息苦しさで目を覚ます。首に巻きついた腕、ガッチリと腰をホールドする足。そういえば姉は、死ぬほど寝相が悪いんだった。

「くそババア…」

 首を絞める腕に力がこもった、気がした。



 居間のテーブルに並ぶ卵焼き、昨日の夜ごはんだった肉じゃが。それからお鍋に入った味噌汁。炊飯器からは、炊き立てのごはんのにおいが漂ってくる。
 働かせてるうえに朝ごはんも夜ごはんも作らせてしまっていることが申し訳なくて、この間わたしの分はもう作らなくていいと言ったら、真顔で「私がごはん作んないと名前何も食べないでしょ」と返された。その通りなので何も言えなくなった。

「七瀬ちゃんの様子見て、起きてたら一緒にごはん食べてね。お姉ちゃん仕事行ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
「どっか行くなら連絡してね」
「過保護かよ」
「過保護だよ」
「……めんどくさ」

 姉の背中を見送って二階に上がる。七瀬ちゃんはベッドの端の方で、丸くなって眠っていた。外敵からの攻撃に怯える小動物みたい。
 眠っているのならわざわざ起こす必要はないかな、と思って引き返そうとすると、小さく身じろぎする音が聞こえた。起きたのだろうか。
 近づいて顔を覗き込んでみる。うっすらと開いた目がわたしを見る。まだまどろみの中に片足を突っ込んだまま、七瀬ちゃんは今の状況を思い出しているらしい。
 だんだんと意識も記憶もはっきりしてきたようで、目が見開かれていく。

「おはよう」
「お、おはよう、ございます……」

 寝起きを見られて恥ずかしそうな七瀬ちゃんを連れて居間に行く。お茶碗にごはんをよそって、お椀に味噌汁を注いだ。それからコップにお茶を入れる。

「いただきます」
「いただきます…」

 食事は無言で進んだ。わたしはあまり気にならなかったけれど、七瀬ちゃんがあまりにも気まずそうだったので、途中でテレビの電源を入れた。三十二インチの箱の中で、地元の市議会議員が何人もの記者に詰め寄られていた。汚職がどうのこうの。どうでもいい。

「つまんないね。録画してるやつでも見ようか」

 録画リストを開けば、上から下まであんぱん、あんぱん、あんぱん…。

「NHKでも見ようか」

 恥ずかしすぎる、あの姉。急いでチャンネルを変えた。
 笑われでもしているんじゃないかと七瀬ちゃんの表情を窺えば、笑うどころか、顔面蒼白になっていた。お茶碗を抱える手も、心なしか震えている。

「大丈夫?」
「…えっ、あ、だ、大丈夫です…」

 そう言う顔は、ぜんぜん大丈夫そうではなかった。七瀬ちゃんの癖なのかもしれない。大丈夫じゃないのに大丈夫って言うの。
 そんな様子が、少しだけ姉に重なって見えた。

 食事を終えて、洗い物くらいやらせてくださいという七瀬ちゃんの厚意に甘えることにしたわたしは、使う機会がなさすぎて失くしがちになっているケータイを耳に当て、とある人物へと電話をかけていた。
 三回目のコールが鳴りやんだ瞬間、眠たげな声が鼓膜に届く。

「んんぅ、なぁに、名前ちゃん。さゆりんまだ眠たいんだけど」
「ごめん。ちょっと調べてほしいんだけど。西野七瀬って子と、その親について」
「報酬は?」
「……今度デートしてあげてって頼んどく」
「まいどありっ!」

 切れた電話の向こうで満面の笑みを浮かべているのが容易に想像できた。
 姉の熱狂的なファンのさゆりんこと松村は、この街一番の情報通だ。しかし金では動かないため、その扱いづらさから一部の人間にはひどく疎まれている。
 姉を利用するなんて、本当は心底嫌なのだけれど、背に腹は代えられなかった。姉が松村のことをそれなりに気に入っているのが唯一の救いだ。

「あの、洗い物終わりました…」
「ありがとう」

 ちょうどよく声がかかった。情報が集まったらすぐに分かるよう、ケータイをジーンズのポケットに突っ込んで七瀬ちゃんに向き直る。少し大きめのスウェットを引きずりながら近づいてくる七瀬ちゃんはやっぱり小動物みたいだった。

「制服まだ乾いてないけど、姉の服貸すから。ちょっと出かけよう」
「え、どこ行くんですか…?」
「ここよりは楽しいとこ」



 自転車の荷台に七瀬ちゃんを乗せて、連れてきたのは近所の駄菓子屋。入口のすぐ上に、高山商店と書かれた古ぼけた看板がぶら下がっている。今にも崩れそうに傾いたその木造家屋の中に入れば、気の抜けた声が奥の座敷から響いてきた。

「いらっしゃーい。て、名前かぁ」

 売り物であろううまい棒を貪りながら顔を出したのは、高山一実。大学生で、小学校の頃からの腐れ縁。高山商店の一人娘で、剣道の有段者。わたしが臆面なく友達と呼べる、ただ一人の人間だ。
 一実はわたしから七瀬ちゃんに視線を移し、目を丸くした。

「レンタルフレンド…?」
「殴るぞ」
「へへへ。じょーだん。あがってあがって〜」
「うん」
「お邪魔します…」

 座敷に通されて、テーブルに並んだ駄菓子を勧められる。それ売り物だろ、というツッコミは飽和状態。
 出されたお茶だけ口に含んで、本題に入る。

「しばらく一緒に行動してほしいんだけど」
「なに、また面倒ごとに巻き込まれてんの?」
「巻き込まれてない。でも巻き込まれに行こうとしてる」
「名前も懲りないねぇ。まいやんも気苦労が絶えないよ。や、私はいんだけどね。ちょうど夏休みで暇してたしさ」
「じゃあお願い」
「はいよー」

 一実は話が早くて助かる。あと、わたしも姉には申し訳なく思ってる。たぶんあの人には一生頭が上がらない。
 話が済んだ後は適当に七瀬ちゃんのことを紹介して、しばらくのんびりと過ごした。昨日から始終緊張しっぱなしの七瀬ちゃんも、一実のやわらかい雰囲気にあてられて、少しだけ表情から強張りが抜けた気がする。よかったよかった。
 日が落ちかけて窓の外がオレンジに染まってきた頃、そろそろ帰ろうかと腰を上げた瞬間にポケットのケータイが震えた。松村だろうか。

「もしもし」
「名前、今どこ」

 やばい、連絡しろって言われてたの忘れてた。
 ハリセンでしばかれることは確実だけれど、なるべく少ない回数に留めるために「今すぐ帰ってきなさい」という言葉に従うことにした。
 駄菓子屋を出て、来たときと同じように七瀬ちゃんを荷台に乗せて自転車を漕ぐ。心なしか行きのときよりも腰に回された腕に力が入っている気がする。多少は警戒心を解いてくれたらしい。
 七瀬ちゃんの背景に興味はない。懐かれたいわけじゃない。じゃあどうして姉を売ってまで松村に頼るのか。一実に迷惑をかけてまで動こうとしているのか。わたし自身にもよくわかっていない。
 ただ、大丈夫だと、まるで自分に言い聞かせるように言う七瀬ちゃんを見ていられなかった。

「ケーキでも買って帰ろうか」

 甘いものに目がないあの人のご機嫌を取るために。
 家の近くのケーキ屋の駐輪場に自転車を止めて、店内に入る。遠慮する七瀬ちゃんを無視して適当に三つ選んで外に出ると、目の前に誰かが立ちはだかった。
 見たこともない、スーツ姿の大柄な男だった。サングラス越しにぎらりと殺意のこもった目で睨まれる。そして、振り上げられる拳に、やばいと気づいたときには遅かった。
 視界が反転して、持っていたケーキの箱が宙に舞う。それが地面に落ちるのと、わたしの体が倒れたのは同時だった。

「名前さんっ!!」

 七瀬ちゃんの悲鳴が聞こえる。頬に熱い痛みが広がって、うまく言葉を吐き出せない。大丈夫と言ってやりたいのに。
 衝撃に閉じた目をうっすら開けば、男が足を上げ、二撃目を構えていた。避けなければ、と思うのに、地面に転がった際頭を打ったせいか、体が思うように動かない。
 なんで殴られてるのかもわからない。ここで気を失ったりしたら、七瀬ちゃんが危ない。頭の中はいやに冷静なのに、動けないのがもどかしい。

 ―――結局、わたしには誰かを守ることなんてできないのかもしれない。

 諦念に瞼が落ちる。情けないのは今更だ。




 しかし、いつまで経っても痛みはやってこない。
 目を開ける。開けた視界の中に、もう男の影はなかった。その代わりにわたしを見下ろしているのは、ショートカットの女。

「早く起きなよ」

 できればあまり聞きたくない声だった。冷たくて、まるで感情の込められていない平坦な声。
 その女のことを、わたしはよく知っている。反対に、その女も、わたしのことをよく知っている。
 高校時代の同級生、今はこの街を裏で牛耳ってるカラーギャングのリーダー。出会ったときから、なぜかわたしにつきまとっている。頭が切れて、冷酷なキング。橋本奈々未は、口元にシニカルな笑みを浮かべてわたしを見つめていた。

「なんでいんだよ」
「私は名前のストーカーだからね」

 あながち間違っていないから気持ち悪い。よりにもよってこの女に助けられてしまうなんて。控えめに言って最悪だ。
 腕を引かれて立ち上がる。乱れた髪を手櫛で整えようとしてくるのを振り払って、その後ろに転がっている男に近づいた。
 男は完全に気絶している。サングラスは割れ、鼻も潰れている。すぐ側に落ちている金属バットには血がついていた。相変わらず容赦のかけらもない。

「なんで襲われてたの? 人から恨み買うような目立つ生き方してないでしょ、名前」
「そんなのわたしが知りたい」

 心当たりはあった。しかしそれを教えるとより面倒なことになるのがわかっていたのではぐらかした。橋本はそれを見透かしたように涼しげな顔をしている。もうすでに面倒なことになっているかもしれない。
 呆気にとられている七瀬ちゃんに歩み寄り、腕を取って駐輪場に向かう。橋本に目をつけられる前に、早くこの場から離れさせたかった。
 急ぐ背中に声がかかる。

「名前。その子、大切にしなよ?」

 親切心からではない。己の欲望しか込められていない言葉だ。
 この街の支配者は、この街で一番歪んでいる。



「ケーキダメになっちゃったね」
「……すみません」

 荷台から、涙混じりの謝罪が返ってくる。わたしの服を掴む手は弱々しく震えていた。

「七瀬ちゃんが謝ることじゃないよ」
「でも…名前さんケガしてるし、なな、なんもできんくて…」

 何もできなかったのはわたしも同じだけど。

「それより、前から気になってたんだけど」
「…?」
「関西弁かわいいね」
「……あ、ありがとうございます…?」

 気を遣ったつもりが、失敗したかもしれない。年下は苦手だ。



 そのあと家に帰ると、ハリセンは飛んでこなかった。姉はわたしの顔を見た途端半泣きになって、押し入れから救急箱を引っ張り出してきた。
 嫌がるわたしの頬に大きな絆創膏が貼られる。少し皮がめくれただけなのに大げさだ。

「あんまり心配させないでよ…」
「ごめん」

 謝ることはできても約束はできない。本当に不出来な妹で申し訳ない。

「あのさ、今度松村とデートしてあげてくんない?」
「………」

 無言で睨まれる。松村とのデートが嫌だからではない。そのお願いの意味をわかっているからだ。

「…………はあ。名前ってほんと、損な性格だね」
「そうかな」

 わたしより、そう言ってる姉の方がだいぶ損してると思うけど。わたしみたいな妹を持ったせいでかわいそうに。
 でもわたしは、感謝してる。わたしの姉として生まれてくれたこと。
 絶対本人には言わないけど。


160903


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