに値する人物であり、またフレアもそのことを知っていた。
フレアは一度死んだことがある。
それは、愛情を裏切られて心が死んだようになった、というような比喩ではなく、文字通りの死だった。
先祖返りの傑出した能力とは裏腹に、彼女の体は常軌を逸して虚弱だった。フレアに用意された寿命がけっして長いものではないということは、その青白い肌や、繊細に過ぎる顔立ちや、小鳥のさえずりにもかき消されてしまいそうに細い声などからも容易に知れたのだが、一目でそれとわかるのが、華奢な背に片方しか備わっていない翼だった。
「片羽のフレア」。それが彼女につけられた最初の異名であった。
一度目の死は寿命だったのだとフレア自身は思っている。最後の瞬間があまりにも静かであたたかで、まるでぬるま湯に身を浸すような幸福感に包まれていたからだ。
だがセイファートはそう思わなかった。彼は姉の事切れた姿を見つけるや否や、躊躇うことなく禁を犯して彼女の蘇生をおこなった。
そして、彼岸から一つの命を引き戻した代償として、セイファートの翼には犯罪者の烙印が押された。
「灰色のセイファート」。それが彼につけられた異名である。
入れたてのお茶を一口含むと、セイファートは嬉しそうにためいきをついた。
「こうして、あなたとお茶をのむのが一番の幸せです」
「そうね、私もよ」
フレアはにっこりと笑うと自分もお茶を口に運ぶ。暖かいお茶は体を中からあたため、生命の熾き火に新鮮な風を吹き込むような感覚をもたらした。
彼女は覚悟を決めていた。
黒い真珠のようだった翼を灰色に燃やした姿を目の当たりにしても、フレアは一度もセイファートを責めなかった。
もともと素直な性質ではなかったセイファートが、どこでどんな振る舞いをしようとも、彼女は微笑み一つで彼を許し、片方だけの翼と「炎の魔女」の異名においてその立場と命を護り続けてきた。
弟に与えられたふたつ目の命を、フレアはそういうふうに使うことにしたのだ。
「私も、幸せよ」
どんな守り方も甘受しよう。どんなやり方をも肯定しよう。
フレアはそういうふうにしてセイファートを護る。彼が彼女をよみがえらせた罪は、この館の中でだけは不問に付されるということを折にふれ指し示す。
やわらかなほほえみで。甘やかな空気で、あたたかいお茶と、居心地のいい館で。
知って知らずか、セイファートはまた嬉しそうに頷いた。
永遠の平穏などというものは、特に彼らには無縁のしろものだった。まもなく「旅」は始められるというなら、なおさら波乱を避けることなどできないだろう。
つかの間の幸福こそが、姉弟にとってのすべてだった。
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