盛りを過ぎた桜は哀愁を誘う。すっかり色を落とし、艶やかさの面影もない。何となく感傷的な気分になった私は、立ち止まって先生を振り仰いだ。
「日々衰えていくっていうのは恐ろしいですね」
「それは花盛りを過ぎた僕への嫌味ですか?」
先生は片眉を器用に上げてみせる。
「遠からずってとこです。先生は若いうちに死にたいとか思わなかったんですか?」
「また唐突にそんな事を。××さんは死にたいんですか?」
「そうですね」
質問返しという悪手を打った先生は、相変わらず飄々として私を見返す。そしてゆっくり瞬きを一つ。
「君のいつもの癖ですね」
言い置いてすっかり興味を失ってしまったように、再び足を踏み出す。頭上では葉桜が風にざわめき、僅かばかりの花びらを散らしている。若くして死にたい、というのは本心だ。けれどそれが叶わない甘えであることを私は知っている。いや、叶えないのだ。その気もない夢を語っている。先生もそれを承知の上なので“癖”などと受け流してしまうのだ。


私は、大人になどなりたくない。けれど、日々を何となく繰り返しているうちにここまで来てしまった。寝て、起きて、食べて、排泄して、また寝て……のルーティンに多少の変化が加わったところで、老いが止まることはない。そして、青春と呼ばれる時間よりも、その先の方が何倍も長いのだ。ふと、過去の輝かしい数年を懐古しながら、この先ずっと無為に生き続けなければならないのかと想像した時、ぞっとした。ならばいっそ、青春というモラトリアムに、美しいままで死んでしまいたかった。
けれど先生は、そんな私のことを分からないと言う。分かりたくない、とも。きっと私に本当に死ぬ勇気などないのだから、先生の方が正しいのだろう。けれど、先生に「そうですね」と言ってもらえないことが、少しだけ寂しい。


その夜、夢を見た。満開の桜の下に先生が立っている。ある程度の距離を保って、私は歩みを止めた。足音を殺すことはしなかったので気付いているだろうに、先生は振り返らない。
「うん百年も咲き続ける桜だそうですよ。どうです、禍々しいでしょう」
私が黙ったままでいると、気にする風でもなく続ける。
「人の理解を超えた不変など恐ろしいものですよ。こいつの根元に屍体が何百と埋まっている、なんて言われたって僕は多分疑わない」
見上げる先生に倣って、重たげにたわんだ薄桃を眺めた。光を吸い込むような夜闇に、ぼうと浮かび上がる大木。先生が屍の話をしたからだろうか。一瞬、鉄錆の臭いが鼻を掠めた気がした。生きるものの血潮ではない、この世で役目を終えたものの死の香り。はっとして、先生を見た。相変わらず棒立ちの背を見つめていると、刹那、風がごうと唸る。何千、何万という白い花びらが巻き上がり、先生の身体を掻き抱く。私は弾かれたように駆け出した。先生が連れて行かれてしまう。頭の中には確信めいた予感だけがあった。


先生は薄桃の地面に倒れ伏せていた。震える手で仰向ける。血色の悪い頬に数枚の花びらが張り付いていた。強い手つきで払い落としても、ぴくりともしない。やはりあの鉄錆の臭いは先生からしたのだ。
頬に当てていた手を、首に滑らせる。そのまま両手に力を込め、ぎりぎりと締め上げる。額に汗が滲み、食いしばった歯がギシギシと鳴った。桜に攫われた先生を取り返さなくては。
先生の片脚が跳ね上がり、瞳がカッと開かれる。強ばった腕に爪が立てられる。ぎこちない動きで解放した首には、私の指の痕がはっきりと残っていた。先生は身体を丸めて激しく咳き込んでいる。美しくない、みっともないその姿は、花吹雪を背景に佇んでいるよりもずっと“生きている”と思った。