なんだかんだ二日連続で七瀬ちゃんを家に泊めて、翌朝また姉の布団で目を覚ました。寝ぼけた顔を洗ってから居間に行くと、そこにはすでに先客がいた。
「おはようございます、名前さん」
「おはよう」
七瀬ちゃんが、ぎこちないながらも笑顔を浮かべて迎えてくれる。わたしも笑い返そうかと思ったけど、頬がうまく持ち上がらなかったのでやめた。慣れないことはするもんじゃない。
七瀬ちゃんの対面に腰を落とすと、キッチンからパタパタとスリッパの音を響かせながら姉がやってくる。
「おはよう名前」
「おはよう」
「今日の朝ごはんはねー、七瀬ちゃんがちょっと手伝ってくれたの。ありがとね、七瀬ちゃん」
陽気に笑いかける姉に、七瀬ちゃんはタジタジ。
やけに嬉しそうな顔してるなと思ったらそういうこと。姉にとって、七瀬ちゃんは可愛い妹的な感覚なのかもしれない。仲良きことは美しきかな。
「名前が妬いちゃう…?」
「それはない」
「いけず!」
うるせえ。

三人で朝ごはんを食べたあと、仕事に行く姉を見送った。わたしの怪我を心配して中々家を出ようとしない姉を送り出すのは本当に大変だった。
そのあと、七瀬ちゃんが洗い物をしている間に一実が訪ねてきて、いつもは静かな家の中が一気に騒がしくなる。
一実はわたしの怪我を心配しつつ、持参したジブリ映画を勝手に見始めた。七瀬ちゃんもそれを興味深そうに見ている。わたしも松村から連絡がない限りは動くに動けないので、そんな二人の様子をぼーっと眺めていた。
それが昼まで続いた。映画が終わり、一実はデッキからディスクを取り出すと畳に倒れ込んでぼやき始めた。
「お腹すいたなぁ」
「駄菓子でも食ってろよ」
「もう持って来たやつぜんぶ食べちゃったよ」
どんだけ食うんだこいつ。
「ていうか七瀬ちゃんだってお腹すいてるんじゃない?」
「そうなの?」
「え、いえ、ななは…」
急に話を振られた七瀬ちゃんは目を丸くして固まった。自分があまり食べることに関心がないせいか、人のそういう機微にも気づけない。わたしのいくつもある悪い部分の一つだ。
「わたし料理できないし、どっか食べに行こうか」
「わーい名前のおごりーぃ!」
「ニートにたかるな」
一実をあしらいながら外出の準備を始める。スウェットを着替えて、ケータイと財布だけポケットに入れる。
七瀬ちゃんには乾いたあと(姉が)アイロンまでかけた制服を着てもらおうと思ったけれど、逆に目立つかもしれないので、また姉の服を貸すことにした。
玄関先でスニーカーに足を入れて外に出る。扉に鍵をかけて、自転車を引っ張り出して来たところでケータイが震えた。
「もしもし」
「もしもし名前ちゃーん、さゆりんだけど。頼まれてたこと調べたよー」
「ありがとう。ちょっと待って、すぐ折り返す」
さすがに七瀬ちゃんの目の前で話すわけにもいかない。一度電話を切って、待っている一実と七瀬ちゃんに向き直る。
「ごめん、ごはん二人で行ってきて」
「えー、七瀬ちゃんがかわいそうじゃん!」
「そんなことないでしょ」
七瀬ちゃんは正直、わたしといるときよりも一実といるときの方がリラックスできていると思うし。
一実の批難を無視して七瀬ちゃんを見れば、何を考えているのかわからない目でじっとわたしを見つめていた。どこか不安そうでもあるし、安堵しているようにも見える。どっちだっていいけど。
まだうるさい一実に財布と家の鍵を投げて、自転車も置いて背を向ける。放り出す形になってしまったけれど、それは一実を信用しているからできることだ。
一実なら、七瀬ちゃんの感情をうまく引き出して、親身になって話を聞いてあげることができるはずだ。二人を出会わせたのはそれが目的でもあった。
わたしは、降りかかる火の粉を払うことはできても、そのアフターケアまではできない。人の気持ちがうまく理解できない、欠陥人間のわたしには、絶対にできないことだから。
だからこそ、そこを補ってくれる、姉や一実という存在が、わたしには必要だ。
しばらく歩いたところで近くにあった公園に入り、ベンチに腰かけて一息つく。十秒ほどゆっくりしてから、松村にかけ直した。
「もしもーし、名前ちゃん? もう大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。教えて」
「うんうん。まずはね、西野七瀬ちゃんのことについて報告するね」
中高一貫のお嬢様校、乃木坂女子の高等部三年の生徒。性格は引っ込み思案、人見知り、マイナス思考。友達がおらず、校内ではいつも一人。閉鎖的な学校社会の中でそんな生徒がいればいじめの標的にされてもおかしくない。と思ったら、実際いじめられているらしい。しかし、それが始まったのはつい最近のことだという。
「それが名前ちゃんに頼まれてたもう一個の方に繋がるんだけど」
「親?」
「そうそう」
七瀬ちゃんの親は、なんとなく察しがついていた通り、あの汚職疑惑のある議員の男だった。次期議長の話が持ち上がった瞬間に不正支出を嗅ぎつけられ、しかしマスコミ各社、決定的な証拠は掴めていないため、ああやって晒し上げることでボロが出るのを狙っているらしい。
そして、親が連日連夜報道でバッシングされていれば、その子供が学校で受ける扱いも容易に想像がつく。
「それでいじめね」
「うん、元々よくは思われてなかったみたいで。でも親が議員のお偉いさんでしょ? 先生とかも腫れ物扱う感じで接してたみたいだね」
「家にも学校にも居場所なしって感じか」
「うん? その口ぶりだともうわかってるみたいだね。そうなの、こっちは今に始まったことじゃないんだけど、七瀬ちゃんは幼少期からずっと、父親から虐待を受けてるみたい。酔うと手がつけられない人みたいで、七瀬ちゃんは何度も病院のお世話になってる。記録上は七瀬ちゃんの不注意だとか事故だとかってことになってるけど、まあ気づく人は気づくだろうね」
しかし、気づいていても踏み込んでくる人間はいなかった。なるほど、七瀬ちゃんがああいう性格になってしまうのも無理はない。
「今はバックにヤクザくっつけて、汚職をもみ消そうとしてるみたい。決定的な証拠を掴んだ記者や、しつこく嗅ぎ回ってたフリージャーナリストが、何人か行方不明になってるよ。かなり強引なやり口だから、相当焦ってるんだろうね。なりふり構わないって感じ。危険だよ」
あの日わたしを襲ったのも、議員の手先ということか。おそらくわたしが七瀬ちゃんから虐待の事実、または汚職のことを知らされていると踏んで、口封じのために。
あのまま気を失っていたら、今頃わたしはどこかの山中の土の中に埋まっていたかもしれない。けれど、それでも橋本に感謝する気にはなれなかった。
一通り話を聞き終わると、自然とため息が漏れた。特に感情がこもったものではない。ただ、面倒なことになってるなあと、改めて思った。
「危ないよ、名前ちゃん」
「そうだね」
松村が言い含めるのを聞き流す。電話口にはしばらく沈黙が走り、わたしは意味もなく頬の絆創膏に触れた。
「……………名前ちゃんはきっと、自分が死ぬことすらどうでもいいって思ってるんだろうけど……名前ちゃんがいなくなったら、まいやんも絶対に後を追おうとするよ…。……それは嫌でしょ?」
あの人はわたしを甘やかすことしか脳がないからね。
でも、きっと後を追うことはない。何を失ってでも生きることが大切だとわたしに教えたのは、他でもない姉なのだから。
「やれるだけやってみるよ」
「まあ、名前ちゃんはそう言うと思ったけどね。…私のときもそうだったし」
「そうだっけ。もう忘れた」
「ひどい!」
喚く松村にお礼を言って電話を切る。もう一度軽く息を吐いてから立ち上がって、今からでも一実に合流しようかと歩き出そうとすると、ふいに服の裾を引っ張られた。
振り返ると、スケッチブックを胸に抱え、穏やかな笑みを浮かべている、見ず知らずの女の子、というより女性。わたしより二、三個歳上に見える。
「……なに?」
「いきなりごめんなさい。描かせてください」
「は?」
わけわからんのに捕まった。こういうのは無視するのが一番だと、その手を振り払い、無理矢理に歩みを再開する。
しかし、ついてくる。わたしが砂を蹴って前に進めば、当たり前のように背後の彼女もついてくる。
「ストーカーは間に合ってるんだけど…」
脳裏に嫌味なほど涼しい顔が浮かんでくる。それをかき消してもう一度、女性を振り返る。瞬間、パァッと明るい笑顔を浮かべられて言葉に詰まる。
こんなにキラキラした目で見られることはあまりないから、非常に反応に困る。
「描かせてくれるっ!?」
「なんで」
「ん?」
「なんでわたしを描きたいの」
素朴な疑問を投げかけると、女性は屈託のない子供のような笑みから、一気に慈愛を孕んだ大人の顔つきになった。
「死んだ目をしてるから」
呼吸を忘れる。
昔、同じ言葉を言われたことがある。数年前の、まだわたしが少しだけ笑っていた頃の話だ。
ただ、そのときわたしにそう言った相手には、もう二度と会うことはないだろうし、できることなら会いたくない。
わたしが人生でただ一度だけ愛した人で、橋本とは違った意味で苦手な人。今はどこでどうしているのか、しばらく思い出すこともなかったというのに。
「今忙しいからお絵描きには付き合えない」
「じゃあ忙しくなくなるまで待ってる」
頑なに引かないところもあの人そっくりで嫌になる。やめてほしい。せっかく忘れていたのに。
無言で足を進める。気配はずっとついてきて、ついには家の前まで来てしまった。本格的にやばい人だ、この人。
「ここがあなたのお家?」
「そうだけど…」
知ってどうするつもりなのか。横目で窺うと、女性はふんふんと一人で納得して頷いていた。
付き合いきれない。さっさと家の中に入ってしまおうと思いポケットをまさぐるが、鍵がない。そういえば一実に預けていたんだった。
まさか一実が帰ってくるまでずっとこの変な人と一緒? 勘弁して。
「あ、名前ー! 帰ってたんだ〜」
ちょうどいいところに救いの手がやってきた。
声の方を振り向けば、一実が自転車の荷台に七瀬ちゃんを乗せたままわたしの前までやってきて、財布と家の鍵を手渡してきた。
「ごちそうさま!」
「すみません、ごちそうになりました…」
たぶん財布の中身的にたいしたものは食べられてない。精々ファミレスか回転寿司かファーストフードくらいだろうけど、一実は満面の笑みだし、七瀬ちゃんもそんな一実と過ごせたことで多少リフレッシュできただろう。
「んん? 名前の後ろにいる方はどなたで?」
忘れていた、第二のストーカーの存在。
「初めまして、深川と申します。名前さんとはさっき知り合ったばかりで」
「ほへー、名前も隅に置けないねえ」
肘でちょいちょいとつつかれる。いらんことすんな。
「知り合ってないから。勝手についてきただけだから」
「あれ? 名前? みんな揃って家の前で何してるの?」
なんとなく嫌なタイミング。駅から徒歩で帰ってきたのであろう姉が怪訝そうにわたしたちを見回した。
「早かったね」
「うん、名前の怪我が心配で、早退してきちゃった」
それでいいのか社会人。いや、それほどまでに心配をかけていることを反省するべきなのか、わたしが。
「誰?」
姉も一実同様、見慣れないストーカーに目を向けて首を傾げる。七瀬ちゃんのときと違って若干警戒気味なのは、相手が自分と同世代くらいだから、だろうか。
「初めまして、深川です。名前さんのお姉さんですか?」
「そうですけど…」
答える姉の声は戸惑いに満ちていた。当然の反応だ。一応気を使って愛想笑いを浮かべているが、それは笑みというよりはただ頬を吊り上げているだけの、無味乾燥なものだった。
対する深川さんは余裕の笑みで、その大らかさや穏やかさが、逆に不気味だった。
「素敵な妹さんをお持ちで羨ましいです」
その発言に、姉が目を細めて愛想笑いを消した。能天気にへらへらと笑っている一実と、気まずそうに立ちすくむ七瀬ちゃん。
…もういろいろめんどくさい。早く家に入りたい。
160904
ALICE+