しつこくわたしに付きまとった深川さんを連絡先を交換することでなんとか追い返したあとの食卓は、どことなく淀んだ空気に覆われていた。
姉は不機嫌だし、七瀬ちゃんはいつものことながら喋らないし、一実は帰ってしまったし、皿に乗ったたくあんはちゃんと切れていなくて一本まるまる繋がっているし、それを指摘できる雰囲気でもない。
黙々と食事を終え、一人ずつ入浴を済ませた。姉は一番風呂のあと早々に布団に入ってしまった。今夜一緒に眠るのは難しいかもしれない。もちろん拒絶されたりはしないだろうけど、姉に気を遣わせるのは本意ではない。別に床でもどこでも寝れるし。
タオルで後頭部をかきながら居間の座布団を三枚繋げて、そこに寝転ぶ。天井の板の目を眺めながら考える。これからどう動くか。
相手はヤクザ。言葉にしてみるとチープで軽い感じがするけど、実際こちらから仕掛けたところで勝てる見込みはない。いくら一実と一緒とはいえ、数ってものには勝てないのだ。
やっぱり根本の元凶をどうにかするしかない。けれど、接触を図ろうにも、その前にはやっぱり数が立ちはだかるわけで。
結局情報を得ても、事態の進展を待つ以外にできることなんてないんだよなあ。役立たずでごめんなさい。
「あの、名前さん…」
ふと、廊下から声をかけられてそちらに目を向ける。七瀬ちゃんが、すっかり馴染んだスウェットに身を包んで立っていた。
「なに?」
「よかったら、なんですけど、う、上で一緒に…」
そこまで言いかけて口をつぐむ。言いたいことはわかったけれど、うっすらと赤くなった頬に疑問を抱く。そんなに恥ずかしいことなのだろうか。
いや、恥ずかしいというより怖いのか。自分の気持ちや考えていることを言葉にすることが、どうしようもなく。
立ち上がって、俯く七瀬ちゃんに歩み寄る。
「一緒に寝ていいの」
「は、はい、ぜひ! っていうか、こっちがお願いします…」
濡れたタオルを洗濯機に放り込んで、一緒に二階に上がった。
二階には二つ部屋があり、階段を上がってすぐ右のところがわたしの部屋だ。ちなみに左は空き部屋だけれど、今は季節用品などを仕舞う物置のようになっている。
自室に入る。相変わらず何もない。わずかに自分とは違う香りがした。
ベッドに潜り込むと、七瀬ちゃんも遠慮がちにそれに倣った。衣擦れの音がしばらく響く。
「あの…」
「なに」
「いつまでも図々しく居座ってて、ごめんなさい」
「気にしてないけど」
同じ布団の中で向かい合って話す。七瀬ちゃんはやっぱり恥ずかしいのか、少しだけ目線をそらしている。
確かにわたしも、初めは制服が乾くまでのつもりだったんだけど。なのになんでこうなったんだっけ。覚えてないし、どうでもいいっちゃどうでもいいけど。どうせ今さら引き返す選択肢はないし。
姉の言う通り、これって損な性格なのだろうか。損だの得だの、どうせ最後にはなにも残らないんだから、考えたって仕方ないのに。
「名前さんは…」
「うん」
「優しい人ですね」
「そうかな。優しくはないと思うよ」
優しいっていうのは、たぶん姉のような人のことを言うのだと思う。わたしは優しいんじゃない。だって、七瀬ちゃんに同情して動いてるわけじゃない。
「寝ようか」
「…はい」
まだ何か言いたげな七瀬ちゃんに背を向けて目を閉じた。
優しいなんて思わないでほしい。わたしにそういうことを期待しないでほしい。応えられないから。

目を覚ますと隣に七瀬ちゃんはいなかった。一階に下りれば、姉と七瀬ちゃんがキッチンで話している声がかすかに聞こえてくる。
「名前さんって何が好きなんですか?」
「うーん、年上の女の人じゃない」
「え…」
棘のある声で根も葉もないことを吹聴する姉に呆れつつ、訂正するのも面倒でそのまま洗面所に入った。
顔を洗ってから居間に行くと、いつも通り朝ご飯が並べられている。七瀬ちゃんにごはんをよそってもらい、姉が味噌汁を注いで手渡してくれる。
「ありがとう、いただきます」
静かに朝食を終え、そっぽ向いたまま仕事に出る姉を見送る。入れ違いに一実がやってきて、七瀬ちゃんの洗い物を手伝い始めた。
それも終わって、昨日と同じように一実が映画を見始める。
何かきっかけがない限りは動けないし、外に出なければ危険もない。お昼は出前でも取ることにして、今日は家でゆっくりしよう。そう決めていたのに。
昼前に、家の呼び鈴が鳴った。当然わたしが出るしかなく、玄関口まで行くと、磨りガラスの向こうにどこか見慣れたシルエットが一つ。訝しみつつ戸を開けると、そこには全身血まみれの女がいた。
「………」
「さすがの名前も驚いた?」
「驚いたっつーか引いてる。何しに来た」
橋本はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら、頬についた血を手の甲で拭った。よく見れば橋本には一つも怪我がない。ぜんぶ返り血か。
「いや、気持ち悪いからさ、お風呂貸してほしくて」
「なんでうちなんだよ」
「近くまで来たから」
あまり関わりたくないし、家の中にいる二人とも関わらせたくないんだけど、橋本は絶対に引かないし、血まみれの人間と玄関口で押し問答していて近所に変な噂でもされたら、姉がかわいそうだ。
ため息をついて、道を開ける。初めて来るのに勝手知ったるといった様子で風呂場まで行く橋本に呆れつつ、ふと前を見る。軒先に倒れている、スーツの男。議員の手先であることも、また助けられたこともわかるけど。
「人の家の前でやんちゃすんな」
「邪魔だったから」
移動させるのも面倒で、男はそのままにして戸を閉める。居間に戻れば、一実が訪問者が誰だったのか聞いてくる。
「橋本奈々未」
「えっ、キング? 名前ってキングとまだ繋がりあったんだ」
「そんなもんはない」
「そういやちょいちょい話してるの見るなあ」
「付きまとわれてるだけ」
否定しても、一実は聞いてるんだか聞いてないんだか。七瀬ちゃんは、置いていかれた子供みたいな顔で戸惑っていた。
「七瀬ちゃんもこの間会ったでしょ、ケーキ屋の前で」
「…ああ、あの、男の人の顔に向けて金属バットフルスイングしてた美人さん…」
「キングそんなことやってたの!? 相変わらずクレイジーだね〜」
そのクレイジーな女に、わたしはよく「名前の頭おかしいとこが好き」なんて、不本意かつ嬉しくもなんともないことを言われるんだけど、それはわざわざ教えることでもない。
「んでキングは何しに来たの?」
「風呂借りに来たらしい」
「ふーん……名前の周りって、相変わらず変な人ばっか集まってくるんだねえ」
自分もその一員であることを理解していないような顔で、一実はのんきに呟いた。
七瀬ちゃんは何か考え込むような顔をしている。どうしたの、と問いかければ真剣な顔で尋ねられる。
「橋本さんは、名前さんより年上なんですか?」
「同い年だけど、なんで?」
「い、いえ、なんでもないです…」
俯いてしまった。どんな意図があったのかわからないけれど、別段興味もないので追求はしないでおく。
とりあえず、二人を橋本と接触させるのは避けたい。風呂から出てきても居間には出てこないようにさせて、姉が帰ってくるまでに帰らせよう。

その日の食卓は昨日より冷え切っていた。いや、見た目的には盛り上がっているんだけど、わたしにはわかる。姉の笑顔が冷え切っていることが。
結論から言うと、あのあとわたしは、橋本をすぐに帰らせることに失敗した。風呂から出てきて、居間には通さなかったが、橋本は勝手に二階のわたしの部屋に行き、ベッドで眠り始めた。
力づくで引っ張り出すのも面倒であるし、眠っているだけなら害はないかと判断して放置したまま、姉が帰ってくるまでその存在を忘れていたのがまずかった。一実が帰ったあと、夕食の時間になると、何食わぬ顔で二階から降りてきたのだ。
あのときの姉の、目を丸くして驚いた顔。ひどいもんだった。
姉と橋本には直接的な関わりはいまだないが、橋本はおそらく姉のことを調べ尽くしているし、姉も姉で、高校時代橋本がわたしにしたことを知っている。わたしが何も言わないから姉もはっきりとは言わないだけで、警戒しているのだ。
しかし、基本的に八方美人で世話焼きな姉は、なんだかんだと橋本の分の食事まで用意してしまった。橋本も橋本で、それを享受して一緒に食卓に着いてしまうし。
「お姉さんは料理お上手なんですね」
「ありがとう。名前は味わかんない子だから、なに食べても同じだと思ってるだろうけど」
「味くらいわかる」
「じゃあたまには美味しいくらい言ってよ」
ぷくう、と頬を膨らませて睨まれた。橋本が面白そうにそれを眺めている。
「……美味しいです」
「よろしい」
満足げに笑う姉の向こうで、橋本が心底楽しそうに肩を震わせていた。早く帰らないかなこの人。
「あれ、西野ちゃんってあんまり食べない子? 大きくなれないよ。ほら、名前の分の豚カツあげる。あーん」
ひょいっと箸が伸びてきて、わたしの皿から豚カツを奪っていく。別に食べ物に執着したりしないけど、目の前に豚カツ突きつけられて、七瀬ちゃん困ってるだろ。
「じゃあ名前には私の分あげるね。はい、あーん」
「便乗してんじゃねーよババア」
殴られる。それを見て口元を手で覆いながら大笑いする橋本。頼むから早く帰れ。

その後も、何がしたいのかいまいちわからない橋本に(主に七瀬ちゃんが)振り回されながら時間は過ぎた。橋本がそろそろ帰ろうかなと言い出したのは、姉と七瀬ちゃんが庭で洗濯物を干しているときだった。
靴を履く橋本の背中に早く帰れと念を送る。その念が通じたわけではないだろうけど、帰り支度だけは素早かった。
コツコツとヒールを響かせて玄関の戸をくぐり、振り返る。
「いい子だね、七瀬ちゃん」
「……」
なんとも言えない。七瀬ちゃんがいい子かどうか判断しあぐねているわけじゃない。ここでわたしが同意しても否定しても、いい結果にはならない。黙っていても意味はないけど。
「ま、七瀬ちゃんのことは今はいいか」
「今はって何」
「まあまあ、それよりね、私、今日、名前にとっては余計なことしちゃったかも」
「…………今日のケンカの相手って」
ニコッと笑われる。わたしはうんざりとため息をつく。
「でもまあ、私は私の目的のために動いただけだから。名前も名前のために頑張ってよ。誰よりも応援してる」
「あっそ、さよなら」
ヒラヒラと手を振る橋本に振り返しもせず戸を閉めた。鍵をかけて、居間に戻る。そこでは、洗濯物を干し終えた七瀬ちゃんが、うっすらと微笑みながらテレビのバラエティ番組を眺めていた。
無理をしているような笑顔ではない。自然に緩んだ口元や目尻に、何か思うわけじゃないけど、それでもしばらく目が離せなかった。
明日、この生活にもようやっと変化が訪れるかもしれない。
160905
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