そして、蜘蛛は今日も蝶を縛る

(SHORT「蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は」「報われる事のない蜘蛛の愛」、リクエスト小説「蝶は蜘蛛の愛に蝕まれる」続き
 暴力的な表現が有ります)





「家を……出て行く?」
「うん。滅多に帰れないし、それならいっそ仕事場に近い処に住んだ方が良いと思って」

 母親が心配そうな顔を向けると、娘は微笑んで首を振る。
 元々滅多に帰って来ない娘が出した提案に戸惑ったが、何処と無く真剣な様子に、結局最後は頷いた。

「……ごめんね。あまり家の手伝いも出来てないのに」
「それは、良いんだけど…………」
「……一寸、部屋を片付けてくるね」

 娘が足早にその場を立ち去る。後には母親がひとり残された。
 娘の様子が可笑しい。近頃は首や腕に妙な痕や傷が増えた。然も其処に来てこの提案だ。
 矢張り、遠くへ逃げた方が良いのかもしれない。

 ―――――逃げる?一体何処へ?

『貴女の動向もポートマフィアが把握しています。妙な事をすれば此方には筒抜けだ。変な気を起こさない事ですね』

 あの悪魔から、如何やって?

『娘を手放したくはないでしょう?』

 ―――自分が娘の枷になっている。そう思いはしてもせめて娘を見守る位はしたい。そして、娘を亡くす様な事は絶対に―――。母親のその想いを利用して檻を構成しているあの男から娘も自分も如何やって逃げ出せると云うのか。自分に出来る事はもう、あの子に何も悟らせず、せめてこの家に居る時だけは穏やかでいてくれるようにするだけ。何も知らない振りをしながら。

「……御免ね」

 母親は何も出来ずに泣くしかないのだ。娘がせめて、あの悪魔に潰されない事を祈りながら。



「やぁ、頑張っているかね」

 あの時と同じ様な状況だった。廊下で組織の長に偶然逢うのは何とも云い難い事だ。にこやかに話しかけてきた首領に礼を返す。
 そう云えば、あの時が太宰から逃げ出そうとしたきっかけだった、と思い出した。
 思い返していると、首領―――鴎外は細めていた目を憐れむ様な色に変えた。

「君も難儀だね」
「…………それは、如何云う意味ですか」
「知らない振りかい?太宰君だよ

 ―――――太宰君の様子を見て君を離そうと思ったんだが……逆効果だったみたいだね」

 逆効果と云いながら、その表情は微笑みが消えていなかった。

「まあ、好きな子の為に一生懸命に為る事は悪い事では無い。太宰君のお陰で一つの敵組織を壊滅に追い遣れそうだ……彼は君に関わる物が自分以外に縛られている事が赦せないんだと思うよ」

 まるで困った子供の話をするように、鴎外が苦笑しながら話す太宰の姿は私から見たら想像もつかない事だが、地下で中原と対峙した時の様子を考えると戯言とも取れなかった。

「太宰君の事、宜しく頼むよ」

 私はただ頷く事も出来ず、もう一度礼をして、その場を立ち去るしか出来なかった。



 思えば、他の構成員と話した事は滅多に無かった。如何やら私は裏切り者の娘とまでは行かなくとも『見張っておく必要のある人物』と周知されていたようだ。周りの構成員は私に近寄りはしないが、太宰の元から逃げない様に見張っているという構図が完成していたらしい。

 中原は太宰の直接の部下ではない為かその認識は無かったものの、私の両親の事は知っているらしかった。気にかけてくれていたのはその事も有ってだろうが、それでも彼の人の善さは判る。

『彼奴にとっちゃ、俺は邪魔者でもあるが、危ねェ処で自分を止める役でもあったんだろ。手前が俺と話していても咎めなかったのはそう云う事なんだろうよ』
 あの地下室の出来事の後、中原と話した時の彼の言葉だ。
『彼奴は確かに狂ってるよ。だが恐ろしく冷静でもある………………ったく、哀れな奴だ』

 そして最後に、こうも云った。

『そうか。結局彼奴は………………』




 執務室の窓の外は暗く、あまり何も見えなかった。もう夜だ。家を出たから帰る処など外には無いが、手を中てて眺めていると、帰りたいという気分になる。
 コツ、と足音がして手を中てている窓に薄く影が過った。窓に執務室の主が映る。

「名前」

 あれから、彼はまた笑顔を見せなくなった。あの時見せた満ち足りた様な幸せそうな―――それでいて何処か莫迦な獲物を嘲笑うかの様な―――表情は幻だったのかと疑いたくなる程だ。

「…………名前」

 そっと首に手を遣ると、今は薄くなった痕の辺りに指が触れた。後ろから腕が伸びてきて首の前で交差する。背中に重みが伸し掛かる感覚はまだ慣れない。

 嗚呼。ただ、一つだけ変わったとすれば。

 返事をせずに外を見ていると、後ろから拘束されていた腕から解放される。其の侭静かに引っ張られ、彼と向き合う姿勢で窓に押し付けられた。

 其の侭塞がれた口にぬるりと這入る物に口内が犯されて生理的な涙が頬を伝った。瞬きをすると、同じく薄く開かれた目と視線が合う。

 その目はもう、飢えた色をしてはいなかった。



『―――――結局彼奴は、あれを「愛」と呼ぶんだな』



 この壊れた様な日々が続いていくのかと思っていた。あの日、太宰の友人が死ぬまでは。



 その事を私が知る前、私は久しぶりに母に逢いに家へと帰っていた。
 家を出てから、母の様子を知る機会は無かったが、電話と手紙で繋がってはいた。昨日の電話で帰れそうな事を話すと、喜んでくれていた。

 家のチャイムを押しても反応は無く、疑問に思ってまだ持っていた鍵で開けた。這入ると家の中は、私が出て行った時とほぼ変わらなくて、然し暗い印象を受けた。直ぐに、閉められたカーテンと、全くしない人の気配の所為だと気付く。

「…………母さん?」

 居る筈の人を呼び乍ら進むと、ふと、何時も食事をしていたテーブルの上に、白い物が見えた。よく見るとそれは手紙だった。二つ折りにされたそれを開く。

 母の字で、然し震える文字で、それは書かれていた。


『お母さんを赦して下さい。こんな方法しか取れなくて、ごめんね。』


 形に為らない悲鳴が喉から飛び出す。決して広くは無い家の中を駆けた。

 果たして逢いたかった人は、風呂場で見つかった。細い腕から流れる赤が、水を浸食していた。


『誰の所為でもありません。ただ、私が耐えられなかっただけ。貴女を自由にする方法が、他に見つからなかった。いいえ、本当は貴女の為じゃなくて、きっと自分が解放されたかっただけ。

お父さんはしんだと、でんわが来たの。ごめんね。おかあさんはおとうさんのもとへいきます。

けっしてあの人におどされているのがつらくなったわけではないの。ただ、あなたのことが心ぱいです

ごめんね名前       ごめんね  』


 壊れた様な日々は完全に壊れた。何かがぶつりと切れる音が聞こえた気がした。



「…………ああ、名前。戻って来たんだ」

 太宰の声には応えず、静かに銃口を向ける。執務机に寄り掛かる太宰は首を静かに傾げた。

「…………何に怒ってるの」
「……母が、死んだ」
「……そう」

 微かに銃口が震えている。之は怒りでは無くて、如何やら恐怖らしかった。

「私もね……友人が、死んだよ」

 何の感情も感じられない声が響く。太宰が体を机から放した瞬間、私の体は後ろへ一歩下がった。

「ねえ、名前」

 指を掛けた引き金は動かなかった。否、動かなかったのは私の指だった。指は全く動かなくて、脚だけが私の体を後ろへと運ぶ。

「名前は……一緒に居てくれるよね。私が生きている限り」

 追いつかれ、銃を持つ手を咄嗟に下げようとするが間に合わず、ガシャンと音がして銃は床に落とされた。

「私は……私は貴方と共には居られません」
「でも私が憎いだろう?もう君の大切な物がこの世にない以上今君の心には私しかいない、そうだろう」
「貴方は……貴方は」
「だから私が生きる限り君も生きてくれるよね?そして私が死ぬときは一緒に死んでくれるよね」
「貴方、は」

 手を強く掴まれる。
 あんなに絡まっていた糸はもう無い。私にはもう何も無いから。

「貴方は、まるで―――――飢えた、蜘蛛です」

 それなのに、如何して、私はこんなに恐怖を感じているんだろう。

「蜘蛛?

 ………………それは君だろう……私はずっと」

 冷たい手が頬をなぞった。ゆっくりと口が弧を描く。
 二度目に見る彼の微笑みは、記憶にあるものよりもずっと優しく、慈愛に溢れていた。

「君に捕らわれているんだよ……名前」




 マフィアを抜けてから二年が過ぎた。地下に潜る生活ももうすぐ終わる筈だった。新たな職場となる組織の名は確か『武装探偵社』と云ったか。

「…………太宰幹部、外を出歩いていて良いのですか」

 ふらふらと隠れ家から居なくなった太宰を追うと、河川敷で見つかった。
 砂色の外套が風に揺れ、もう包帯が無い顔が振り向く。

「散歩位良いじゃないか。あともう『幹部』じゃあないよ」
「…………すみません、太宰さん」
「ふふ、そうそう」

 クスクスと笑う太宰は、私から見れば過去とは別人にしか見えない。


 あの時、何故太宰を殺せなかったのかは、母が死んだ事は太宰だけの所為ではない事が判って居たからだと自分では思っている。

 父の死因は拷問の末の衰弱だった。父の死を知った母は、元から募っていた絶望に耐えられなくなってしまった。そしてその原因は間違いなく私だった。

 後悔はもう届かず、怒りをぶつけたい相手は隣で笑っている。
 何も無くなってしまった。私に残っているのは、この人だけ。

「さて。名前が迎えに来てくれた事だし、帰ろうかな」
「………………」


 いっそ死ぬべきなのだろうと思う。此の男を殺してその後自分も殺すべきなのだろう。
 然し、私は其れが出来ないでいる。


 理由は簡単だ。私は怖い。此の男と共に死んで、永遠に絡め取られるのが怖い。それが単なる妄想だと笑ってくれる人は居ない。

「太宰さん」
 微笑む男に呼び掛ける。

「それは……笑っているんですか」
「……如何云う意味?」
「…………いいえ。ただ………………怖くて」
「そうかい?」

 恐怖を率直に告げた私に、一瞬きょとりとして。
 太宰は先刻よりも、深い笑みを浮かべた。


「――――――そりゃあ良い」

『ねえ、名前』


 私はその笑顔を見る度に思い知らされるのだ。
 私の全身に絡みついていたのは、本当は無数の蜘蛛の糸などではなくて。
 たった一本しか無い、鎖だと云う事を。


「名前」
『名前』

 この人に出逢ってしまった時から、一本の鎖が。

「帰ろう」
『あいしているよ』

 今もずっと、私をこの人に繋ぎ止めているのだ。


 その鎖が切れる事は無いのだろう。この人が、それを―――

 ―――――『愛』、と、呼ぶ限り。

(2017.02.16)
紫苑様リクエスト「太宰・『蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は』続編で太宰さんがマフィアを抜ける前か後」
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