「唾液交換って素敵じゃあありませんか」
探偵社の入った赤茶の建築物の一階、喫茶処『うずまき』。その一つのテーブルでうっとりとした声を響かせる女性。
「そうですね」
持っている陶器杯(カップ)の中の珈琲の元であろう豆のひとかけら分も興味が無さそうな声で同意するのは、彼女と同じく探偵社員である白い髪の少年。
その隣に座る、生真面目そうな眼鏡の青年は、手帳に向こう一週間の予定を書き込みながら僅かに顔を引き攣らせたが、何も云わなかった。
二人の探偵社員―――中島敦と国木田独歩の向かいに座る女性、同じく探偵社員の名字名前は、二人を見ずに何処か遠くの景色でも眺める様な目線で続ける。
「知ってます?長い接吻(キス)をすると唾液の交換により性的興奮が高まるそうなんですよ」
「ほう。それは態々依頼帰りに立ち寄った喫茶の席で云う事なのか?」
「それだけではなく体内の血の巡りも僅かですが良くなるそうです、主に―――」
「国木田さん、名字さん聞いてません」
「知っている」
真昼間から深夜三時頃の勢いで話す名前を呆れ気味に見つめる二人。周りに居る客はそんな三人を微笑ましく見守っている。
国木田と、もう一人の探偵社員であり彼の相棒―――その攻防を知っている喫茶店の常連たちは、もう一つ、この店が騒がしくなる原因を知っていた。そして彼等は静かに席を立った。
果たして速やかに消えた彼等の予想通り、議論は明後日の方向へ飛ぶ。
「で?急にそんな事を云い出して今度は何だ」
「よくぞ訊いてくれました国木田さん!!」
「聞きたくないんだがな……」
「私はっ!太宰さんの唾液が飲みたい!!」
苦々し気に問う国木田とは対照的に、晴れやかな笑顔と透き通った声で、名前はきっぱりと云い切った。
「そうですかー」
「はい其処っ!敦君!『またか此奴飽きたなあ』って顔しない!!」
「毎度毎度お前の願望を聞いていればそう為るだろう、敦も」
そう、これは何時もの光景なのだ。
―――探偵社員、太宰治。何を隠そう名前が恋い慕っている相手である。
容姿端麗・文武兼備・清廉潔白、あの甘い声に自らの名を呼ばれたら喜びに身を震わせずにはいられない―――とは名前の談である。
「然し……今度は……せ、接吻……ですか。珍しくこう、純粋な方向に行きましたね」
「敦。此奴に毒され過ぎだ。『相手の唾液が飲みたい』の何処が純粋なんだ」
「え……だって素敵じゃあないですか!?」
「名字、お前は少し落ち着け」
「其処で私はこんな作戦を考えました!!」
無視(スルー)された国木田の顔に青筋が立つ。今度は敦がまあまあと宥める番だった。もっとも彼も顔は引き攣っていたが。
「名付けてっ!『貴方に飴をあげましょう〜但し口移しで〜』作戦!!」
「凄いですね。作戦名って聞いただけでこんなに不安になる物なんですね」
「概要はこうっ!」
其の一。太宰が飴を欲しがる。
其の二。飴を口に含む。
其の三。口移しで―――「一寸待て」「何ですか国木田さん?」
遮られた名前が不満げに問う。国木田がぎろりと睨んだ。
「貴様、其れを何処で実行する心算だ」
「えっ……」
「『えっ』ではない!!貴様が処構わず太宰に中っては砕けている所為で苦情が来ているんだぞ!!」
「だって……普段の生活の中で実行してこそ意味があると云うか……」
「もっともらしい事を云うな!!」
ぎゃんぎゃんと云い争いをする二人。敦はふと給仕の女性と目が合い、申し訳なさそうに目礼をした。彼女は苦笑して首を横に振る。
それにしても、と敦は思う。真逆太宰と同等、あるいはそれ以上に国木田に怒鳴られている者が探偵社に存在しているのは何とも云い難い事だ。社に来たばかりの頃は目を白黒させていたが、今では周りの者同様、触らぬ神として扱っている。あの、兄妹に見えない兄妹の様に。
まあ、慣れてしまえば、たかが少し恋心を拗らせてしまった乙女の奮闘である。例えその方法がストーカーに限りなく近かったとしても。
溜め息を吐きつつ先輩二人の攻防を眺めていると、カラン、と来客を知らせる音が鳴った。
「はあ〜。参ったなァ」
「あ、太宰さ……」
「太宰さぁん!!」
其処には長い外套を脱いで腕に掛け、表情を曇らせ乍ら来店した―――件の男、太宰の姿が有った。
太宰は同僚たちを見つけるなり三人に近付き、「やあ、国木田君に敦君」と、約一名を無視して席に座る。
「太宰さん私も居ます!!ああっでもその横顔も最高っ!!」
「私とした事が、心中の誘いを断られてしまった」
「何時もですよねそれ」
「おい太宰、隣を見ろ」
「やれやれ、然し数人に連続で振られると堪えられないねえ」
「疲れている表情も素敵です太宰さんっ!!」
「おい太宰、俺はもう付き合わんからなその隣の生物に」
国木田に云われ、頬杖をついて愚痴っていた太宰が、漸く隣に顔を向けた。
国木田に負けず劣らず、厭そうな表情である。
「……ああ、居たの名前……」
「きゃあああ!!名前呼ばれたあああ!!」
「敦君、一寸この子殴ってくれない?」
「厭です」
美人が居れば悉く口説き、多くの女性と浮名を流した太宰が、此処まで嫌悪を示す女性は名前だけであろう。
事実、探偵社に入ってからではあるが、太宰が名前以外にそんな顔を向けた処を、敦は見た事が無い。
太宰が名前を嫌う、その理由は明白な訳だが。
「……処でその大量の飴玉は何だい」
「こふぇはとはふさきゅしぇんのためなにょでしゅ!」
「何て?」
「貴様何時の間にっ……!?そしてもう口に含んでいただと!?」
「名前さん……此方に持ち込むのは流石にマナー違反では……」
驚愕する国木田は置いておき、敦は呆れた様に云いつつ太宰に目を向けた。
太宰は頬杖をした侭名前を半眼で眺め、その口はへの字に歪んでいる。
「だざいしゃん、あめがほひくはないでふか?」
「……私?飴を?」
それにしても、彼は何故此処に来たのか。名前の姿が見えた時点で探偵社に帰っても良さそうな物なのだが。
思えば、不思議と太宰は逃げる選択をしない。彼が名前を避けるのは至極簡単な事であろうに。
例えるなら、名前が牛の如く突進してきたとして、太宰は其れを躱し蹴り上げる位はしても、前もって接近を妨いだり避けたりはしないのだ。敦は其れが不思議だった。
「へえ、飴くれるんだ。何で直接渡さずに訊く訳?」
ほら、こんな風に。
「もう、通じるのが遅いです。小さくなっちゃったじゃないですか」
「普通に話せるくらいになったね」
「然し大丈夫です。まだまだ飴は有ります」
二人を見ていると頭が痛くなったのだろう、国木田が頭を押さえて立ち上がった。
「……敦。俺は戻るぞ」
「あ、僕も行きます」
「一寸二人とも、これと二人きりにする気かい?」
「『これ』って……名字さん、先行ってます」
すると名前がくわっと目を見開き云う。口の中にまだ飴玉が見えた。
「待って!終わるまで此処に居て!一人は恥ずかしい!」
「莫迦か貴様は」
「……『終わる』って何が?」
「と云う訳で太宰さん!!どうぞ!!」
小さくなった飴では良くないと思ったのか、名前が新しい飴玉を個装紙から取り出す。そしてその小さな唇に挟んだ。ニコッと微笑み、顔を太宰に近付ける。
「……………………………………敦君、翻訳お願い」
「『どうぞ』」
「………………あ、うん…………はあ」
莫迦だねえと云わんばかりに溜め息を吐き、太宰がひょいっと手をあげて、名前の口からその飴を取ってしまった。
「ああ〜違いますよう〜太宰さ〜ん」
へなへなとして萎れた声を出す名前。太宰は其れを眺め乍ら、飴玉を口に入れず手に持ち、態とらしく小さく首を傾げた。
「え?何が違うの?」
「だからぁ……」
「まだ何もしてないよ?」
その場に居た全員が顔に疑問符を浮かべ―――次の瞬間名前と太宰以外の人物の表情は驚愕に変わった。
「……?」
名前の目の前に太宰の顔が有った。かなりの至近距離で、名前は思わず離れようとしたが後頭部に回された手によって阻まれる。口が何か温かいものに塞がれている。
それが目の前の人物の唇だと名前が気付いた時、完全に不意打ちを食らった為に無防備に空いていた歯の間から、柔らかいものが侵入してきた。それは態とらしくゆっくりと名前の口内を舐め回し、其の侭僅かに残っていた甘い塊を攫っていく。
二人の口が離れると、飴の所為もあってかねっとりと垂れた糸を拭い、太宰が立ち上がる。
奪った飴を口の中で転がし乍ら、太宰が名前の顔を眺めた。
「…………そういう表情してれば可愛いのに」
それだけ云うと、もう一つの飴も口に放り込んで、鼻歌を歌いながら店をさっさと出て行った。
静寂が店内を支配する。
「……あの、名字さん」
「………………」
「敦。行くぞ」
「えっ、あ、えっと、はい」
敦は硬い表情で云う国木田に同意し、その後太宰の名を全力で叫びながら駆けだした彼の後を追おうとした。が、其の寸前に振り返る。
名前は顔を真っ赤にして震えていた。その姿は何時もと真逆で、まさに可憐な乙女と云って過言ではないだろう。
然し、敦はそういう目で彼女を見てはいけない気がした。
直感だ。生前本能の為せる業と云うべきか。
『彼』以外の者が名前を邪な目で見た瞬間―――何か途轍もなく面倒な事がその身に降りかかるのではないか。
だけど、その直感が正しかったのかが判るのは、まだまだ先の未来になりそうだ。
上階で公序良俗がどうのと折檻される太宰の悲鳴を聞き乍ら、敦はそう思うのだった。
(2017.01.20)
ももん様リクエスト「太宰・太宰さんのことが大好きな変態チックな女の子と彼女のことが本当は好きだけど素っ気なくしてしまう太宰さんとのお話」