わたしを呼ぶ声がだんだんと近づいてくる。遠くから、近く。名前、名前と何度も何度も。
これは夢だろうか。聞き覚えのあるその声は、妙にリアルな感情を乗せてわたしの鼓膜を揺さぶる。
なに、と夢の中で返事をしても、相手にはそれが聞こえていないらしい。わたしを呼ぶ声にわずかに怒りが滲んでいくのが分かる。
そして、紙の束を引きずる音がして、すぐ。耳をつんざく破裂音と共に、わたしの顔面に強い衝撃が走った。
そこでようやく、これが現実だと理解する。
「……………いい加減ハリセンで叩くのやめろババア」
「名前がすぐ起きないからでしょ。つーか誰がババアだ舌引っこ抜くぞクソガキ」
五つ上の姉の麻衣は、綺麗な顔に似合わずわりと過激。愛用のハリセンで叩かれた回数は百を優に超える。わたしの性別が自分と同じ女であることを、この人はたまに本気で忘れてるんじゃないかと思う。
ムカつく。外面だけはいいのが余計にムカつく。
「で、なに。なんの用なの」
「ちょっとコンビニ行っておしょうゆ買ってきて。切らしちゃった」
「はあー? いま何時だよ…」
「夜の十時だけど」
「めんどく…」
「なに?」
わたしの言葉を遮って、姉が威嚇射撃のごとく床にハリセンを叩きつけて凄んだ。
フローリングの床にぶつかって派手な音を立てるハリセン。あれは百均のパーティーグッズのように優しく作られてはいない。姉が夜通し厚紙を何枚も何枚も重ねて手製したものだ。当たれば本気で痛い。多少慣れてはいるが、短時間にそう何度もは食らいたくない。
それにわたしには、十九にもなって大学にも行かず定職にもつかず、姉に養ってもらっているという負い目もある。端から断れる立場にいないのだ。
めんどくさい。ため息を吐きながら布団を抜け出し、適当な服に着替えて、二階の自室から一階の居間に下りる。
「しょうゆだけ?」
「んー。お釣りで好きなもの買っていいよ」
子供のお使いか。
手渡された千円をジーンズのポケットにねじ込んで、スニーカーに足を通す。靴紐をゆるく結んで玄関の引き戸を開ければ、外は生憎の雨模様だった。
「最悪。雨降ってる」
「傘私の使っていいよー」
居間から伸びてくる声に甘えようと傘立てから傘を抜いて開く。視界一面に広がった、国民的アニメのキャラクター。あんパン食べたい。
「うわキャラものかよ。信じられん。歳考えろよなーまじ」
「聞こえてんだよ」
叩かれる前に、急いで外に出た。

家からコンビニまでは歩いて十分ほどかかる。自転車ならその半分の時間で行けるけれど、傘差し運転はマナーに反する。というか単純に危ないのでやりたくない。
水たまりを避けながらアスファルトを蹴って、煌々と光りを放つ青と白のコンビニエンスストアの前に到着。入り口に座り込む女の子が邪魔だなあなんて考えながら店内に入れば、夜勤の店員の気だるげな挨拶に迎えられた。
我が家のしょうゆはヒガシマル。迷わず棚から目的のものを取ってレジに向かう。お釣りで何か買っていいと言われたけど、欲しいものは特になかった。
袋を下げて自動ドアをくぐる。傘立てから引っこ抜いた傘をさして、ふと気づく。さっき邪魔だと思った女の子、まだいる。
びしょ濡れの制服から察するに、近所のお嬢様高校の生徒だろう。何年生かはわからない。家出か何かだろうか。
まあ、わたしには関係ないんだけど。
前を向き直して足を一歩出すと、ちょうど水たまりがある場所を勢いよく踏んづけてしまった。
バシャリと、跳ねた泥水が女の子の服にかかる。
女の子は少し驚いたように身を縮こまらせ、けれど何も言ってこなかった。わたしを睨むことさえしない。
逆に気まずいわ。
「えー、と。ごめんなさい」
「あ、い、いえ、大丈夫です…」
結構派手にかかってるし、制服白だし、全然大丈夫ではないと思うんだけど。
「うち近いんだけど来る? ちゃんとお詫びしたいし」
そう言うと、女の子はようやく顔を上げた。ガラス玉みたいな瞳と視線がかち合う。しかしそれはすぐにそらされて、少しだけ残念に思った。
「いや、でも、わるいので…いいです、大丈夫です」
話進まねー。
うんざりしつつ、加害者という立場上強くは出られない。当然、このまま放っておくこともできない。後味が悪すぎる。
思わずため息が漏れる。それに伴ってか、女の子の肩が怯えたように揺れた。怖がらせたいわけじゃないんだけど。
所在なく頬をかいて思案する。放っておくという選択肢がない以上、やることは一つだった。強引にでも連れて行く。
「このままじゃわたしが気持ち悪いんだけど。頼むから一緒に来てくんない?」
「でも…きっと迷惑かけます…」
「あーもういいから」
渋るその手を引けば、女の子は存外すんなり立ち上がってくれた。紺色のサマーセーターは水を吸って真っ黒になってしまっている。泥水云々の前に、こんなもの着たままずっと外にいたら十中八九風邪を引く。
今さら無意味かもしれないけれど、傘を女の子の方に傾ける。また遠慮するかなって思ったけど、したって無駄だとこの短時間で悟ったらしい。黙って受け入れた。
「ごめん、恥ずかしい傘で」
「いえ…あの、可愛いと思います」
「あ、そう。……そうか?」
本心ではなくただのお世辞だ、これ。気を使われてる。わたしの私物じゃないのに。
「まーいいや。こっちね」
ようやっと帰路につく。帰ったら、おせーよってハリセン飛んできそう。

案の定、玄関を開けてすぐ、姉がハリセン片手にお出迎えだ。けれど、わたしの後ろにいる女の子を目にした途端にすぐ客用の笑顔を貼り付けて高い声出せるんだから、こいつただのOLのままじゃもったいないと思う。
「名前がかずみん以外の友達連れて来るなんて珍し〜。誰? ねえ誰なの? お姉ちゃんに紹介してっ!」
「うるさいよ。友達じゃないし」
「えぇ? じゃあなに、ナンパでもしてきたの?」
「そんなわけないだろ。ほんとめんどくさいなあんた」
妹の交友関係に異常なまでの興味を示す姉を手で制しつつ、その勢いに呆気に取られてる女の子の腕を引いて廊下を進んだ。
脱衣所まで来れば、さすがに姉も追いかけてはこなかった。
「着替え後で持ってくるから、とりあえずシャワー浴びて」
「すみません…ありがとうございます」
そのあと、女の子がシャワーを浴びてる間にスウェット上下セットと、姉が気を利かせて買ってきたはいいもののデザインが気に食わなくて使ってなかった下着を脱衣所に置いて、脱いだ制服はシミの部分にハイターをかけてから洗濯機に入れた。
一息ついて、居間のテーブルにうなだれる。
「お疲れ様」
「んー…あ、これお釣り」
「なんも買わなかったんだ? 相変わらず欲が無い子」
「そんなこともないけど…」
クソニートのわたしにとっては、普通に生活させてもらってるだけで最高の贅沢なんだけど。でもそれを言葉にするのは難しい。喉の奥がむず痒くなって耐えられない。
「ていうかあの子どうしたの?」
「えーと…………拾った?」
「はしょるな」
手のひらでぺちんと頭を叩かれた。ハリセンに比べれば痛くも痒くもない。毎回これならいいのに。
「行くとこなさそうだったし」
「家出少女? 名前ってさあ、甲斐性なしのくせに、変にお人好しだよね」
「そんなんじゃない。制服に泥はねちゃったし、そのお詫びです」
「ふーん?」
「ニヤニヤすんなババア」
横っ面を思い切り殴られた。こんな風にすぐに手が出るから彼氏ができても長続きしないんだ。
「あ、タオル置いてる場所言うの忘れてた」
脱衣所のすぐそばの棚に入れているので言わなくても分かりそうなもんだけど、あの引っ込み思案な性格だ。人の家のタオルを勝手に取り出して使うことなんてできないだろう。
面倒だけど腰を上げて、再び脱衣所に向かう。その際ノックをするなり声をかけるなりすればよかったのだけど、いかんせんここは我が家である。気を抜いていた。
そうして、一般的な常識をすっ飛ばして黙って開けてしまった扉の先には、女の子の裸があった。
「……ッ!」
短い悲鳴のあと、女の子は肩を抱いてうずくまってしまう。
まあ勝手に入っちゃったのは悪かったけど、同性なんだからそこまで過敏に反応しなくてもいいんじゃないかな。強姦魔にでもなった気分だ。
「ごめん。タオルの場所言うの忘れてて」
言いながら棚からタオルを取り出して、それを女の子の肩にかけ−−−ようとして気づく。
女の子の腕、背中、足。ご丁寧に、服を着れば見えなくなる場所に、たくさんの痣があった。真新しい青紫のものから、治りかけの黄色まで。
この女の子、自傷癖あってもおかしくない暗さではあるけど、背中なんて自分では届かないし、一目見てわかる。これは人から傷つけられた痕だ。
「彼氏にでも殴られてんの?」
ふるふる、と頭を振って否定を示される。
「じゃあ親」
否定も肯定もない。それはつまり肯定ということだ。
「ふーん……ま、とりあえず服着たら居間においで」
だからといって、わたしに何かできるわけじゃない。
タオルを女の子の体にかけて背を向けた。閉まる扉の向こうで、女の子がどんな顔をしていたのかはわからない。

ようやく三人共が居間に落ち着いた頃には、もう日付が変わっていた。姉は朝から仕事だというのに生き生きとお風呂上りの女の子を構い倒している。
「西野七瀬ちゃんっていうんだ! 高校は乃木女子だよね? お嬢様だね〜」
ニコニコと、若い女の子と話せるのがそんなに嬉しいのだろうか。まあ、何を言っても反応の薄い(らしい)わたしと話すよりはずっと楽しいんだろう。
とはいえ七瀬ちゃんの方もそうかといえば、そうでもなさそう。見るからに緊張していて、姉のテンションについていけてない。質問に答えるだけでいっぱいいっぱいといった感じ。
「あのさー、仕事あんだしもう寝たら」
「えー、お姉ちゃんまだ七瀬ちゃんと話したいよー」
「甘えた声出すな。部屋行こう、七瀬ちゃん」
「あ、えっと、でも」
「その人はほっといていいから」
ブーブーうるさい姉を無視して、七瀬ちゃんの腕を引いて二階に上がる。部屋に入って、地べたに座らせるわけにもいかないのでベッドに座るよう促した。
「うるさい姉でごめん」
「そんなことないです」
「今日はもう遅いし泊まって。ベッドそこ使っていいから」
「すみません、何から何まで…」
頭を下げる七瀬ちゃんの目はもうとろんとしていて、眠たそうだった。何があったのかは知らないし興味もないけれど、いろいろあって疲れているんだろう。
「もう寝なよ。おやすみ」
「はい、おやすみなさい…」
部屋の照明を落として、ゆっくりと廊下に出た。登ったばかりの階段を下りて、居間の隣にある姉の寝室に入る。
姉ももう寝ようとしているところだった。布団に寝転がったままわたしを見上げると、すぐに察して、体を隅に寄せてくれた。
いそいそと空いた隙間に入り込む。姉の体温でぬるくなったそこは不思議と居心地がよかった。
「名前と寝るのなんて久しぶりだね。小さい頃に戻ったみたい」
「なんでこの家って客用布団とかないの」
「姉妹揃って友達少ないから」
「………なんかごめん」
思わず謝ると、姉はそれを笑い飛ばして、わたしの背中に腕を回して抱きついてきた。いい歳した姉妹にふさわしい距離とは思えないけれど、拒絶する気にはなれなかった。
「いいの。お姉ちゃんは可愛い妹がいてくれればそれで満足なんだから」
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