唐揚げレモン

彼女と暮らして二回目の春が訪れる。


ドラマチックな恋人同士の事件もなく、穏やかに、緩やかに、でも幸せに毎日が過ぎていく。


「そろそろ良いんじゃねぇの?待ってると思うぜ」


一足先に家庭を持った純太の薬指に光るそれは、幸せな未来を手に入れた証。


あぁ、純太。
わかっている。


わかっているんだ。




***


「たーだーいーまーっ」


玄関の扉が勢いよく開いたと思ったら、アルコールの匂いを身に纏い、ほんの少し頬を赤らめた名前が上機嫌に帰ってきた。女子会で近況を報告し合うと聞いていたが、こんなに呑んで帰ってくるとは。


「…名前、飲みすぎだ。シャワー浴びて来て」


酔って楽しげに鼻歌をうたっている名前に声をかけると、ムッとした顔をしてこちらを見た。


「いやっ、はじめちゃんともう寝るっ」
「…だめ」


いやいや、と愚図る彼女の背中を押して脱衣所に連れていく。名前は酔うと少々面倒だ。女子会で彼女の友人たちに迷惑をかけなかっただろうか。いや、この分だと多分迷惑をかけたのは間違いないだろう。嬉しいことがあると飲みすぎてしまう彼女。余程楽しい女子会だったんだろう。


名前との出会いは、彼女の務める広告代理店との交流会だった。その日、グラフィックデザイナーとして働いてるオレは、一応付き合いで出たものの、あまり話す方ではないから壁際の席に座って一人で呑んでいた。そこにベロベロに酔った名前が絡んできて、オレの服にビールを盛大にぶちまけたのが切っ掛けだった。それから、名前の方からお詫びという名の食事やら、オレの方からその食事のお礼という名のデートやらを繰り返して…………今に至る。


「うぅ、立てない〜…」
「大丈夫か?」


洗濯機にもたれて座り込み、一向に動こうとしない名前を抱き起こそうとすると、名前の腕が首に絡み付いた。


ほんのりと鼻を掠めるアルコールの香り、とろんとした顔。それから、押し付けられる胸。


「はじめちゃんが脱がして?」
「…!!」


確かに、このまま脱衣所でするのも悪くない。最近、お互い仕事が忙しくてご無沙汰だったし。しかし、問題が一つある。……ここにはアレがない。流石に将来の約束をしていない状況でアレを付けないのはまずい。シャワーは後回しにして、いっそ名前を横抱きにして寝室に運んでしまおうか。いや、最短距離だとリビングにも常備しているし…。


と、真面目に考えていると


「んふ、本気にした?うっそだよん、はじめちゃんのえっちー」
「…!?」


するりとオレから離れて冗談だと言われてしまった。


……冗談!?


心も身体もやる気だったと言うのに…この酔っ払いめ。無言の圧はアルコールの入っている名前には全く効果無しみたいだ。そんなオレの心中知らずの名前。着替えるから出ていって、と追い出される始末。


見せてもくれないのか……!!


気持ちが昂ったまま脱衣所の外に放り出されてしまった。久しぶりに名前とできると思っていたのに。この気持ちと同調したような下半身の昂りはどうしてくれるんだ。まずい、このまま名前が風呂から上がってきたら襲いかねない。このまま昂りに身を任せてしまったら優しく出来る自信がない。そんな事をして名前に嫌われるのはごめんだ。


だったら…出すしかない…!


まさか久しぶりの放出が自分の右手でなんて…。肩を落としつつ、チラリと脱衣所に目を向けてから寝室に入って扉を閉める。


名前が戻って来る間にすませてしまおう……!




***


「ふぅ、すっきりした〜」


名前、オレもすっきりした…!


とは言えず。ソファに座ったまま、顔だけ冷蔵庫の前にいる名前の方へ向けて頷いた。そうして視界に飛び込んできたのは、冷蔵庫を覗き込んだ反動で不規則に揺れる二つの膨らみ。あの揺れ具合は……付けてないな。済ませておいて正解だった。


「はじめちゃん、何してたの?」


飲み物を手に持った名前がオレの目の前に移動して来た。気が付かれないように、視線を揺れる胸元からゲームにサッと戻す。……良かった、バレていないようだ。シャワーを浴びてほぼ完全に酔いを醒ました名前が、オレの隣りに座ってそのまま肩にもたれかかる。…近い、風呂上がりの石鹸の良い香りがする。


「純太から借りたゲーム」
「あー、悪さしてるわけでもないモンスターを倒しに行って、無慈悲に素材とか剥ぎ取るやつね」
「……もう少し言い方ないのか」
「ふふっ」


話す度に、乾かし終えた名前の髪がサラサラ揺れて首筋を擽る。この擽ったさを何度心地良いと感じたことだろう。


どちらかの仕事が忙しい時や疲れている時は、こんな風に余計な家電は使わず、ルームライトの柔らかい光の中で穏やな夜を過ごすことが多い。いつからそうしているとかも覚えていないし、別に二人で話し合いをした訳でもない。生活音や眩しい照明から少しでも離れリラックス出来るようにと、オレと名前の中で自然と生まれていた決まり事のようなもの。お互いを気遣って生まれた優しさの現れ。


「かなり前からやってるけど、まだクリアしてなかったんだね」


名前の言葉に小さく頷く。


「あ、そのBGM。日中ずっと頭の中で流れてたの。何だったかなって気になってたんだ〜」


はじめちゃんのゲームか〜、と名前が笑う。オレが必要最低限の言葉しか口に出さなかったり、動作のみでの返答をしたとしても、名前は特に不安がったりすることがない。オレの口が開かれる前に、彼女がオレの表情や空気を読み取って、そのまま会話するなんて日常茶飯事。名前とは付き合った当初からこんな感じだ。だから…同棲も自分から持ち掛けた。


そんなオレと名前も一度喧嘩らしい喧嘩をした事があった。良かれと思って、オレが大皿に入った唐揚げにレモンをかけて名前が怒ったあの時だ。確かに、勝手なことをしたオレも悪かった。けれど、レモン一つで珍しく「はじめちゃんの馬鹿!大嫌い!」と声を荒らげた名前に少しムッとして、お互いに暫く口を利かなかった。たった一つのレモンで大人気なく喧嘩したあの日。仲直りに唐揚げが美味しい居酒屋へ一緒に行ったのが懐かしい。


あぁ、今になって思い出すと馬鹿らしくて少し可笑しい。


「なぁ、名前…」


懐かしい思い出話を今すぐ共有したくて、名前に話しかけようと思ったが…。返ってきたのは規則正しい寝息。彼女はいつの間にかオレの肩に頭を預け、眠ってしまっていた。


流石にこのまま寝かせたら首を痛めてしまう。起こさないように、そっと名前の身体を支えながらオレの膝に頭を乗せるような体勢に変えてやった。クッション代わりにしていた丸めたブランケットを、背中から取って名前の身体にかけると、その温もりからはみ出した足を隠すように、彼女の身体がブランケットの中に小さくおさまった。


「今日も一日お疲れ様」


手に持っているゲームの音を消して、膝枕ですやすやと眠る彼女の頭を撫でる。最近、お互いのスケジュールが噛み合わず、恋人らしいスキンシップは殆どしてない。けれど、こういう時間も悪くない、寧ろ愛おしいと思える。
………オレが今、賢者様になっているから思えるだけかもしれないが。


部屋を支配しているのは、時計の針が動く音、たまに冷蔵庫が唸り声をあげる音、オレがゲーム機のボタンを指で弾く音、そして名前の寝息。ただ、それだけ。


あぁ、幸せだ。


彼女と二人きりの空間から生まれてくるこの幸せを形にして残したい。名前の空っぽな左手の薬指を見て、そろそろ伝えなくてらならないと思うのも何度目だろう。


あの日、純太から借りたゲーム。あの日からこの事ばかりを考えながらしているせいか、毎回同じ所で倒されてゲームオーバー。そろそろゲームも、オレと乃々の関係も、次のステージに進みたいところだ。


「ん…、あれ?」


特に大きな音を立てたわけではないが、もぞもぞと名前が身動ぎしてから、ゆっくりと瞬きを数回繰り返した。


「すまん、起こしたか?」
「ううん…私こそ、寝ちゃったんだね。これ、ありがと」


起き上がって身体に掛けられたブランケットをひと撫でする名前。寝ぼけてふにゃっとした笑顔に、大きく開いた胸元。あ、やばい。


「…っ名前」


そう思った時には身体は素直に反応していて、滾っているその部分の形を確かめるように、名前がゆっくりと指でそれをなぞった。


「さっき、一人でしてたのに、もう溜まっちゃったの?」
「……!!」


バレていたのか。隠し事は出来ないな。
じゃあ、オレが悩んでいることも、もしかして……。


考える暇もなく、煽るような指先の動きにあっという間に惹き込まれていく。


「最近ずっとシてなかったもんね…。ごめんね、はじめちゃん」


ちゅ、と音を立てて名前の唇がオレの唇を塞ぐ。唇を重ねたまま、名前がオレのハーフパンツに手を入れて、直にそれを上下に擦り上げる。さっき放出したとはいえ、弱いところを知り尽くしている彼女からの刺激に早まる限界。


「んっ……、その顔、もう限界でしょ。はじめちゃん、どこに出したい?」


流石…名前。オレの限界なんて見抜かれている。どこに出したいかなんて、そんなの、分かってるくせに…。


「名前、脱いで」


名前が下着を脱ぎ捨てたのを横目に、ソファ横にあるテーブルの引き出しに手を伸ばして、一つだけ残っていた小さな包を取り出した。


そのまま包を破ろうとすると


「また…買わなきゃ、ね」


その小さな包を持つ手に、名前の手が重なった。


何故だか分からない。けれど、重なった瞬間、どう伝えようかと悩んでいた気持ちはどこかへ消えていた。


愛しい気持ちでいっぱいになって、重ねられた手をとって、そのまま抱き寄せた。



「お役目御免だから……もう買う必要はない」




驚いたような、困惑したような何とも言えない表情。そんな顔、一緒に暮らして数年、見たことなかったな。どういう意味?と言いたげな名前をゆっくりソファへ押し倒す。


「察して、名前」


そうだ。それよりも、何よりも…


「今は…こっちに集中して」
「は、じめ…!ぁんっ…は…ぁ」


どろどろになって、オレを待ち望んでいる名前のそこを満たしてやらなくては。




***


カーテンの隙間から朝日が差し込む。行為が終わってから、名前は一言も話さず黙ってクッションを抱え込んでいた。さっきの件、どう思ったんだろうか。あんな形で伝えて欲しくなくて怒っているのか、はたまた状況を上手く飲み込めないでいるのか。あぁ、名前がオレの立場だったら、きっと何を考えているか分かるんだろうな。


中々口を開かない名前の髪を撫でながら、色々と考えていると、抱えていたクッションを放り投げて彼女が突然抱き着いてきた。


「…どうした?」


抱き着いてきた名前のしっとり汗ばんだ腰に、髪を撫でていた手を移動させて、それを往復させる。春先とはいえ、このままだと風邪を引きかねない。少し落ち着いてから二人でシャワーを浴びる提案を持ちかけようと、名前の方を見ると、視線が交わった瞬間に「ねぇ」と声を掛けられた。


「唐揚げのレモンで喧嘩したことあったよね」


あの件のことじゃない。名前と話をしようとしていた、オレが唐揚げにレモンをかけて喧嘩をしたあの時の話の事だった。


「あぁ、レモン一つで揉めて暫く口を利かなかった」
「うん、馬鹿みたいだったよね。ふふ、なんか急に思い出しちゃった」


名前の手が、つい先程の行為の時と同じように重なって、彼女の親指の腹がオレの薬指を優しくなぞっていく。愛おしそうにゆっくりと、大切なものを扱うように。


「食べてみるか?唐揚げにレモンの組み合わせ」


そう彼女に言ってみると、あからさまに嫌だと舌を出して首を横に振った。


「真っ平御免です〜」
「…あれから時間が経ったんだ。味の好みが変わってるかもしれないだろう」


オレも名前と同じように…彼女の薬指を親指の腹で優しくなぞる。


「結婚しても、それだけは嫌だからね」


嫌だと答えた名前の顔は、今までにないくらい幸せに満ちていた。


名前の近況報告という名の女子会、今度の主役は名前の番だ。間違いなく、またベロベロに酔って帰ってくるんだろうな。


それと、近々お互いの両親に伝えにいかなければ。あぁ…流石に決め手があれは……聞かれた時お互いに答えにくいな。やっぱり、きちんとした言葉で伝え直そう。


そうと決まれば、名前に内緒で薬指の約束を買っておかなくては。


彼女の薬指に嵌め込んだ時、改めてプロポーズの言葉を捧げよう。


もう一度…名前の幸せそうに喜ぶ笑顔が見られるのか。考えただけでオレも満たされた気持ちになっていく。




なぁ、純太…。

借りてたゲーム、ようやく先に進めそうだ。
目次top