春がわたしを急き立てるから

その「キセキ」が起こったのは、祖父がまだ若かった頃のことだという。
 顔が良かったばっかりに、地元の豪氏の一人娘に目をつけられた彼は、不運というか不幸というか、縁談をはねつけたために土地にいられなくなり、許婚だった祖母と一緒に夜逃げ同然で引っ越してきたのだそうだ。
 祖父の生家には、代々丹精こめて世話してきた大きな梅の木があった。幼い頃から愛着があったので一緒に運びたかったが、立派な木だけに植樹は不可能であり、そもそもそんな時間もなく、彼は泣く泣く梅を手放すことを決意した。
 讒言により左遷された菅原道真に自分をなぞらえ、あの有名な歌を残して。
 祖母の遠縁に紹介してもらった引越し先に到着した祖父と祖母は驚いた。生家に残してきたはずの梅の木が、庭で待っていたのだ。まるで100年前からずっとそこにいたかのように。
 そしてそこに、「昭和飛梅伝説」が(勝手に)誕生した。



「・・・・・・久しぶりに聞いたな、その話」
 祖母の長い話が終わるまで一応大人しく聞いていた僕は、冷え切ったお茶を一口飲んでこうコメントした。
その右隣では、年子の姉が目をキラキラさせている。生まれたときから祖母や母から何度となく聞かされてきたのに、よくまあ飽きないものだ。
「何度聞いてもステキよねーその話。ロマンチックだわ」
「なんだか、ふと思い出してねえ。こんな日和には、梅の精も姿を見せてくれそうな気がするし」
 同じく冷めたお茶をおいしそうに啜り、祖母はにっこりと笑った。
 穏やかな昼下がりのことだ。僕らは座敷の広縁で、三人並んでおやつを食べていた。
「おじいさんは小さいときに、あの紅梅の精によく遊んでもらったと言っていたよ。大人になるといつのまにか見えなくなってしまったらしいけど」
「いいなー。私、見たことない」
「今の子には見えないのかねえ」
 飛梅の話がでると、祖母と姉の会話の流れは必ずこういう風になる。何だか決まった手順でセリフを言っているようで、ちょっとおかしい。
 ちなみにこの後の流れはこうだ。
「トキは見たことある?」
「いや、ないよ」
「やっぱ無理か。あんたっていかにも鈍そうだもんね」
「今の子には見えないのかねえ」
「・・・お茶、おかわりしてくる」
 自分だって見たことないくせに、勝ち誇って笑う姉と、のんびりと会話をループする祖母から逃げるべく、僕はすかさず二人から突き出された茶碗を受け取り、そそくさと台所へ向かった。



 その夜、ふと目が覚めてしまった僕は、しばらく布団の中で再び眠りに就こうと奮闘していた。しかしこういう時、つまり眠ろう眠ろうと努力するとき、人間は却って頭が冴えてしまうものだ。ご多分に漏れずばっちり覚醒してしまった僕は、あきらめて体を起こした。
 古い畳はひんやりとしていて、足元から震えがくる。枕元のパーカーを羽織ってふと目を上げると、夜だというのにやけに明るい。
 月明かりがぼんやりと、障子越しに不気味な影を映している。ごつごつ、ぼこぼこした枝は、庭の梅の木だ。
 昼間に聞いた「(勝手に)昭和飛梅伝説」が、ふと思い出される。僕はあの話をいまいち信じられない。梅の木の精は、きれいな女の人の姿をしているというけれど、あのごつい枝にそんな美人が宿っているとは想像しにくいからだ。
 そんなことを考えながらなんとなく障子を開ける。
 中二階にあるこの部屋からは、祖母が丹精こめて育てている庭全体が見下ろせるので、部屋の位置ともあいまって、中学にあがるとき姉と争奪戦をした。 (ちなみに決戦は靴飛ばしで、僕の靴がお隣の窓を割ってしまい、そこのおじいさんに雷を落とされた。帰宅後親にも叱られ、その後連帯責任で叱られた姉にも八つ当たりをされた。)
 ゆっくりと庭を見るのも久しぶりだ。思いついて窓を開けたら、すっきりとした甘い香りがした。
 空は晴れていて、満月に近い月が白く光っている。星もちらほら瞬いている。
 ふと外に出てみたくなって、窓から屋根を伝って庭へ飛び降りた。姉からは、いつも鈍いだのどんくさいだの言われているが、僕にだってこのくらいの芸当はできるのだ。


 真夜中の庭は、独特の沈黙をもって僕を迎えた。ひんやりとした土の感触が、はだしの足にも心地良い。
 家のほうを振り返ると、どの窓も真っ暗だった。まるで僕だけが、この世界で目覚めているたった一人の人間だというような錯覚を起こしてしまいそうになる。
 足音を立てないようにそっと歩いて庭を横切る。庭の主のごとく堂々と根を張る梅の木には、思ったとおり赤い花が咲いていた。
 春が来てしまった。
 さっきまで爽快とも思えた夜の空気が、一気に重苦しくなったような気がした。
 梅の花は好きだ。食べられない花の中ではダントツに。けれどこの小さな赤い花は、春の先立ちなのだ。
 僕はものすごく春が嫌いなのに。
 思わず大きなため息がでる。梅の花には悪いけれど、口に出して言ってもみた。
「ああもう最悪・・・」
「何だとコラ」
 凛とした女性の声が、すぐ後ろから聞こえた。




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