「かえ、るの……か」
言葉がようやく脳まで届き、掠れた声が喉から漏れ出す。目の前の人間は波の音でかき消されてしまいそうなシャミナの言葉に「ああ」とそっけない返事をした。
「おすモンたちのコミュニティとして村を復興させたからな。これ以上ここにいてもこの島の問題をどうにもできない。だから、帰ることにした」
淡々と紡がれる人間の発する音が理解できず、頭がぐらぐらと揺れた。どうして、そんなに急がなくても、まだいたらいい。そんなどうでもいいことを言おうとしたのに声が出ない。真っ直ぐにこちらを見つめる人間の前で水面で呼吸をする魚のように口を忙しなく開けては閉じていた。
「明日の朝、出る」
人間はそう言い残してリスの森へと歩いていった。おそらく人間を慕う他のおすモンたちに挨拶をしに行ったのだろう。人間の背中に手を伸ばし、無様にもその場で膝をつく。今さら何が言えると言うのか。人間はずっと言い続けていた。いつかは帰ると。そのいつかが明日だっただけだ。
初めて人間と出会った日。いつものように変わり映えのしない砂浜に海草の塊が漂着していた。杖でつつくと僅かに身動ぎをし、長い睫毛が生え揃った瞼を開く。その時見た人間の瞳の美しさは今も記憶に焼き付いている。
人間はおすモンがいなくても強かった。襲ってきたドラキュリーを返り討ちにし、首輪も使わず村に連れ帰ったときは思わず食べていた焼き魚を落としたものだ。同行させたドワノムも苦笑いしながらシャミナから視線を反らす。ドラキュリーは完全に人間に忠誠を誓っていた。
あんなに寂しかった村にどんどんおすモンが増えていく。飛行機を手に入れた人間は行動範囲を広げ、火山島の奥地にいたグリードラの首根っこを掴んで戻ってくるほど遠くまで行ける。
だんだんと焦りにも似た感情が心に居座り始めたのはこの頃からだろうか。もしかしたら出会ったときからずっとシャミナの中にあったものかもしれない。人間は自分たちを置いてどこかに行ってしまう。その事実が幾度となく頭の中で反芻していた。
帰らなくてはいけないのか。ある時誰かが聞いたその言葉に人間は頷く。
「会いに行かないといけない人がいる」
そう言われたおすモンの表情は見えない。ただ彼の拳は気の毒になるほど硬く握りしめられていた。
思い出から現実に帰ってくるとあっという間に世界は橙色に染まっていた。村はおすモンたちが慌ただしく動き回っており、人間のお別れ会とやらをやると張り切っている。シャミナはどうにも準備に加わる気にはなれず、話しかけてくるおすモンたちを軽くあしらいながら浜辺へと足を運ぶ。足取りは泥中を歩くかのように重い。
ふと賑やかな声が上がり俯いていた顔を上げると人間が村に戻ってきていた。
人間の顔を見た瞬間、何かが引っ掛かった。違和感の正体を探るように村を見渡して気づく。人間と行動していたあるおすモンがいないことに。
「何をしている」
はじまりの浜辺。シャミナと人間が初めて出会った場所にそのおすモンはいた。シャミナが声を掛けてもそのおすモンは振り返らない。明日には人間を連れていってしまう白い鉄の塊の前でただ立ち尽くしている。もう一度呼び掛けようとしたその時、彼は持っていたスパナを振り上げた。
「やめろっ!」
間一髪シャミナはあんこくだまでスパナを吹き飛ばす。武器を吹き飛ばされたおすモン、ドワノムは今度こそこちらを振り返った。
「邪魔、すんな」
「何をしているのか分かっているのか」
「分かってる」
「分かっているのなら、」
「分かってるよ!」
静かな海岸に悲痛な叫びが響く。処理しきれない哀しみに顔を歪めて涙を流すドワノムを見てシャミナは酷く動揺した。
ドワノムは人間が最初に護衛にと選んだおすモンだ。恐れを知らず前へ前へ進む人間に慌てながらもどんな場所でも一緒に行った。焼けつくような日差しの中、砂に足を取られながら遺跡を目指した。火の粉が降り注ぐ中、人間に庇われながら火山の奥でグリードラを打ち倒した。えもいわれぬ不気味さに身体を震わせながらそれでもこの島の真実にたどり着いた。彼にとって人間はいつしか言葉に出来ないほどかけがえのない存在になっていた。自分と、同じように。
「私もだ」
「なに、が」
「ずっと一緒にいたい」
ドワノムが目を見開き、溢れ出した涙が彼の頬からまた滑り落ちていく。
一度口に出してしまえば次々と言葉が零れた。言わないつもりだった言えない思いが止まらない。ドワノムがやめてくれと何度もシャミナの身体を揺さぶる。止めどなく溢れてくる思いをいくつもいくつも吐き出し、いつの間にかシャミナは駄々を捏ねる幼児のようにその場に蹲って泣いていた。
「どうして」
シャミナの背中に覆い被さるドワノムがぽつりと呟く。その問いに答えられる唯一の人はここにはいなかった。
「こんなところで寝ていたのか」
冷たい声色。でも不器用な優しさが含まれていることをとっくにみんな知っていた。温かい手が目を開かないシャミナの頭を、背中を撫でる。
「もうそろそろ出ようと思う」
頭から離れようとする手を捕まえ、鎖のように指を絡ませる。もうちょっとだけいいじゃないか、これで最後なのだから。誰にするでもない言い訳をしながら人間の時間をもらっている。
人間がいなくなったら忘れてしまうのだろうか。この愛おしい手の温度も、全て何もかもなかったことになるのだろうか。
しばらく繋いでいた手を人間はするりとほどく。それからシャミナの指に何かを付けて力強くシャミナを抱き締めた。
「ありがとう。君に出会えて良かった」
離れていく温もりにようやく目を開ける。眩しい朝陽に目を細め、それでも何とか瞼をこじ開ける。
「……ああ、やはり美しいな」
朝の光に照らされた人間は、シャミナが知るこの世の何よりも美しかった。
「シャミナのじーさん、何だよそれ」
「誰がじーさんだ!」
「悪い悪い。で、それは?」
「……それが分からんのだ。いつの間にか指に付けていたんだが」
「やっぱりボケ……」
「違う! ドワノム、そういうお前こそ付けているじゃないか」
「……何だろうなぁこれ」
「……さあな。だが、美しいな」
透明な宝石が朝陽に反射してキラキラと輝く。遠い記憶の中で誰が笑ったような気がした。
2023/07/01
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