飛び散る鮮紅色に片目を閉じよ

狭いエレベーターホールで私たち五人は向かい合っていた。下から吹き上げるビル風が私の髪をさらっていく。

「見逃してくれないか」

追われる男は意外に震えぬ声をしたので、それは許しを乞う類いの台詞にはそぐわない声色だと密かに思った。元味方のその男は、これから裏切りの制裁を受けるところで、ビル群を駆け抜けての追う/追われるは彼の気力も体力もすっかり奪ってしまったようだった。聞いておいて、まるで無言で首を振られるのを分かっていたかのような流れるような動作で、観念した男が抜き味のナイフを味方の一人に渡す。「一思いに」とか何とか念を押していたようだった。軽口叩く余裕を装った明らかに虚勢だった。

私たちが立つエレベーターホールはエレベーターの向かいだけ壁がなくコの字型になっていて、もし下から吹き上げる風に煽られて足を踏み外せば真っ逆さまに落ちることは容易に想像できた。

元味方の男を壁のない方へ立たせ、ナイフを受け取った黒服の男がその握り心地を確かめるように数度手首をまわす。私と仲間の女、二人の男はエレベーターを背に立って処刑が始まるのを待っている。空が曇っているからか、午後最中だというのにあまり眩しいとは感じなかった。

元味方の男は眼鏡を掛けていた。白いシャツに黒いスラックス、チャコールのコートは逃走劇の間に何処かへ消えたらしい。ネクタイはしていなかった。喉元のやや左側には既に紫色の傷があった。ちょうど首を締めたときの手の跡のようなものが左側だけ。その跡より左側に刃先が当てられる。包丁より刃渡りのやや長い、片刃の刃物。刃先は手入れされているのか銀色が眩い。

血が出る瞬間を見たくなくて、でも見なくてはいけないと(何故か)思って、私は息を止める。身体が震えているのが分かる。刃物が首の上で真っ直ぐに引かれる。ところが血は出なかった、どころか傷もできなかった。まるで切れ味の悪い刃物を押し当てたみたいだ。黒服の男がもう一度左から喉仏を通り右まで刃を引く、うっすら皮膚が切れて血が出ただけだった。

「あれ?」

黒服は半笑いでもう一度刃を当てる。左手はスーツの男の首後ろを掴み、右手を動かす。

黒服と外野はいい見世物を得たとばかりに熱を上げ盛り上がっていく。男二人は肩を組んで何か野次を飛ばしていた。左隣の金髪の女は腕組みして口元は笑っている。死にきれない男と私は半ばパニックを起こしていた。

「なんで?!」

そんなようなことを口走った気がする、男は四度目に刃を引こうとする黒服から刃物を奪い取り自分の喉元にに当てる。黒服は口笛を吹いた。外野が更に沸く。男の手は傍目からも明らかなほど震えていた。この異様な光景から逃れたくて突発的に動いたけれど、再び怖気付いたに違いない。

「そんなんじゃ切れねえよ」

黒服が詰り、男が恐る恐る刃を引くのを私は息を詰めて見守る。傷が少しだけ深くなったが、それだけで死ねるはずがない。

「おいおい死ぬ気あるのか」

黒服が吹き出し、外野がまた騒ぐ。男はもう半泣きだった。震える手で何度も刃を引くので、喉元に細い赤い線がいくつも付いた。自棄になりつつある手元は狂って男のこめかみ辺りをかする(いつの間にか眼鏡は何処かいっていた)。男はすすり泣いている。

「お前弾の跡まだ治ってないのかよ」

黒服が笑いながら何か言っている。

私の恐怖はキャパシティを超え自立して立てない程だった。隣の女の腕に両手で縋ると彼女はバカにした目でこちらを見やった。

「○○ちゃんにはまだ早かったかな〜」

「ママのところに帰る?ん?」

しきりにそんなことを言っては声を出して笑った。私が少し目を離した間に男の首には肉の切れ目がはっきりとあった。血が白いシャツの襟元を汚す。しかしまだ意識を失うほどではない。すっかり大人しくなった男は傷に刃先を押し当てているだけだ。黒服が男がいまだ握り締める刃物をそっと奪って、こちらを振り向いた。遊びは終わりということらしい。外野も静かになり、畏まる。

いつの間にか二人はビル壁より内側に移動していたようで、黒服は男の背に手を当ててぎりぎりの端まで誘導する。そこで男を振り向かせると刃をあてがって勢いよく引く。今までになく深い傷ができた。が、死に至るほどではない(と私は思った)。次の瞬間黒服が何をするか私には分かっていた。処刑の最後はそういう決まりだ、けれど、でも

「まだ死んでないじゃん!!!」

私は叫んだ。黒服はチラッと一瞥くれると男の左足に右足を引っ掛け、同時に左肩を押した。ゆっくり後に倒れた死にかけの男の口が「あ」の形に開く。それっきりだった。ビルの下から音がしたかどうかは確認する勇気はなかった。下を確認していた黒服はこちらを振り向き耳を塞ぐ私を見て、血塗れた黒い手袋を外しながらまた軽く笑った。隣の女は相変わらずにやにやと何か馬鹿にしながら、縋っていた私の手を振り払った。