築は十三年と新しめ、三階建ての3LDKと少し家賃のお高いアパートの一室の玄関をガチャリと開けた瞬間、視界に入った光景に香夏子はポカンと口を開けた。

人が一人入れそうなほど大きいエメラルド色のスーツケースにせっせと着替えや化粧品歯ブラシその他日用品を詰め込んでいる母に「何してるの?」と聞かずにはいられない。
真っ白いブラウスを拾い上げる途中で香夏子の帰宅に気づいた母親は「あ、おかえり!」と笑顔を見せた。

リビングには母親の部屋から取り出されたのであろう衣服やバッグ類が散乱しており、昨日片づけをしたばかりなのに……と思いながらももう一度「何してるの」と聞いてみた。


「急に出張になっちゃってさ。その準備」
「え、どこに?」


スクールバックを肩から降ろしゴチャゴチャに積まれた衣類を拾い手早く畳んでいく香夏子に「さすが私の娘!」と母は笑みを深くした。
服に皺がついたら誰がアイロンがけをしなければいけないと思っているんだ。


「実はね、本社の方で人材が足りてないからどうしても来て欲しいって今日言われて」
「本社って確か……」
「うん。イタリア」


香夏子の家はシングルマザーであり、女手一つで十四年間育ててくれた母はバリバリのキャリアウーマン。
仕事内容の詳しい話は聞いたことはなかったが本社がイタリアにあることは知っていた。
日本支部で働く母親に何度も本社で働かないかと声がかかっていたのも聞いてはいたし、まだ義務教育を終えていない香夏子を理由にそれを断っていたことも知っている。

今回も同じように断るつもりだったらしいが、どうしてでもイタリアに来て欲しいと泣きつかれたために仕方なく縦に首を振ったのだとか。


「出張って、いつまで?」
「詳しいことはまた明日聞くけど、短くても二年はあっちかなぁ」
「に、二年も!?」


母の話し方からすれば、香夏子を日本に残しイタリアには単身で行くつもりだろう。
理由として、本社での勤務になれば今まで以上に仕事が忙しくなるため家に帰れる時間が少なくなる。となるとイタリアという未知の土地で頼れる人が母しかいない香夏子は心細い思いをしてしまう。


「一緒に連れて行きたいけど、急な話で手続きとか何もしてないし、何より言葉わかんないでしょ?」
「それは……、そうだけど…………」


物心がついたときにはもう父親の存在はなく、母方の祖父母と暮らしていたが五年前に祖父母が他界してしまいそれからは母との二人暮らし。
生計を立てるべく夜遅くまで働いている母は家にいないことの方が多く、一人で過ごすことには慣れている。

それでも家に帰って来なかった日はなく、どんなに遅くなっても母は香夏子のために帰宅してくれた。だから寂しいと思うことはなかった。


「大丈夫だいじょーぶ!お母さんがいない間のことはちゃーんと考えてあるから!」
「へ?」
「今までも一人にすること多かったけど、さすがに中学生で一人暮らしはさせたくないからさ」


「知り合いに面倒見てもらうように頼んでおいた!」と言う母親に香夏子は再び「へ?」と目を丸くした。


「いや待ってどういう……、」
「昔からお世話になってる知り合いに出張の間香夏子のことが心配だって話したら、じゃぁうちで面倒見てあげるって言ってくれて」


「だからあんたも自分の荷物まとめておきなさいよ」と淡々と話す母。そう言われたところでいまだに香夏子の脳は理解が追い付いていない。

つまり母の出張に伴い香夏子も知人の家で世話になるべく引っ越しをするということだろうか。いやいやいやいや!


「急に言われても!」
「お母さんだって急に今日言われたんだもん」
せめて相談してくれてもよくない!?
そんな暇もなかったんだから仕方ないでしょ!?


もう決めちゃったんだから黙って言うこと聞きなさい!」と怒鳴られてしまい、母が一度怒り出したら何を言っても聞いてはくれないことは重々承知しているため言葉通り黙って聞き入れるしかない。


「……お世話になる知り合いの人、私も知ってる?」
「お爺ちゃんたちと暮らしてたときに何回かその人のお店に行ったことあるんだけど、覚えてない?」
「お店?」


「お店ってなんの?」と聞いても「小さいときだし覚えてないか!」とこれから香夏子自身が世話になるというのに教えてくれる気はないらしい。
それよか「お母さんの荷造り早く手伝って!」「まだまだ詰めるものあるんだから!」と言われる始末。

香夏子にも荷造りをしろと言うくせに自分の荷造りを優先して手伝わさせるとは、我が母ながらわがままな人間である。
母の自室から次々と運び込まれてくる衣服を目に思わずため息が零れる。どうやら香夏子の荷造りは母のが終わってからになりそうだ。


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