素肌に染みて消えないあなた

その夜。折悪しく春雨の降りしきるなか、僕の話を聞いたうめは、思わしげな表情で考え込んだ。
 雨を避けるため縁側に座っていた僕からは、彼女の表情が良く見えず、締めくくった言葉は尻すぼみになった。糸のように降りしきる春雨は、まるで御簾のように僕と彼女を隔ててしまう。
 居心地の悪い沈黙のなか、どれほどの時間が経ったのだろうか。
「お前に頼みたいことがある」
 うつむいたままで突然かけられた言葉は、唐突なものではあったが、僕はどこかでそれを予想していたようだった。うめは顔を上げて僕を見据えると、一歩だけこちらに向かって踏み出した。
「私は、この木から離れていることができない」
 もう一歩、踏み出そうとした小さな足は、中途半端に浮いたまま、しばらくしてもとの位置におろされた。僕は思わず腰をうかせて彼女のほうへ駆け寄った。しまった、濡れる、と思ったときにはもう遅い。
 うなじをつたう冷たさに、思わず頬が引きつってしまったのを見たうめはちょっとだけ微笑んで、僕の頭をくしゃりとなでた。
「頼む、トキ。あの桜の根元から、あの子の骨を掘り出してやってきてくれないか」
 優しい声と口調が意外だった。
「あの子どもはな、ずいぶん昔に、桜に血肉をとられてしまったんだ。それ以来死にきれずに桜の周りをさまよっている」
 彼女は細い眉根を寄せて、悲しげにそういった。僕は一瞬、ほんの一瞬だけれど、彼女が泣くのではないかと思った。だが涙は一滴も流れず、かわりに白い頬に黒髪が纏わりつく。
「私の罪滅ぼしを、手伝ってくれ」

***

 春の空は物憂げに霞がかって、視界をぼんやりと覆う。眼下に広がる山の緑も、そこに身を置けば感じられる清冽さとは無縁だった。
 それでも気分は悪くない。切れそうな縁を繋ぎとめることができるのだから。
 胸の中で一つの場所を描きながら、紅梅の木は夢中で空を駆けていた。
 彼がこっそり確かめていたその場所を、しっかりと覚えている。彼女のこよなく愛するひとは、きっとそこを目指しているはずだ。
 東の風が紅梅の心に力を与える。一晩で先回りをして、彼を驚かせてみせようと、小さな蕾が付いた枝を震わせた時。
「たすけて」
 か細い声が聞こえた。子供の震える声に、思わず意識を向ける。まだ芽も固い桜の森のなかから、「たすけて」と声は繰り返した。
 この辺りの桜は昔から獰猛だ。人里では口伝えに戒めが行き渡っていたはずだが、禁を破った子供が身を以てその報いを受けようとしているのだろう。
 子供が好きな紅梅は、助けてやろうかと躊躇った。
「たすけて、うめのき」
 その思いに反応するかのように、子供はそう叫んだ。人の身であるその目に、雲に隠れて空を行く紅梅の姿が映っていたとは思えない。けれども子供は確かにそう言ったし、紅梅の木は一瞬動きを止めた。必死な声にこたえてやりたいと思った。抱きしめて、頭を撫でて、もう心配しなくてもいいと言ってやりたかった。
 しかし彼女はそうしなかった。とにかく急いでいたのである。一刻も早くかの地に根を張って、我が子とも思う男と、その伴侶を守ってやりたかったのである。

 東の風と霞む雲を従えて、紅梅の木は再び空を駆け始める。あまりに急いだせいか、風の音がうるさかった。

***

 紅梅の精の意外な告白は、僕を呆然とさせるだけの衝撃を十分もっていた。しかし、それよりも引っかかる言葉を拾ってしまったおかげで、我に返るのも早かった訳だが。
「……ちょっと待って。あの裏山の桜って、そんなに怖いものだったわけ!?」
「ああ。気をつけろよ」
 こともなげに言ううめは、先ほどまでのしおらしい様子とはうってかわって尊大である。
「前に僕が桜のことを話した時、そんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「無闇に怖がらせるのもどうかと思ってな」
「いやいやいやいや」
「ま、今は私の守りもつけてあるし、大丈夫だ。夜が明けたらでいい。気をつけて行ってきてくれ」
 まだ返事をしていないのに、もう行くことになってしまっている。まあ断るつもりもなかったからいいけど。
「わかった」  僕は頷いて、うめの手を取った。自分から触れたのは初めてだ。さりげなく動いたつもりだけれど、緊張を見透かされていたかもしれない。すこしだけ驚いたように強張った彼女の手は、すぐに柔らかく僕の手を握り返した。
「頼む」




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