それから


 火がついたような赤子の泣き声が部屋中に響き渡る。
 それを傍で眺めていた斎藤一は、赤子をそっと優しく抱き上げるものの、その大粒の真珠のような涙が止まることはなかった。

 赤子が泣くのにはきちんと意味があるらしい。
 腹が減っているときや、眠いとき。あるいは不快なことや不安なことがあるときなど、様々な理由があるのだそうだ。
 もしやこの子は、今後自分の身に起こることをもうとっくに予期しており、それで動揺を露わにしているのかもしれない。
 そう思った一は、侮れんな、と小さく呟いた。

 暫く赤子のご機嫌取りに努めるが、いくらあやせども一向に泣き止む素振りを見せない。それどころか益々大きくなる咆哮に、一は酷く困り果てた。
 以前は沖田総司や永倉新八と並んで最強の一角として恐れられていた自分が、まさか人を殺めることではなく、赤子を泣き止ませるのに難儀するとは。誰も予想だにしなかっただろう、何せ自分ですら予想していなかったのだから。

「一さん?」

 不意に背後から声がする。その主は言わずもがな名前だ。此方を心配そうに窺っている。
 一は何も言わずに腕の中を見せると、名前の細い腕が赤子を抱き上げた。優しく揺らしながら、とても柔らかな声で彼女が赤子に話しかければ、先程まで雨のように留めどなく流れていた涙はぴたりと止んでしまった。ほんの数秒の出来事だった。

 静まった赤子は、涙の膜を張った大きな目で此方を見てくる。泣きすぎてぼんやりとさせた顔は名前と瓜二つだ。否、他の何処を取って見ても名前そのもののように思え、一体何処に自分の遺伝子が入っているのかと疑わしくなる。同じなのは最早性別だけだ。

 名前はまだ少ししゃくりあげている赤子を落ち着かせる為に、今度は背中をとんとんと軽く叩く。すると赤子の目蓋は次第に垂れ、彼女の細腕の中でくうくうと寝息を立て始めた。泣き疲れたのであろう。それでも紅葉のような手は名前の襟元をしっかり掴んで放さないのだから驚きだ。

「やはり母様の腕の中が一番安心するか」

 まあ、この女の傍にいると、安心するという気持ちは分からんでもないが、と内心で付け足した。

 一は手套を外し、赤子の頬を撫でる。大人の自分たちにはない、すべすべとした肌の感触を愉しんでいると、急に名前がくすくす笑いだした。何か可笑しなことでもしただろうか。

「なんだか最近、一さんは優しくなった気がします」
「そうか、昔の俺は優しくなかったか」

 これでも優しく努めていたつもりだが、反省せねばな、と冗談で言えば、彼女はわたわたと慌てて否定した。

「あの、昔はもっとこう…、来るもの皆傷付けるような雰囲気を持っていて…。いえ!それでも私はとても好ましく思っていたんですけれど…。今はどことなく違うような気が」
「妻子持ちの男が、来るもの皆傷付けてどうする」

 流石に落ち着きもする、と呆れ顔で一は答えたが、己の雰囲気が変わってきていることなど、言われずとも自覚している。
 その原因が、この女と一緒にいるからだということなど、自分が一番よく理解している。
 誰にでも優しく、疑うこともせず、騙されやすい性格に感化されて、己の情け容赦のない性格が徐々に和らいでいるのだ。
 随分と絆されてしまったものだと思う。だからといって貫き続けてきた信念が揺らぐことは決して無いのだが、それでもやはり認めたくはない事実である。

「…そろそろ休憩は終いだ。さっさと支度しろ」

 一は誤魔化すようにそう言った。

「北は冷えるからな、暖かくしていけよ」
「……ずっと思っていたんですけれど、私への扱いが子供のようではありませんか?私だってもう二十五を過ぎたんですよ。それほど若くありません」
「十分若い」

 若すぎるくらいだ。
 こちとらもうそろそろ四十も目前に迫ってきているというのに。

「この間風邪を引いたばかりなんだ、少しは身体に気を配れ阿呆」
「…すみません」
「お前には長生きをしてもらわなければ困る」

 善処します…。名前は肩を落としながら答えた。

 産後で筋力が落ち、免疫力が低下したせいか、名前は最近体調を崩しやすくなった。
 今でこそ落ち着いているが、一時期は血の気も悪く、ただでさえ細い身体はより細くなっていた。子に栄養分を母乳で分け与える為に、己の栄養が不足してしまうのだろう。
 やはり子を産み、育てるのは命懸けなのだ。
 それでもこの女は二人目も欲しいですね、と笑顔で言っていたのだが。

彼方あちらは東京とは違って自然が多い。比較的療養しやすいだろう」

 良い温泉もあるらしい、一度は行くか、と言えば、名前はきらきらした顔で頷いた。楽しみなようだ。

「そういえば、彼方あちらに行ったら五郎さんとお呼びした方がよろしいですか?私の姓は藤田ですし…」
「どちらでも構わん」
「でも、周りの人は不審がるのでは…?」
「互いを呼び合う名など、ただの記号に過ぎない。そのような記号ごときに不審がる輩共をいちいち気にするのも面倒だ。お前の好きに呼べばいい」
 
 俺が呼び止めれば必然と相手はお前になるという事実があれば、それで十分だ。
 そう言うと、名前はきょとんさせた。

「どうかしたか」

 不思議に思った一が訊ねると、彼女はええと、と躊躇いがちに口を開く。

「以前にも似たようなことをおっしゃっていた方がいたので、少し、驚きました」

 曰く、暴漢に襲われそうになったところを助けてくれた恩人なんだそうだ。そしてその人物に短い間家に匿ってもらった上に、跳躍のきちんとしたやり方も教えてくれたのだ、と。

「性格だとか、少し顔付きも一さんに似ていて、恐らく初恋の方、だったのかもしれません。もしあの家を去るとき、彼に引き止められていたら、私はきっと、ここにいなかったと思います」
「ほう、旦那の前で堂々と浮気発言とは良い度胸しているな」
「違います!違いますよ!?過去の話です!もしもの話です!」

 誰一人として味方がいない中、少しでも人に優しくされようものならば、その相手に恋情を抱いてしまうのはごく当然のことだ。事実として、一も同じような手口で彼女を手に入れている。
 しかし、名前の口から知らぬ男の話題が出てくるとやはりいい気はしない。もしもの話とはいえ、その男と添い遂げていたのかもしれないのだから。
 だが、もしそうなっていたとしたら、恐らくこの女は今頃、阿部道之に無実の罪を着せられ殺されていただろうが。

「…一さん、優しくはなりましたが、意地悪なのは全く変わらないです」
「意地悪程度で済ませるな。俺は本気で怒っている」
「え」

 どう責任を取ってもらおうか、とわざとらしく口にすれば、いつもの如く間に受けた名前はどうしようと考え始める。そして何を思ったのか、もじもじとさせながら上目がちに此方を見詰めてきた。
 このように追い詰められたときの彼女は、一ですら予想し得ないことを言い出すのでとても面白い。
 今度はどんなことを言ってくるのだろうかと待ち構えていると、

「だんな、さま」

 と、か細い声が不意の一言を発した。

「これから旦那様、とお呼びするのはいかがでしょうか。伴侶としての自覚が足りなかったようなので、戒め、に今度からそうお呼びするようにします」

 旦那様。
 小さな唇を震わせて、名前は何度もそう呼ぶ。
 言葉にすることで徐々に恥じらいが生まれてきたのか、耳まで真っ赤にさせる彼女の表情は酷く艶めいており、斎藤は思わず呼吸を忘れた。

「で、でも、やはり恥ずかしいので、二人きりのときは、はじめさんにしますね」

 何年経っても、この女は腹立たしいほど初々しく、いじらしい誘惑をしてくる。本人はいたって無意識のことなのだろうが、それに毎度翻弄される此方の身にもなってほしい。
 今まで邪な気持ちはこれっぽっちも無かったのだが、図らずも目の前の女に惹かれてしまった一は、この際だから二人目をこさえるのも悪くないか、と手を伸ばす。
 しかし、外から午砲の音が聞こえると、止む無く伸ばしたその手を戻し、舌打ちをした。
 すっかり忘れていたが、今は引っ越しの最中だった。
 
「そろそろ出発する時間だ。行くぞ」

 名前は眉尻を下げながら頷くと、名残惜しそうにあたりを見回した。
 部屋がとても広く、がらんどうなのは、家具を全て撤去したからだ。この家も、じきに売り払ってしまう。
 数年住んでいたこの家に愛着を抱いていた彼女は、いざ出て行くとなると寂しいのか、日焼けした壁を撫でたり、傷の入った床の上を何度も歩いている。

「後悔しているか」

 家を出て行くことに、俺と生きることに。
 あの時、斎藤に投げた「共に生きたい」という言葉は、今も色褪せていないのか。
 そう問い掛ければ、名前は微笑みながら首をふるふると横に振った。

「私、さみしさだとか、不安だとか、色々思うところはあるんですけれど、後悔はしていないんですよ。これまでの生き方だって、もう全く後悔していないんです」

 これまでの生き方とは、恐らく一と共に生きることだけでなく、名前の過去や、他人に利用されるのを自ら望んだ生き方も含まれるのだろう。

「正しい生き方だったとは決して言えませんが、それが全て一さんに繋がっていたのなら、後悔なんて少しもないのです」

 一さんと生きる人生に、後悔なんて少しもないのです。
 名前はそう言うと、撫でていた壁から手を放し、此方に歩み寄ってくる。
 もう何も思い残すことはないような真っ直ぐとした瞳は、一を捉えて離さない。

「…まあ、俺と共に生きたいと言った以上、何が何でも連れて行くがな」

 この女を手放すという選択肢は、夫婦になったときからとうになくなっている。任務で遠い土地に行くことになったとしても、この女を、この赤子を連れて行かなければ、手元に置いておかねば気が済まない。

 一は名前の腕の中で寝入っている赤子、つとむを抱き上げる。それから荷物を持って玄関に行き、靴を履いた。遅れて草履を履こうとしている彼女に手を貸してあげるのは、勉を身ごもっていたときからの癖だ。彼女が草履に足指を通したのを確認すると、慣れ親しんだ玄関を出る。

「では行くか」

 そう言うと、一は振り向くことなく一歩踏み出した。
 行き先は未開の地、北海道である。


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