それから


番外編 其の六 泡沫に消える



「あら、お久しぶりです」

 一ヶ月と十四日ぶり。
 それは、私が苗字名前さんと最後に会ってから今日再会するまでの期間だった。
 仕事やら何やらで中々会える機会が訪れず、その間はずっと頭の中で彼女のことを思い描いていたが、やはり本物の彼女の方がうんと綺麗だった。
 気品溢れる佇まい。奥ゆかしさを感じさせる丁寧な口調。一度も吊り上がっているところを見たことがない整えられた眉と悩ましい瞳。そしてまだ誰も味わったことのなさそうな赤い唇。全てが魅力的で、見ていると息が止まりそうになる。
 “恋は人を変える”とはよく言ったものだ。昔は女など子供を産む道具でしかないと思っていたのに、今では微笑みを向けられるだけで心臓が跳ね上がり、こんなにも苦しくなってしまうだなんて。誠に信じ難いが、紛れもない真実だった。
 そう、私は彼女に恋をしていた。

 出会いは東京府の一角に位置している小さな甘味処。
 久しぶりに仕事の休みを貰った私は、たまたま行きつけの甘味処で男に脅されている彼女を見かけた。
 控えめで大人しく、見るからに気が小さそうな彼女は、男からしてみれば格好の餌食だったのだろう。男は何かと難癖つけて金を揺すり、乱暴を働こうとしていた。そんな暴漢相手に立ち向かうような輩は周囲に一人もおらず、孤独な彼女は怯えている。

 当時の私は、そんな彼女に対して同情心などこれっぽっちも湧かなかった。女が嫌いだからというのもあるが、明治の世において弱者が強者に食われるのは覆しようもない事実だと認識していたからだ。助けてあげようなどという意思も更々無く、女が男に好き勝手されるのは仕方のないことだとすら思っていた。
 だから本来の私であれば、このような光景は見て見ぬ振りをして早々に立ち去っている筈なのだが、久しぶりの非番で機嫌が良かったからなのか、柄にもなく彼女の助けに入ってしまった。それも力で捻じ伏せるのではなく、男に金を握らせて鎮めるという、私には損しかない役回りを担ってまで。最早気の迷いとしか言いようがなかった。

 男がその場から去った後、彼女は私に何度も頭を下げてきた。周囲の目を考えた私は人の良さを演出する為にも「大したことではないので頭を上げてください」と返しはしたが、感謝の意を述べられて悪い気はしなかった。
 礼をさせてほしいと彼女は言う。女に何かをしてもらう気にもなれなかった私は、礼はいらないので一緒に甘味を食べようと適当に提案した。下心は一切無いとはいえど、はたから見れば逢引の誘いだ。しかし彼女は何の警戒もすることなく、快く了承していた。
 そんな経緯で私は知らぬ女と肩を並べ、当たり障りのない会話をしながら甘味を食し、そして何事もなく別れる。もう会うことはないのだろうと思っていたが、案外すぐにも再会を果たした。そのときも同じ甘味処でだった。

 名前さんと甘味処で偶然鉢合わせるのは不思議にも続いた。そのたびに一緒に菓子を食べながら会話をするものの、私は会話自体があまり得意でなかったので、話すことといえば下らない世間話や取り止めのない話ばかり。それでも名前さんは楽しそうに聞いてくれるものだから、女性に嫌悪を抱いていた私でも彼女を好きになるのに然程時間はかからなかった。

 会う回数が増えるにつれ、彼女に対する想いは強く、重くなっていく。
 契りを結びたいと思ったのはいつからだったか知れない。いつの間にか私は名前さんとそういった仲になりたいと考えていた。しかし、これまでまともな恋をしたことがなかった私に恋心を伝える勇気など無く、自身の想いを燻らせたまま、彼女と会えない日がおよそ一ヶ月半続いた。そして今、

「……お、お久しぶりです」

 暫く彼女に見惚れていた後、ようやく出た私の声はとても情けないものだった。
 だって、誰が予想できただろうか。いつもの甘味処ではなく、警察署の前で彼女と再会できるなど。私は咄嗟に門の鉄格子に頭をぶつけて夢かどうかを確認した。

「あの、大丈夫ですか?」
「…ええ。はい。まさか此処で会えるとは思わなかったもので、少し吃驚しただけです」
「私もです。いつもとお召し物が違うので、最初にお見かけしたときは人違いかと思ってしまいました」

 警察の方だったんですね。
 群青色に統一された私の制服を見て、名前さんは驚いたようにそう言った。
 今まで彼女に黙っていたが、私は世間で言うところの官憲の人間であったのだ。腰に西洋刀を帯びていかにも威厳があるような佇まいをしているものの、その実、昇進して帯刀を許されたばかりの未熟者である。

「驚かせてしまってすみません名前さん。仕事以外では警官であることを極力他所に言いふらさないようにしていたんです」
「まあ、そうだったんですか」
「我々を嫌う輩も大勢いますし、大っぴらにしているとなんだか自慢しているみたいで嫌だろうと思いまして、」

 と、言い訳を並べている途中で気付く。これでは名前さんに嫌われたくなかったからだと言っているようなものではないか。否、まさしくその通りなのだが、何故もっと洒落たことを言えないのだ。あまりのかっこ悪さに己を恥じていると、彼女は顔を綻ばせた。

「嫌だなんて思いませんよ。命懸けで国を守ってくださっているのですから、とても誇り高いと思います」

 なんて言ってくれる人は彼女くらいだとつくづく思う。普段から彼女は恥ずかしげもなく恥ずかしい言葉を投げ掛け、私を褒めちぎってくれるのだ。それで私は毎度気分が舞い上がり、惚れ直してしまう。仕方ないのだ。男とは単純な生きものなのだから。

「それに私、警察の方は好きですよ。沢山お世話になりましたから」
「お世話に、なった?」

 彼女の意味深な台詞に首を傾げる。
 思えば、私は名前さんのことをよく知らない。今まで素性を明かさない私に合わせてくれていたのか、彼女も自分のことは話そうとしてこなかったのだ。互いに何も語らず、ただ意味のない会話に花を咲かせるだけの生温い関係はとても居心地が良かったが、お陰で私は彼女の年齢も、出身地も、趣味も、特技も知らないでいる。
 そもそも一般市民なのだろうか。上等な着物を纏っているのは公家や武家の姫君くらいだろう。彼女は一体何者なのか。
 好奇心に負けた私は、「名前さん」と呼び止め、疑問を投げ掛けようとする。が、背後から呼び止められた男の威圧的な声によってそれは掻き消えた。

「何をしているんだ、此処で」

 つかつかと此方に歩み寄ってくる声の主は、藤田五郎警部補だった。
 狼のような鋭い眼光に、後方に撫で付けた長い前髪。腰には我々が使っているような西洋刀ではなく、日本刀を帯びている。いつにも増して不機嫌なのは、ここ最近仕事に出ずっぱりでろくに休めておらず、家にすら帰れていないからだろう。「お仕事お疲れ様です」と頭を下げても、彼は私を見向きもしなかった。

「連絡も無しに突然伺ってすみません。少し、お時間よろしいでしょうか」

 藤田警部補のせいで殺伐としていく空気感のなか、最初に口を開いたのは意外にも名前さんだった。しかもその言葉は知り合いである私にではなく、藤田警部補に向けられている。
 彼女が此処へ来たのにも然るべき理由が存在していたのは驚きだ。しかし何ゆえこの人に用事があるというのか。というよりも二人の関係性はなんだ。知り合いなのだろうか。
 不信感を募らせたまま次に来る言葉を待つものの、彼女は此方をちらちらと見ながら申し訳なさそうな顔をするだけだった。どうやら私がこの場にいては何かと不都合が生じるらしい。
 藤田警部補もそれを察したのか、黙って名前さんを警察署の中へ引き連れて行こうとする。その時に私に向けた彼の射るような双眸は「さっさと仕事に戻れ」と言わんばかりで、これ以上彼らの領域に踏み込むことは許されないのだと悟った。
 結局彼女の用事は不明のままだが、私とて無理矢理聞き出すほど野蛮な男ではない。ここは大人しく二人を見送ることにしよう。名前さんとの一ヶ月半ぶりの再会がたった数分足らずで終わってしまったことに名残惜しみつつ、「また今度」と彼女に微笑んで潔い男を演じたのだった。

 私は警察署へ向かう二人の背中を眺める。
 先程から手に提げている名前さんの荷物が重そうなので、別れた手前、運ぶのを手伝うべきか迷っていると、先に藤田警部補が彼女の荷物を取り上げた。
 名前さんは一瞬驚いた顔をする。しかしすぐにも笑顔へと変わり、彼に礼を伝えていた。
 それから藤田警部補は荷物を持ったまま何事もなく彼女の前を進む。いつもよりも歩幅が狭く、速度も遅いのは小股で歩く彼女に合わせて調整しているからであろう。相手の都合を考えない性格の彼にしては非常に珍しい配慮だが、どうも私の目には彼のその行為が何度も繰り返されて酷く日常に溶け込んだごく自然のものに見えて仕方なく、胸の奥が騒ついた。



ーーーーー



「警視庁に入るのは久しぶりです。私がいたときと何も変わらないんですね」
「まだそんなに経っていないからな」

 警察署内の、人が比較的通りにくい場所に位置している執務室。その扉をほんの僅かに開けると、隙間から煙草の匂いがした。
 私は恐る恐る中を覗き見る。そこには少女のようにはしゃぐ名前さんと、彼女を後ろで見守る藤田警部補が佇んでいる。
 なにをやっているのだ私は。覗きをするなど犯罪ではないか。なんていう罪悪感は今の私にはあってないようなものだった。
 勿論いけないことなのは分かっている。だが私はそれでも知りたかった。確認したかったのだ。先程胸の奥に感じたものはただの勘違いだったのだと、否定したかったのだ。
 二人の間にこれといった関係はなく、他人同士なのだと証明されればすぐに辞め、ただちに去るつもりでいる。この目で見たものや、会話の内容などを口外することだけは決してしないと約束しよう。約束するのは自分自身にだが。

「はじめさんはじめさん。ここ、ここに座ってください」
「はいはい」

 言われた通りに藤田警部補が長椅子に座ると、名前さんも続いて隣に座り「特等席ですっ」と無邪気に笑う。その後も彼女は彼に「はじめさん」と呼んでは何かと他愛のない話をしていた。
 その呼び名は藤田警部補の別名なのだろうか。確か警視庁内で彼が元新撰組三番隊組長、斎藤一だという噂が飛び交っていたような気もするが、まさかそれが真実だとでもいうのか。

「張さんはいらっしゃるんですか?」
「あんなのはとうの昔に逃げた。今頃何処かで刀集めでもしているだろうさ」
「そうなんですか…。仕事以外でもよくお世話になったので、きちんと挨拶をしておきたかったのですが…」
「今後また会うかもしれんぞ」
「何かあるんですか?」
「近々、厄介な任務を受ける予定でな。猫の手も借りたい事態に陥ったら利用するつもりでいる。大した戦力にもならんが、無いよりはマシだ」

 話を聞いている限り、名前さんはどうやら警察の関係者であったようだ。
 現状、女性が警官になることはまず無いので、組織や政治家などの内情を探る間諜ような仕事を任されていたのだと思う。今は何らかの事情で退職しており、藤田警部補とはかつて上司と部下の間柄であったのだろうが、なんとなくそれだけでは収まらないような気がしてならない。

「ところで、お前は何しに来たんだ」

 暫く続いた閑談の後、ようやく藤田警部補が本題を切り出す。名前さんは膝に乗せていた荷物である大きな風呂敷を彼に差し出した。

「任務が長引いて暫く家に帰れないという連絡をいただいたので、お着替えなどを持ってきました」

 必要かと思って、と言いながら広げた風呂敷の中には、綺麗に畳まれた警官の制服や下着、手拭いなどの生活感溢れたものが入っている。それを女性の名前さんがわざわざ男の職場まで持ってくるなど、寝食を共にする関係以外では有り得ない話だろう。私は益々嫌な予感が拭えず、藤田警部補に対して焦燥感にも似た苛立ちを募らせていく。

「門の前で渡せば済むものを。わざわざ隠すほどのことではないだろうが」
「一さん、人前だと恥ずかしいかなって」
「多感な時期のガキか、俺は」

 呆れ顔の藤田警部補を見て、名前さんはころころと笑い出した。私に見せる淑やかなものとはまた違い、心の底から幸せそうな感情が溢れているその笑顔は今まで目にしたことがなかった。

「あと、今お召しになっている制服が汚れているようでしたら、此処で着替えてくだされば持ち帰りますよ?」
「お前も大胆なことを言うようになったじゃねえか」
「勿論!目は瞑っておりますので!」

 慌てている名前さんに対し、「俺の全裸などもう何度も見ているだろうに」と聞き捨てならない言葉を吐きながら藤田警部補は薄ら笑いをする。それから徐に制服の釦を外そうと手を掛けると、名前さんは奇声を上げながらそっぽを向き、固く目を閉じた。
 彼はその様子を余念なく眺める。獲物を刈り取る双眸で見つめた後、釦に掛けていた手を放し、目を瞑っている彼女の頬に添える。そして顔を寄せ、静かに唇を重ね合わせたのだった。

 私は頭が真っ白になる。

「え、」

 と、驚いた彼女は目を開き、じわじわと頬を赤く染めるものの、彼は気にせずに再び口付けをした。今度は軽いものではなく、舌と舌とを絡め合わせた深い口付けだ。いやらしい音が此方にまで聞こえてくる。舌を吸い上げられるたびに服を掴んで震える名前さんは、耐えこそすれ、拒絶することはない。時折漏らす吐息混じりの艶めいた声が彼を受け入れているのだと知らしめている。
 あれほどまでに思い焦がれてきた女性が、別の男と接吻をしている。
 その耐え難い光景に動転し、どうすれば良いのかまるで分からなかった。

「あの男と楽しそうにしていたな」

 名前さんの咥内を一頻り犯した後、藤田警部補は唇を放して言う。酸欠の彼女が首を傾げたので、「門の前にいた奴のことだ」と付け加えていた。
 名前を言われずとも分かる。私のことを言っているのだ。

「見て、いらしたのですか…?」
「顔見知りか」
「よく、甘味処でお会いするので、それで…」
「甘味処?…嗚呼、成る程」

 あの時に見た男はあいつだったか、という意味深な言葉をぼそりと呟いた藤田警部補は、何を思ったのか彼女の首筋に唇を寄せ、舌を這わせた。つつ、と下へ下へと動かせば、綺麗な鎖骨が露わとなる。
 私は一瞬だけ目を逸らすも、すぐに彼女の肌を目に映してしまった。

「…っあの、はじ、はじめさ、ここ、警察署です…。誰かに、見られたら」

 既に見られていることなど露知らず、名前さんは恥ずかしそうに身を捩らせる。

「そういえば、此処でやるのは初めてだったか」
「あああたりまえです!私が此処にいた頃はまだ上司と部下で…。それに職場でま、交わるだなんてそんな、倫理観がないこと、」
「何を言っているんだ。もし俺の倫理観が本当に欠如していたら、お前を部下として置いていた時から既に手を出している」

「その気になれば此処で犯すことなんざ造作もなかったというのに、良識のある男が上司でよかったな」と藤田警部補は口角を上げた。同時に左手を彼女の着物の中に差し込み、太ももから鼠蹊部に向かって移動していく。名前さんは「ん」と魅惑的な声を発しながら咄嗟に足を閉じて彼の手を挟んだ。

「で、でも、結局、やろうとしているではありませんか…」
「今のお前は俺の何だ?部下か?」

 藤田警部補は淡々と問い掛ける。
 不意に水を浴びたように私の心が震えたのは、その答えを聞いたら最後、今まで積み重ねてきたものが全て崩れると本能で分かっていたからである。自分の感情が否定され、自分が自分でなくなってしまうかもしれない恐怖に慄く。
 もうこれ以上は深入りすべきではない、と咄嗟に判断し、耳を塞ごうとするが時は既に遅く、少しいじけたような、それでいて照れているような表情の名前さんが先に小さく唇を開いてしまった。

「……妻、です」

 その二文字を聞いた途端、鈍器で殴られたような衝撃が走る。最も聞きたくなかった言葉が脳内で反芻し、私が今まで感受していた細やかな幸せも、彼女に対して抱いてきた夢も、努力も見事なまでに壊されていく。息もできず、身体を動かすことも叶わず、全身に染み渡る絶望感を静かに享受していた。

 妻。名前さんが、藤田警部補の、妻。
 なんだ。そうか。二人は恋仲どころか最早夫婦の関係だったのか。私が今までしてきたのは滑稽な独り相撲で、彼女の心に付け入る隙など最初からなかったのか。
 名前さんが警察を好きと言っていたのは、対象があくまで“警察”そのものではなく、“藤田五郎”だけということに他ならず、高級感のある着物を纏っていたのも、旦那が彼だったからなのだ。
 私は「はは」と空笑いをすると、全身の力が入らなくなり、ついにはその場で尻餅をつく。胸の奥に抱き続けてきた悔しさと嫉妬心と羨望が行き場を無くして混乱状態に陥り、周りの情景からするすると現実感が引いていった。

「なら黙って抱かれてな。これは必要な行為だ」

 絶望の淵に佇む私のことなど知る由もない藤田警部補は、観念した名前さんを見て、満足げな笑みを浮かべながら言う。
 そして情欲剥き出しの細い目を更に細くさせながら手套を乱暴に外すと、彼女に身体を重ねたのだった。



ーーーーー



 それからの二人は、ただ互いを求め合っていた。
 厳密に言うと、羞恥で逃げ惑う名前さんを無理矢理にでも捕まえて辱めるという酷く残忍で一方的な行為だったのだが、彼女は藤田警部補の嗜虐性に悦んでいて、これがこの夫婦の普段の逢瀬なのだと嫌でも思い知らされた。
 私は吐き気を催しながらも二人の情交を眺める。事が始まってから既に一時間近く経とうとしているのに、根が生えたようにその場から動けずただじっと目の前の交わりを見つめている。
 もういっそのこと誰かに見つかって殴られた方がマシだと思った。藤田警部補に対して憎しみや嫉妬心を抱いておきながら、そんな彼に抱かれる彼女は艶本や春画といった陳腐なものよりも魅惑的で蠱惑的だと思ってしまうのだから。それが、好いた女性が他の男の手によって抱かれているという背徳的行為に興奮しているのだと気が付いたときにはもう遅く、私は相反した思考に嘔吐感を覚えたまま食い入るように見ていた。
 それは最早、現実逃避に近いものだった。
 
「あっ、んん…っ」

名前さんは裾を腰までたくし上げられ、晒した蜜口を後ろから彼の雄に激しく穿たれている。必死に声を押し殺しているのは、誰かに聞かれるかもしれないという危機感に怯えているからだろう。長椅子を掴んで快楽を逃がし、嬌声を出さないように震えている。 しかし藤田警部補が彼女の弱いところであろう場所を一点に責め立てれば、「あ」と甲高い声が上がり、がくんと膝を折って長椅子に倒れ込んでしまった。藤田警部補は気をやって痙攣する彼女の上に跨がって逃げないように追い詰めると、腰を引き寄せて再び背後から雄を食い込ませる。
 
「あ、あ、や、やだ…。もうこれ以上は、」

 藤田警部補は名前さんの頼みすら無視し、雌の部分に強く圧し上げた。はくはくと口を開閉させながら仰け反る彼女はまるで芸術品のようだった。
 手を口元にあてて声を抑えようとしているものの、律動されるたびに途切れ途切れに漏れ出す彼女の嬌声は、頭を蕩かせるくらいに官能的だ。場違いにも執務室に鳴り響く卑猥な音とも合間って倒錯的な状況に昂ぶり、思わず私は生唾を飲み込んでしまう。

「これ以上は、何だ?」
「ふあ…、やら、もうやらなの…」
「そんな甘えた声で言われてもな」

 彼女を犯している藤田警部補は、普段仕事を全うしているときと同じくらい涼しい表情をしている。が、目だけは獲物を捕らえた獣と等しく興奮しているのが見て取れた。彼女の襟元を口で咥えては項を晒し、軽く歯を突き立てる姿はまさしく狼そのもので、ふるる、と震えた名前さんを見て、目だけが笑う。

「本当は警察署に来たのも、わざわざ此処まで移動したのも、俺に犯される為の策だったんじゃねえのか」
「ちが…っ、んっ、ちがうっ、っぁ、わたし、はじめさんのため、を、思って…、ひゃ…」
「どちらにせよ、仕事で暫くお前を抱けなかったんだ。それなりに此方を労ってもらわなければ割に合わん」
「い、いたわる、って、そんな…あん!あ、っ、ひあああぁ!」

 暴力的な抽送に名前さんは悲鳴に近い声を上げた。粘膜の絡む音も一層強くなる。
 藤田警部補のベルトの金具部分が名前さんの双臀にぶつかると、鬱陶しく感じたのか引きちぎる勢いで革帯を抜き取る。革帯のせいで少し赤くなった彼女の柔い尻を優しく撫で、そして強めに鷲掴みをすれば「ひゃん」と彼女は愛くるしく啼いた。
 薄々分かってはいたが、名前さんは被虐性愛の傾向にあるらしい。

 散々快楽を叩きこまれて押し寄せる絶頂の恐怖に戦慄かせると、名前さんは脱力し、長椅子に身体を沈める。同情するくらいに涙を流し、呼吸も儘ならないのだが、藤田警部補はそれすら構わず、己の指を彼女に咥えさせた。

「ん、んぅ、…んん」

 と、くぐもった声を出す名前さんの舌に指を絡ませていく。口淫をさせると言うより指を濡らすことが目的なのか、藤田警部補は思ったよりもすぐに解放してあげていた。しかしそのふやけた指で今度は彼女の尻穴に触れ、そしてあろうことか挿れ始める。

「ひゃっ!ま、まって、そこ、いれちゃ、あ、ああ…」
「久しぶりだから指だけだ、安心しろ」
「うごいちゃ、や、そこは、やら、やら、っひゃあああ!」

 ずぷ、とゆっくり指を埋めて慣らしていき、動かした瞬間、名前さんは我慢していた声をいよいよ大きく上げてしまった。もう快感に耐えられないと言わんばかりに首を振り、羞恥で涙を流す。
 彼女の後孔は普段ならば見ることすら叶わない神聖不可侵領域であり、決して穢してはならない禁断の領域だ。快楽を得るために利用するなど以ての外だというのに、藤田警部補はその領域に顔色一つ変えることなく踏み入れ、躊躇いなく暴いていった。

「何事も経験だと思ってやってみたはいいが、まさかこっちでもイケるようになるとはな」
「っあ…だめ、だめ、もう、ちからがはいらな…、」

 指を穴から出すたびに身悶える彼女の身体は藤田警部補が掴んでいるので倒れることはない。彼女に許されているのは彼の理不尽を受け入れることだけであり、彼のために可愛く啼くことだけである。

「いいのか、そんなに喘いでいたら誰かに見つかるぜ」

 という藤田警部補の煽りに対して彼女は「もうお許しください」と噛み合っていない言葉を口にする。謝罪を繰り返しているというのに、それでも穢されていく彼女は何よりも綺麗で感動すら覚えた。
 蜜口に彼の雄が、その後ろの穴に彼の指が、それぞれ名前さんを絶頂に追いやっていく。
 藤田警部補に捕まえられて動くこともできず、後孔までも責められるという快感と、公共施設の一室でそれを行っているという背徳感で混乱した彼女は屈服し、顔を真っ赤にさせながら「もうきもちいからたすけて」と彼に縋った。完全に陥落した表情だった。
 藤田警部補も憐れに思ったのか速度を上げた後、彼女のなかを圧し潰し、欲を吐き出す。溜息を吐きながらずるる、と栓を抜くと、精液という彼の独占の証が流れ込んできた。

「溢すなよ」

 と藤田警部補が言ったのは決して長椅子を汚すなという意味ではない。彼女を自分のものにしたいだけなのだ。あれだけ彼女を欲しいままにしていたというのに、どこまで我がものにすれば気が済むのか。
 藤田警部補は汚れた名前さんの身体を手拭いで丁寧に拭き取り、乱れた着物を戻してあげる。それから汗だくになった己の制服を脱ぎ、新しいものに着替え始めた。

「俺は先に行くから、お前は少し休んでから帰れ。どうせその脚では帰れんだろうから馬車を用意しておく」

 そう言い残すと、彼は先程の行為など無かったかのような表情で此方に向かってくる。
 私は焦ったものの、虚脱感で逃げ出すこともできず、執務室から出てきた彼としっかり目が合ってしまった。

 藤田警部補は鋭い瞳で私を見る。勝手に覗き見たのだから殺されて当然だと腹をくくったが、彼は特に咎めてくることもなく、すぐに視線を進行方向へと移動させ、そのまま通り過ぎて行った。
 私はほっと胸を撫で下ろしたが、不意に背後から放たれた

「良い女だったろ」

 という一言に顔が熱くなった。

 彼は知っていたのだ。私が彼女のことを好きだということも。二人の行為を覗き見ていたことも。全て知っていて敢えてそのままにしていたのだ。
 私ははらわたが煮えくり返りそうになり、拳をぎゅっと握るが、手のひらにある違和感に気が付き我に返る。妙に粘着質のあるそれを見てみると、己の白濁液がべっとりと付着していた。そして下半身に目をやれば屹立した私の雄が露出しており、そこでようやく私は二人の逢瀬を見て自慰行為をしていたのだと思い出したのだった。
 すると理性が一気に引き戻され、強烈な吐き気を催す。激しい後悔がこの身を襲い、鼻奥が痺れて視界が歪んだ。

 知らなければ良かった。
 名前さんが藤田警部補に抱かれている光景に興奮してしまう己の性癖も、二人の関係性も、私が名前さんを好きになってしまったという事実さえも、知らない方が良かったのだ。
 だって知ってしまったらもう戻れない。
 私は先程の光景よりも美しいものを見ることはなく、彼女以外の女性に興味も抱かない。彼女と結ばれることは不可能だと分かっていても、あれだけ惨めな思いになっても、私は彼女に心底惚れているのだ。
 これからの人生を捧げることができないのだとしても、それでも私はこの先一生苗字名前さんを好きであり続けるのだろう。
 私は己の精液に塗れた手のひらをきつく握りしめ、屈辱感に一人咽び泣いたのだった。


 
top