今からひと月ほど前の事です。私には最愛の姉が居りました。
ひと月前、姉が不慮の事故で亡くなるまで、私達は自他ともに認める、仲の良い姉妹でありました。
双子ではなく、然し双子の様にそっくりであり、何時も同じ服を着て、同じ口調で喋り、同じ嗜好で、同じ手癖で、私達の見分けがつく者は限られて居りました。
一年と少し前、姉に、恋人が出来ました。私の姉と私の、上司でもあった人です。
最初に彼を見かけた時、それはもう、恐怖を抱いた物です。顔から手まで巻かれた包帯は白いのに、その肌にありありと存在を示しておりました。
真逆そんな人が姉と恋仲になるとは誰が想像できたでしょう。
彼はとても姉と仲が良く、また、私にも親切に接してくださいました。組織を率いる幹部でありながら、そんな事は微塵も感じさせず、姉を愛し、私と友人になって下さったのです。それだけで、私の彼への恐怖は何処ぞへ消え去ってしまいました。
嗚呼―――然し、可哀想な彼。ひと月前、姉は亡くなりました。亡くなったのです。
先刻も申し上げましたが、彼と姉はとても仲が良かったのです。最愛の恋人を失った彼は、とても悲しむでしょう。それは姉の望む事ではありません。
彼の他にも、姉の事が好きな人たちは沢山居ました。友人や、上司、同僚も。
だから、私は姉に為る事にしました。大丈夫、私達はそっくりです。誰も気付かないでしょう。事故の影響で記憶が曖昧な事にすれば、以前の姉と食い違う点も怪しまれることは有りません。
私は―――もう、名字名前ではありません。
辛くはありません。姉の名を名乗る事は誇らしくさえあります。
「―――さん、如何したんですか、ぼんやりとして」
姉の名で呼ばれる事は嬉しくさえあります。
「……いえ、大丈夫です。一寸、昔の事を思い出していて」
「昔の事……ですか。ひょっとして……名前ちゃんの……?」
「…………ええ。妹の事を。あの子は良い子でしたから」
姉に為りきり、姉が云うだろう事を云います。彼は「済みません。悪い事を訊いてしまった様だ」と―――名字名前の死を悼む様に、寂しそうに微笑んでくださいます。
それにいいえと応え乍ら、本当は同い年である彼の事を想います。
私は、彼に何の恋心も有りません。一介の構成員が、幹部などと関わりが有る筈もなく。ただ、姉が嬉しそうな顔をして、上司だった彼を改めて、恋人だと紹介してくださったので、きっといい人なのだろうという事しか思って居りませんでした。
『初めまして、名前ちゃん』
そして、にっこりと笑って挨拶をして下さった彼に親しみを覚えたのも、ただの親愛の感情です。
然し、『私』は、この人を愛さなくてはなりません。生半可な演技では気付かれてしまいます。
他の人は、姉を慕ってはいたけども、彼ほど姉と親密な関係の人はいませんでした。詰り、彼を騙し続ける事が、『私』であることの最大の条件なのです。
ただ、時折、恐ろしくなるのです。
「―――さん」
彼が『私』の名を呼びます。
『名前ちゃん』
彼が私の名を呼ぶ時、勿論、姉とは違う声音でありました。当然の事です。姉は彼の恋人で、私はその妹に過ぎないのですから。
それなのに。何故でしょうか。時折錯覚してしまうのです。空耳が聞こえるのです。
先に歩き出した私の後ろから、小さな小さな声が聞こえます。
「………………………………名前ちゃん」
振り返ると、彼は何時も通りです。何時も通り、「如何かしましたか?―――さん」と笑います。
きっと空耳なのでしょう。私はまだ、『私』に成りきれていないのでしょう。だから、もっと。もっと―――彼を愛せる様にならないと。
『私』は、彼を心から愛さないと。
そうしないと、私はきっと、『私』には為れないのです。
嗚呼、でも、恐ろしいのです。矢張り空耳が聞こえるのです。
彼の声が。時折、『私』ではなく、私の名を呟く声が。
『私』の名を呼ぶ時より、情を籠めて、私の名を呼ぶ声が。
一年前に恋人に為った女性は、清楚で少し臆病な性格をしていた。妹にとてもそっくりな性格を。
彼女には見分けがつかない程似ている妹が居た。彼女は私に、「名前は甘えん坊で。私もそんな彼女を甘やかしてしまうのですけれど」と美しく笑いながら云った。
事実、名字名前は姉に甘えたがりな面を見せていたが、それは彼女の姉だけに向けられたものだった。他の者に向ける笑顔は明らかに他人行儀で、彼女の中で姉の存在は別格なのだろうという事を伺わせた。
それが少々厄介だと思ったのは、今となっては良い嗤い話に過ぎない。『彼女』が死んだ今となっては。
「……太宰さん?」
恋人が問い掛けてくる。それに笑って、何でもありません、と応える。
嗚呼、また不安そうな顔をさせてしまった。愛しい女性に。出逢った頃から心惹かれている女性に。
今も、私を騙せていると思っている女性に。
彼女の姉に近付いたのは、彼女の中で、姉があまりにも大きな存在だったからだ。だから先ずは二人を引き剥がすべきだった。そうしないと彼女は―――名前は私の物にはならない。
可哀想な名前。姉が死んだのは事故の所為だと信じている。目の前にいる男が何をしたかも露知らず。事故を装うなどマフィアには欠伸が出る程簡単な事だと云うのに。
もっと哀れなのは彼女の姉だろうか。大人しく名前から離れてくれれば死なずとも良かったのに、と同情の欠片も無く思う。
だが計算違いがあった。姉の死に対する名前の反応だ。
『大丈夫ですか?此処は病院です―――名前を云えますか?』
『…………私は―――です。一緒に居たのは……妹の、名前』
凄惨な事故だったため、『彼女』の死体は潰れていた。彼女たちの入れ替わりに気付く者は居らず、名字名前は死んだものとして処理された。そしてひとり助かった彼女は、今も『彼女』を演じている。
早く真実を伝えたい、とも思う。
でもまだだ。彼女の中にはまだ姉が居る。こんな事をしているのが良い証拠だ。
健気な事に、彼女は私を愛そうとしている。『彼女』がそうしていたから。
然し、人間とは其処まで単純ではない。
ああ、君が私を愛すると云うのなら。
それが『彼女』としてではなく、君自身の感情になるまで、決して遠くはないだろうね。
「名前ちゃん」
聞こえるか聞こえないかという声で囁く度に見せる、怯えた顔が堪らない。
不安な顔はさせたくないというのに、そんな矛盾した感情を抱く。
こんな状態を態と続けているのはその所為かもしれない。健気な彼女が可愛らしいから。
姉に為ろうとして、為り切れず。
姉としてではなく、自分自身が、私に堕ちるかもしれない事に怯えている。
「太宰さん」
私を呼ぶ声がする。君は今、何方の心算で呼んでいるだろうか。
「今行きます、―――さん」
――――――今行くよ、名前ちゃん
名前ちゃん、と。何度も、何度も、聞こえない様に、聞こえる様に、その名を呼ぶ。彼女が姉に為ろうとする度に、まるで楔を打ち込む様に。『彼女』になど為らない様に。逃げられない様に。
嗚呼、そんな事をする私は結局、待っているだけなのだ。彼女の怯える姿を眺めながら。
「太宰さん」
彼女が自らの意思で、私の名を呼んでくれるのを。
―――――彼女が自らの意思で、私を愛してくれるのを。
(2017.01.13)
柚子様リクエスト「太宰・マフィア時代の太宰さんに執着される」