(SHORT「蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は」「報われる事のない蜘蛛の愛」続き
暴力的な表現が有ります)
虫が蜘蛛に食べられる時と云うのはどのような痛みが有るのだろう。否、最早痛みも無いのだろうか。痛みも苦しみも無く、安らかな気持ちで逝けるのだろうか。
だったら、痛みを感じる私はまだ死なないんだろうか。
「名前」
呼ぶ声に意識を引き戻される。それと同時にパン、と乾いた音が鳴って頬に痛みが奔った。
「名前?聞いてる?ねえ、君の耳は私の声すら拾えないのかい」
返事をしようにも苦しくて出来ない。柔らかくて広い寝具は心地が良い筈の物なのに私の上に伸し掛かっている人物―――太宰に首を掴まれているから息すら侭ならない。
それでも口を開こうとすると、首を掴む手が更に締まり結局苦しさに呻き声のみが出る。
「苦しい?…………可哀想に」
『可哀想に』?どの口がそれを云っているのか。然しそんな事を云えば今度こそ殺されるかもしれない。
私の首を絞めているのは片手だと云うのに、両手で引き剥がそうとしてもビクともしない。涙が滲む視界で太宰を睨んだ。
太宰は無表情だった。まるで興味も無いのに人形が壊れる様でも見ている様な目。
「拒もうとするから苦しいんだよ……其の侭壊れてしまえばいい」
囁かれて、顔を寄せられ口付けられる。噛みつく様なそれは痛みしか与えてこない。
恋人同士がやる筈のこの行為に情など無い。私はただの餌だ。蜘蛛は今日も空腹だろう。私はずっと満たされる事など無いであろうそれを慰めるためだけの無力な餌だ。
「ねえ、名前。名前、――――――」
口付けの合間に囁かれるその言葉に全く感情は感じられない。きっと意味も無い。
首を絞める手が外れて、襯衣の下に這入り素肌の上を滑る感触がした。息苦しさと痛みの中で、この行為にも感情なんて無いんだろうと思った。
早く壊してくれればいいのに、と願った。きっと楽になれるだろうから、と。
諦めていた。もう逃げ場など無いのだからと。
「……母さん?」
「名前。お帰りなさい」
「ただい、ま……」
帰宅すると目に入った母の姿に驚く。時計を見ると、もう早朝と云ってもいい時間だ。今まで起きてくれていたのか。短く言葉を交わして、母が立ち上がった時だった。
ふと、母が私の方を見て、動きを止めた。
「…………?名前?」
「何?」
「首……如何したの?」
ビクリと体が震えた。首を横に振り、笑顔で誤魔化す。
「否、何でも無いの。ごめんね、心配かけて」
「……名前」
然し、母は呆然と私を見つめた。そしてその目に、深い悲しみの色が滲む。
「……ごめんね」
母の口から言葉が洩れる。それは謝罪の言葉だった。
「……ごめんね。お母さんを赦して」
「……母さん?」
母が何を云っているのか判らなかった。ただただ泣き崩れる母を見て、私は訳も判らず彼女を抱き締めた。
母はずっと、泣きながら悲痛な声で謝り続けていた。
諦めていた。でも諦めきれない気持ちも有った。蜘蛛の糸など、断ち切ってしまえば良いのではないのかと。
蝶が蜘蛛の巣に掛かっている。まだ生きている其れは、バタバタともがいて逃れようとした。然し羽が動く度にそれは絡まっていく。見詰めていると、それはやがて動かなくなった。
それを見届けて、ふらつく足を何とか前に進ませた。
掃除なども何も云いつけられて居ないにも関わらず地下へと来ていた。一人になりたかった。太宰に逢いたくも無かったし、母の事も頭から離れず、少し落ち着く時間が欲しかった。
「…………」
首に手を添える。もう痛みは無いが、触ると微かに違和感があった。
痕が残っているのが見なくても判って、まるで首輪でも着けられた気分だ。
「…………う」
不意に吐き気が込み上げてくる。昨日碌に寝ていない所為か。あれからまた本部に来たから、一睡もしていない。
ああ、それとも。私は此の侭死んでしまうんだろうか。
然し口から漏れ出てくるのはただの嗚咽だった。
込み上げてくる震えを抑えるために、静かに目を瞑る。―――と、其の時。
傍らから呻き声が聞こえた。
顔を上げて周りを見る。そして自分が来た事の無い、地下牢でも奥の部分に入り込んでしまっていた事に気付く。
血の気が引く感じがした。此処には重要な捕虜が居る―――自分の様な何の権限も持たない構成員が這入って良い場所ではない。拙い―――そう思ったが、牢の中の人物を見て私の思考と体が固まった。
見覚えが有った。その声も顔も―――以前、自分と暮らしていた。
でも何故。死んだはずなのに。死んだと母は云っていたのに。
「―――――父さん?」
意図せず口から出た声にも目の前の虜囚は答えなかった。ただ、微かな呻き声だけが生きている事の証明となっている。それ程までに男には生命力と云う物が感じられなかった。凄惨な拷問を受けたのであろう男はもう襤褸雑巾の様な出で立ちだった。
「……何で、此処に」
「その男が裏切り者だからだよ、名前」
聞きたくない声が聞こえてきても、私は父から目を背けられなかった。
「君がポートマフィアに這入る前、君の父親の裏切りによって数人の構成員が命を落とした。本来ならば投獄では済まないのだけれどねえ……」
クイ、と髪の毛が後ろに引っ張られる感覚がした。私の後ろに立った太宰が、見えはしないがおそらくは私の髪の先を指で弄びながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「余罪が無いとも限らないし、まだ相手組織の情報がはっきりとはしていないからね。……ねえ名前。君は裏切り者の娘という訳だ」
低い声は空気を伝って耳に届いている筈なのに、頭の中に直接響いているような錯覚を起こさせた。
「本来ならば自由に外に出る事も赦されないし任務に出るなど以ての外。他の構成員に近付くこともね。何をするか判った物じゃないしねえ」
「……そんな……」
「……逃げたい?」
太宰の声が咎める様な物に変わると同時に髪を強く引っ張られる。後ろによろめいた体に太宰の腕が巻き付く。
耳に彼の息が掛かるのを感じた。首筋を触られズキリと痕が痛んだ。
「君が私の監視下に居るからこうして君の父親も母親も守れているんだよ?父親を逃がされては堪らないからね……君たちを自由にしておくわけにはいかない」
「…………私、たちは、そんな」
「君にとってこの組織の人間は全員敵にも等しいのだよ。勿論中也もね。君の両親も中也も他の誰も君を助ける事など出来はしない、君が生きていられるのは私の下にいるからだ……それでも逃げたい?
―――――そんな事赦せないなあ」
反論する隙など与えられず、ただただ云い聞かせる様に紡がれる言葉に思考する力が奪われて行く。
ああ、此の侭じゃあ、矢っ張り私はただの、餌で―――
「よ、名字」
また違う声が、然し聞き慣れた声が響いた。コツコツと足音が響く中、彼は、あの時と同じ口調で同じ台詞を云った。
「また地下牢の掃除かよ?」
其方を向こうとすると、強い力で頭を押さえられる。頭上で声がした。
「……何の用?任務は終わった筈だけど」
「俺は手前に話しかけた心算は無ェんだが?」
顔は見えないが、私を押さえている太宰が酷く冷たい雰囲気なのは伝わって来た。
「随分必死に口説こうとするじゃねえか」
「おや、諦めたんじゃあなかったの?奪うのは無理だって」
奪う?一体何の話だろう。然し此方は置いてけぼりにした侭、中原が続ける。
「名字。そいつのやってる事はただの自己満足だ。先刻のは手前を支配したいだけの哀れな戯言に過ぎねェ……太宰よ、何もそいつに執着する事ぁ無いじゃねェか」
「………………」
「女が欲しいんだったら探してきてやるよ。似ている奴が良いんならそれでも善い」
軽い口調だが、声音は真剣だった。中原が助けようとしてくれている事に今更ながら気付き、ぐちゃぐちゃだった頭の中がだんだんと冷静になっていく。
…………代わり。代わりの餌を囮にすれば、蜘蛛から逃げられる?
「…………ふぅん。私は女が欲しいなんて云った覚え無いけど?」
然し、希望を打ち砕く様な声が響く。
「この子の代わりになる様な物が有るんなら見つけてみ給えよ……ただし」
ぎり、と押さえつける手に力が籠る。痛い。苦しい。然し其れ以上に―――。
「……私がこの子を手放す理由にはならないな」
嗚呼。判ってしまった。否、そう云えば、最初から判っていた事だった。母の涙や中原の優しさに忘れかけていただけで。
「……………………中原さん」
苦しさで、思ったより声が出ない。中原の驚く気配と共に、太宰の手が一瞬ピクリと反応し、私の口へ向かって動きかけた。押さえる手が離れたその隙に、中原の方を向く。
そして、首を横に振った。
「……いいです」
―――――助けは、要りません。
代わりなど見つからない、と思った。それに、私の代わりが見つかれば私は逃げられるだろうけど、その代わりに犠牲になる人が出るのなら結局同じ事が繰り返されてしまう。
だったら私が餌に為る事で、蜘蛛の犠牲は少なくて済むのだろう。
中原は、不思議な程冷静だった。私の答えが判って居たかのような表情だった。ただ、何処か、悔やむような眼をしていた。それだけで十分だった。心の中で救おうとしてくれた事に礼を云う。
口を塞ぐに至らなかった手がゆっくりと下がる。其の侭私を捕らえていた腕も降ろされた。
その場にしゃがみ込みそうになり乍ら、それでも振り返った。
―――――初めて、笑っている処を見た。否、それとも嘲笑っているのだろうか。
「………………嗚呼、やっと」
巻き付いた蜘蛛の糸は切れない。否、切ったとしても絡みつくのだろう。
「やっと――――――――私を見てくれた」
其処から逃れる術など無いのだ。きっと、その命が尽きるまで。
―――――何時か、喰い尽くされるまで。
(2017.02.16)
ユカ様リクエスト「太宰or中原・『蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は』の続きか同設定で中原のお話」