海に居るのは

「『海にゐるのは、あれは人魚ではないのです。』」

 昔から海が好きだった。抜ける様な青空の下、波音が響いて、白波が寄せては引く様子が、とても美しいと思った。

「『海にゐるのは、あれは、浪ばかり。』」

 それは夏でも冬でも変わらなかった。季節によって違う貌を見せ、時に純粋な感動、時に恐怖を感じた。その何方も愛しい物だった。それが、例え、生まれた世界とは違う場所に来てしまったとしても、その思いが消える事は無かった。
 桟橋の手摺に寄り掛かり、海を眺める。光る水面は、自分が元居た世界と変わらない。

「『曇つた北海の空の下、浪はところどころ歯をむいて、空を呪つてゐるのです。』」

 覚える程読んだ詩集の中から、一番好きな詩を諳んじる。純粋に言葉の云い回しが好きだっただけのその詩は、今は私の願いを浮き彫りにするモノに思えた。波が攫ってしまえばいいのに。私の過去も。私の未来も。
 続きをと開いた口は、後ろから響いてきた声に、再び閉じられた。

「『いつはてるとも知れない呪。』……だったか」
「……中也さん。……良く判りましたね」
「手前がいつも云ってるから覚えたんだよ」
「そうじゃなくて。この場所が、です」

 振り返る事が出来なくて、まだ海を眺めていた。後ろから、もう馴染んだ気配が近付いてきて、隣に立った。彼も其の侭海を眺める。

「手前の居場所は大体判るって云っただろ。何時も何時も迷子に為りやがって、おかげで探すのに慣れちまった」
「仕方ないですよ……此処、私が知っている世界と妙に似てる癖に違うから」
「本当か?手前が方向音痴なだけじゃねえのか?」
「断じて違いますよ。確かに小さい頃からよく迷子に為ってたけど」
「おいクロじゃねえか手前」

 軽口を叩き合い乍ら、然し二人の間に流れる空気は重かった。ちらりと隣を見る。中也は此方を見て、ぽつりと呟きを落とした。

「……見つかったんだな。帰る方法」
「……知ってましたか。流石です。幹部なだけありますね」
「…………名前」

 茶化す様に云った言葉は、彼には逆効果だった様だ。低い声が此方の名前を呼ぶ。

「……中也さん、海は好きですか」
「……?」

 突然の私の問いに、中也は目を見開いた。其の侭彼は海に目を向ける。

「まァ、嫌いじゃあねえが」
「私は海が好きでした。海が好きです。波は何でも運んで行ってくれる」

 空気を深く吸い込んだ。波の音が聞こえる。その向こうに、人魚は居るだろうか。

「厭な思い出とか。曇る気持ちとか。振り返りたくない過去も、行きたくない未来も」
「……そうだな」

 頬に、黒い手袋に包まれた、暖かい手が触れた。其の侭中也の方を向かされる。彼はただ真っ直ぐな瞳で此方を見ていた。

「――――俺との、時間とか、な」
「……ええ」
「手前が此処に来てから得た物も、手前が俺に残して行く物も、全部」

 触れた手が後ろに回って、彼の方へ引き寄せられた。強い眼光から目を背けたいのに、彼の手がそれを許さない。

「全部、捨てられるのかよ、手前は」
「……出来ますよ。私はいつもそうしてきました。そうして生きてきたんです」

 海に来れば、厭な事は凡て、波が攫って行ってくれた。

 海の向こうに、人魚が居ると良いと思った事が有った。彼女たちは曇った空の下で、波の音と共に歌声を届ける。そして私はそれを聞き、暗い感情を凡て洗い流す。波と共に、地平線へと追いやる。

「だったら」

 不意に、彼は顔を歪めた。その目に写る自分の顔は、濁っていてよく見えない。

「何で手前は此処に居る」
「…………」
「帰る方法が見つかったのは数日前だ。それから毎日、手前は此処に来ては海を眺めてやがる」
「……見ていたんですか」
「……ああ。云い訳も何もねえから云うがな―――帰さねえ心算だった」

 視界が黒に染まる。抱き締められている、と気付いたのは、頭上から彼の声が聞こえた時だ。

「俺も手前と同じだ。捨てようったって捨てられねえ」
「…………中也、さん」
「そんな単純な人間じゃねえんだ。手前だってそうだろうが」
「……中也さんは私が居なくても」
「生きていける、なんて云うんじゃねえぞ」

 抱き締めている手に力が籠って、私に微かな痛みを与えた。

「……なあ、名前」
「何、ですか」
「此処で生きてくれ。俺と」

 悲痛な声は、私の心に、痛いくらいに響いてくる。

「俺との時間が、海の向こうに攫われる様な脆い物に為ったら、この世界を去れば良い。だから、それまで、俺と生きてくれ」
「……非道いですね、中也さんは」

 絞り出した声は、自分でも驚く程はっきりと出た。ああ、もう、私の中で、その答えは、とっくに出ていたのだろうか。

「そんな事したら、もう、捨てられないに決まっているのに」
「……ああ。承知で云ってる」
「……ほんとに、非道い人。最初から、私の答え、知ってるんでしょう」

 答えの代わりに、少しだけ笑う気配が有った。嗚呼、非道い人。そして優しい人だ。そう思い、私も目を閉じて、微笑んだ。

 この人が、此処に居る限り、私も此処に居るのだろう。波と共に消えてしまう程儚い思い出など無くて、それが私を此処に繋ぎ止める。

 海には人魚など居なくて、波に運ばれてくるのは、ただの光だった。聞こえてくるのは歌声などでは無くて、直ぐ傍に居る、彼の声。此処に居るのは私達だけだった。今、此処に生きて居る、私達だけ。

 二人、海に背を向けて歩き出す。波の音が、海の風が、微かに背を押してくれた気がした。





海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
(中原中也「北の海」)

引用:中原中也「北の海」より
(2016.12.10)
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