貴方に、最後に『愛してる』と云ったのは、何時だったかな。
「……名前。名前、ほら起きろ莫迦」
「うう……後一分……」
「ほう?一分で起きるんだな?寝たら叩き起こすぞ」
「起きます……」
呻き声が口から洩れるのは放って置き、上半身のみを寝具から起こす。私では一生働いても購う事は出来ないくらい高価な掛け布団がパサリと音を立てた。初めて寝た時は緊張していたのに、今ではもう何も思わない。慣れとは恐ろしい。
横に顔を向けると、ベッドの横の小さなテーブルに、湯気の立つ深皿が置かれる処だった。おそらくスープだろう。この寝具から滅多に出ない私が食べられる物は健康面や食欲を考えてもそう多くない。
「食えそうか」
「うん」
それを持ってきた男を見る。青い目と視線が合う。海みたいな色だなあ、と思う。
何故そう思うのか不思議だ。私は海を見た事が無い。だってこの部屋から出た事が無いから。
「ありがとう、中也」
此処は中也の職場で与えられた一室らしい。らしいというのは、私は此処以外知らないからだ。
生まれつき、病気で歩けなかった。外に出た記憶も無い。私は此処で何時も寝具の中で過ごして、夜が来たら眠る。
私の世話をしてくれているのはこの部屋の主である中也だ。食べ物は主に彼が持ってくる。着替えやら風呂やらは流石に羞恥心の方が勝って何とか自分でやってはいるが、車椅子も無いので移動も出来ないため中也に連れて行ってもらうしかないのだ。
「それ食ったら、これ飲めよ」
「はあい」
ことり、と置かれた容器には、この病気と同じくらい長い付き合いの苦い薬が這入っている。もう一つ置かれた容器にも薬が這入っていて、此方は甘い。
あの薬は本当に嫌いだ。だって本当に苦くて、何時も意識が飛ぶ。そうしたらもう一つが飲めなくなるので、後から飲む。もう一つは甘いけれど、頭が痺れるから嫌い。
嫌いだけど、吐き気がするほど嫌いだけど、飲まないと中也に怒られる。彼は折角綺麗なのに何時も怖い顔をしている。
でも、其れを怒る時の中也は、もっとぞっとする様な怖さになる。治らなくても良いのかと脅してくるけど、もっと違う意味が込められる気がする。だから逆らえない。
考えていると、食べる手が何時の間にか止まっていた。それに気付いた中也が「如何した」と心配そうな表情になった。綺麗な手が頬に触れてくる。
「う、ううん、大丈夫。ごめん、ぼうっとしちゃって」
「真逆、また熱上がったんじゃねえだろうな」
「大丈夫だよ」
この人の手は好きだ。温かいし、触れる時の、壊れ物を扱う様な優しい手付きが好き。そういえば、手袋は如何したんだろう。外套も無い。帽子だけは被ってるけど。
「ねえ、中也」
「ん?」
「手袋とか外套とか、置いてきたの?」
中也が目を見開いた。
何か可笑しい事を云っただろうか。だってこの人、何時も外に出る時は勿論室内だって―――。
………………外?
「中也、あのさ」
「……………………」
駄目だ。直感的にそう思った。この目は駄目だ。
先刻の驚きは消えて、もう何も読み取れない目は真っ直ぐに此方を見下ろす。何時も浮かぶ優しさが其処には無い。何も無い。
青い、ただ青い目だ。まるで海の様な。
何か、何か云わないと。
「あ、の…………」
「…………」
「あのさ、海行きたい」
「…………海?」
「うん。行った事無い……から……」
無い筈だ。何時か約束してから、一回も連れて行って貰っていない。あれは何時の事だっけ。確か、車で連れて行ってくれると約束した。
「…………そうだな。連れて行く約束だったな」
ほら、彼もこう云っている。やっと笑ってくれた彼にそっと抱き締められる。
「何時か行こう。だから今は自分の事を考えろ。その体調じゃあ無理だ」
「……うん」
「海だろうが山だろうが連れて行ってやるから。薬飲んで安静にしてろ」
「……うん」
促される侭に薬を飲む。嗚呼、甘い、苦い、本当にこの薬は嫌い。
何時かこの薬を飲まなくても良い日が―――そう云えば、この薬を飲み始めたのは何時だっけ。
私がこの部屋に来たのは何時だっけ?最後に外に出たのは何時?
『矢っ張り海は綺麗ね、中也の瞳みたいだよ』
最後に海に行ったのは、何時?
頭がぼんやりして、何時もの眠りにつく中、最後に見えたのは、悲しそうな色を宿す青だった。
次に目が覚めたのは、昼頃だった。此処は何処……嗚呼、そうだ、中也の部屋。最後に起きたのは昨日の昼頃。
薬が切れかけているのか、それともまだ効いている所為なのか、起きたばかりだからか、体を起こすと頭がガンガンと痛む。振っても勿論治らないが、少し落ち着きはした。
と、其の時、視界の隅に赤が見えた。驚いて横を見る。
美しい人形が、其処には居た。赤いワンピースが病的に似合う金髪の美しい人形。にっこりと笑うその顔は、じっと此方を見ている。
「……お人形さん、何処から来たの?」
中也が持って来たのだろうか。否、抑も、こんなに綺麗に二本足で立つものだろうか。
すると人形は、クスクスと笑い声を上げて問いに応えた。
「お人形だって。変なの。お人形はアナタでしょう?」
「……え?」
「お人形さん。チュウヤのお人形さん」
ちゅうや。中也。一瞬誰の事だと呆然とした。だって云われた事が余りに荒唐無稽。私が何だって?
その人形は一頻り笑うと、私の寝ているベッドまで来て肘を突いた。私を見上げてニコニコ微笑む。
「アナタの飲んでる薬、何だか判る?」
「……病気の、為の」
「うふふ、そうよ。アナタを病気にしておくためのお薬」
苦くて、甘い。
最後に海に行ったのは何時だっけ。
「こっちの薬は、歩けなくするための。こっちは頭に効くんですって。洗脳の為のお薬。リンタロウが云ってた」
でも、外に出た事は無い。私の記憶の中では。
「此処に居ればアナタはお人形よ。ずっとチュウヤのお人形。外に出たい?」
「外?」
「うん。リンタロウがね、訊いてきてって。今、チュウヤは居ないから、今なら逃がしてあげられるよって」
「……首領が……」
逃げられると云ったのか。此処から。
少し考えて、私は首を横に振った。
「……いいえ」
「…………此処から出たくないの?」
「出たいですよ。でも、それは私が死んだ時で良いんです。エリスお嬢様、首領にそうお伝え頂けませんか」
「でも、名前ともう遊べないのは寂しいわ」
「中也に相談してみます。だからもう少し此処に居させてください」
そう。でも、あたし待ってるからね。
そう云って、何時の間にか人形は居なくなっていた。
「……名前。名前」
「……ん」
目を覚ますと、中也が顔を覗き込んでいた。ちらりと見えた窓は外が暗い。仕事が終わったのだろう。この人の執務室は少し離れた処に有る筈だ。
「大丈夫か?魘されていたが」
「…………うん、大丈夫……」
「そうか……飯は?食えるか?」
「……否、食べたくない……」
中也が顔を顰める。然し、記憶が正しければその中にも薬が仕込んである筈だ。最初の頃は吐き出してしまって大変だった。あれからどの位経ったのだろう。今ではもう飲み干せる位に体が慣れてしまった。
中也が持っている容器に目が行く。
「厭だ……」
「名前?」
「飲みたくない。忘れたくない」
飛び起きて、中也に手を伸ばす。服の裾を掴んでその顔を見ると、何処か泣きそうな顔をしていた。
「逃げないから。私はずっと此処に居るから。だからそれは」
貴方と一緒に海に行きたい。もっと貴方と話していたい。
出来ればまた隣で歩きたかったけど、貴方が厭だと云うなら此処に居るから。
顔を歪めた儘の中也が、不意に私から目線を背けた。
「…………ああ。手前がそう云うなら」
嗚呼、判ってくれたのだろうか。
もう一つ、云わなければならない事が有る。云わないと、今云わないときっと―――そう思って口を再び開いた時。
カラン、と空の容器が床に転がった。
其方に気を取られた一瞬の隙に、顎を掴まれ上を向かされる。開いた口が何で塞がれたかを悟り身を捩るが、押さえ付ける相手に敵う筈もない。
せめてと閉じた歯列に柔らかい舌が無理矢理割り込む。抵抗なんて無意味だと、冷たい液体が流れ込んでくる感覚で悟った。
息苦しさに、飲み込むしかなかった。中也が其れを確認して唇を放す。
起きていられなくて、また寝具へと倒れ込んだ。意識が沈んでいく。中也の顔も、もう見えない。頬を撫でてくる手が冷たい。きっと外に居たからだ。
ああ、外に出たいな。偶にで良いから。貴方と一緒に。
「…………済まない」
でもそれを、この人は望んではいないのだ。だから、外に行きたいなんてもう云わないから。
せめて、これだけは云わせて。
「名前………………愛してる」
私も貴方を愛している、と。
目を覚ますと、眩しさに目が眩んだ。
「ああ、起きたな」
「……あれ、中也?仕事は?」
「今日は書類だけだ。判子押すだけだから此処でも出来る」
それ位ならば手伝えるかな、と起き上がろうとすると、力が這入らず転びそうになった。中也が慌てて寄って来る。
「何してンだ莫迦!病気なんだから無理してんじゃねえよ!」
そうだった、私は病気だ。だから此処から出た事も無いし、昔から中也の世話になっている。
ごめんごめんと笑いながら寝具に戻り、ふと、中也を見た。
青い目が綺麗だった。
「海みたい」
「は?」
「中也の目。海みたいで綺麗」
「……そうか」
一瞬、その表情に驚きと悲しさが見えた気がした。気の所為かもしれない。礼を云う彼は今、優しく微笑んでいるから。
「何時か、海に行こう」
その約束に頷きながら、何故か胸が痛むのを感じた。病気の所為ではなくて、心苦しさで。
何かを云えなかった気がする。でも、それが何かは判らなかった。
(2017.03.27)
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