額縁なんかに閉じ込められない

話しているうちに色々と思い出されてきて、腹が立ってきた僕は唇を強く噛んだ。これだけ迷惑をこうむって、春が嫌いにならないほうがどうかしている。
 ああ、今年はどんな目にあうんだろうか。
 些細な苛立ちを積み重ねた怒りはそれだけ長続きする。我ながらよく我慢ができていると思う。気の短い姉だったらそろそろ癇癪を起こしているところだ。
 意外と大人しく僕の話を聞いていた紅梅の精は、少し眉根を寄せて黙っている。もっと茶々を入れてくるかと思っていたから、少し拍子抜けした気分だった。
 月明かりに白く照らされた真夜中の庭はつかの間春とは思えないほど静まり返り、時代錯誤な格好をした美女と立派な梅の木との組みあわせは、さながら繊細な日本画のようだった。そういえば、この庭はいつも静かだ。堂々たる梅の花も、無造作に植わった花々も、春の陽気に咲き誇りはするけれど何も言わない。
 しばらくの沈黙を破って、うめは小さな唇を開いた。そのまま、迷うように数回瞬きをしてゆっくりと話し出す。
「おまえは、とても……古い血を引いている。春の花は浮かれていて賑やかだから、余計に拾ってしまうんだろうな」
「古い血?」
 つい低くなってしまう声で呟くように聞き返すと、涼しく切れ上がった目元を懐かしそうに細めて頷く。血など通っていないように見える白い手が、おもむろに僕の頭を撫でた。ひんやりとした感触が伝わってくる。やっぱり樹木の精に体温はないのか、と少し残念に思った。
「花の聲を聞くものの血だ。昔だってそう多くいたわけじゃないから、花たちも聲が聞こえるとわかって、嬉しくてつい手を出したんだろうよ」
 髪をかき回す感触とため息のように呟いた声の優しい響きに、僕は気まずい思いで動けなくなってしまう。さっきまでのがさつさ……もとい、威勢のよさからは想像もつかない態度に、うっかり返事もできない。古代の姫君のように典雅な外見からすれば、こちらのほうがしっくり来る態度なのだろうけれど、第一印象が強烈過ぎてどぎまぎしてしまうのだ。
「とはいえ・・・おまえにはとんだ災難だったな」
 よしよしと宥めるように撫でられて、不覚にも泣きそうになった。
 誰にも言えずに燻っていた感情が堰を切ったように流れ出そうとする。頑是無いこどものように、なりふり構わずわめきだしたい衝動にかられる。
 こみ上げてきたものが寸前でとまったのは奇跡的だった。
 すっきりと甘い花の香りが、僕をつかの間の混乱と興奮から引き戻したのだ。
(ああ……)
 ほころびかけた梅の香り。彼女もまた「春の花」だった。この怒りをうめにぶつけるのはあまりに酷い仕打ちだろう。
「……いいんだ」
 全然良くはなかったけれど、僕はそう答えた。この話を聞いてもらえただけでもだいぶすっきりした気がする。
 僕の思考を読んだのか、うめは嬉しそうに笑った。
「よし、強い子だ。私は強い子供が好きだ」
 ぽん、と勢いよく頭を叩かれる。子供の頃の祖父にもこんな風に接していたのかと思うと、なんだか温かい気持ちになる。彼女はふわりと地面を蹴り、梅の枝に腰掛けた。
「目も覚めたことだし、おまえを煩わせるものには私が釘を刺しておこう。おまえと、おまえの大切なものをこれ以上脅かすことは許さん」
 真摯な表情になり、尊大な口調でこう宣言すると、裏山の木々が一瞬ざわ、と揺れたような気がした。さすがに人間離れした威風漂う姿に一瞬見とれてしまう。
「偉そうだね、うめさん……」
「私は実際偉いんだ」
 ふふん、と鼻でわらう仕草が良く似合っている。確かにさっきの尊大さは堂に入っていて、やはりこっちのほうが付き合いやすいな、と僕は内心ほっとした。
「ありがとう、おかげでこの季節を好きになれそうだ」
 やわらかい春の風を頬に受けてなんとなくそう呟くと、紅梅の化身は「そうか」と言って、嬉しそうに笑って僕の頭を撫でた。普段の乱暴な物言いからは意外なほど、優しくて、たおやかできれいな笑顔だ。ちょっと落ち着かないけれど、いかにも花の精といった風情の笑顔を見たいというのも本当のところだった。



不思議な声が聞こえるの、と姉が言い出したのは、それから数日後のことだった。
「ほら、私朝練に行くからさ、毎朝4時前に起きるでしょ」
 長刀を習っている姉は、その朝道場から帰ってくるなり味噌汁を作っていた僕に(一方的に)語り始めた。
「そしたらね、声が聞こえたのよ。聞こえるか聞こえないかって言うくらいの小さい声」
 ちゃっかり自分の食器を差し出しながら、子供の声じゃないかなあ、と小首を傾げてみせる。
「”かえして”っていうの。ちっちゃい子供の声で、かえして、お願いって。空耳かとも思ったんだけど、何度も何度も聞こえるのよ」
 僕はぎくりとして手を止めた。


 聞こえるか聞こえないかというくらいの、小さな声。
 子供の声で、何度も何度も。
『かえして』


 冷たい汗が背中を伝った。




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