いつもより早めに起きる。しかしすでに隣に七瀬ちゃんの姿はなく、一階に下りれば、仕事が休みであるのに関わらず、いつも通りの時間に朝食を用意する姉と、それを手伝う七瀬ちゃんの姿があった。

「おはよう、名前」
「おはようございます」
「おはよ」

 あくびを噛み殺しながら挨拶を返して居間の座布団に腰かける。今日は一実に少し早めに来てもらうよう言ってあったからわたしも早起きしたけど、まあさすがにこんな時間には来ないか。
 ニュースはあの日以来避けているため、朝の時間帯はテレビをつけない。姉は元々食事中にテレビを見るのを好ましく思っていない人だから、わざわざ伝えなくても大丈夫だった。
 ちなみに好ましく思わない理由は行儀云々ではなく、いわく、食事のときは唯一わたしがまともに話を聞いてくれるから、テレビはむしろ邪魔、らしい。
 わかるようでわからん。姉らしい理由だとは思った。

「ごはんできたよー」

 何もしなくても並べられる朝食を摂る。今日の卵焼きは七瀬ちゃんが焼いたらしい。ちらちらと遠慮がちに反応を窺われたので、目があった際に美味しいよ、と伝えると、思い切り顔をそらされた。
 そのあと、伝えた通りにいつもより早めに訪ねてきた一実を居間に通した。一実は片手にレンタルビデオ屋の袋を、そしてもう片方の手には竹刀袋を握りしめていた。
 姉は何か感じ取ってあまり喋らなくなり、七瀬ちゃんもその雰囲気に飲まれて不安そうな顔をしていた。
 居間に流れるとなりのトトロのテーマソングが、どこか的外れで滑稽な感じがした。



 そして、九時を回った頃に、家の呼び鈴が鳴る。

 訪ねてきたのはあの日テレビで見た議員の男と、同じく見たことのある大柄なスーツの男。鼻の部分に固定器具が巻かれている。橋本に潰された鼻、治るのかあれ。
 七瀬ちゃんは姉と一緒に二階に行ってもらった。明らかに怯えていたし、わざわざ聞かせる話でもない。居間にはわたしと一実、それから議員とその側近だけが残った。
 向かい合って座ると、さっそくとばかりに、テーブルの上に無造作にアタッシュケースが置かれる。

「取り引きをしよう」

 開かれたケースの中には一万円札の束が、無駄にきれいに整えられて入っていた。ドラマとかでよく見る光景。
 鼻の下でも伸ばしてんじゃないかと思って一実を見れば、予想と違って真剣そのものの顔。こういうときにそういう顔ができるからこそ、一実は信用できるんだけど。

「一千万ある。これで手を引いてほしい」
「手を引くって、何から」
「とぼけないでくれ。昨日、うちの事務所と、手を組んでいる暴力団の本拠を襲撃したのは君のグループだろう。リーダーの女が、名前と名乗っていたと聞いた」

 橋本、喧嘩売るのはいいけど、人の名前出すんじゃねーよ。
 コメカミを抑えつつため息を吐く。

「君を襲ったことは謝る。こちらも全面戦争は避けたい。だから、大人しく金を受け取って、七瀬を渡してくれないか。それに、君さえよければ、これからもいい関係を築いていきたいと思っている」

 つまり用心棒として雇わせろと言っているわけで、けれどこの男、勘違いしている。
 攻撃を仕掛けたのは橋本のグループであってわたしのグループではない。そもそもわたしはグループを作れるほど知り合いはいないし、作る気もない。
 それに、襲撃の理由も、わたしが襲われたせいではない。きっかけはそれだろうが、報復を頼んだ覚えはないし、橋本も、そんなことじゃわざわざ動かないだろう。何かしらの目的があったのは確かだが、昨日言っていた通りそれは、限りなく個人的なものに違いない。誰かのために動くなんて、橋本に関してはありえない話だ。

「取り引きに応じてくれるか」
「取り引きも何も、それわたしとは関係ないから」
「……なんだと?」

 片眉を上げて目を細めた議員の口ぶりは、あきらかに機嫌を損ねたものだった。

「確かに七瀬ちゃんはうちにいるし、わたしもそこの男に殴られて怪我したけど、それとその襲撃は関係ない。わたしはカラーギャングのリーダーじゃない。そもそもそんなもんに属した覚えもない」
「つまり交渉は決裂ということでいいのか?」

 そもそも交渉すると言った覚えもない。はいはいと頷けば、アタッシュケースの蓋が大きな音を立てて閉じられた。議員は口元に嘲笑を浮かべてわたしを見る。悪代官みたいなやつだな。

「この私が、敵陣を赴くのに何の対策も取らずに来ると思うか? この家の周りはすでに囲ってある。あのカラーギャング共と君が繋がっていないのなら、こちらが下手に出る必要はない。君たちのようにか弱い女性相手なら、私とこの男だけでも十分だ。七瀬は返してもらう。そして、この話を外に漏らさないよう、永遠に口を閉ざしてもらう」

 言葉を合図に議員の側近が動こうとした、瞬間、その喉元に音もなく竹刀が突きつけられる。
 一実の腕は中に針金でも仕込まれているかのように鋭く伸びて乱れない。真剣な眼差しから滲み出る殺気は、橋本にも引けを取らない。その目で射抜かれた男は顔を引きつらせ、身動き一つ取れなくなっていた。
 竹刀では死なない、そうわかってはいても、一実の気迫に飲まれると怖くなるのだ。棒切れでも何でも、得物を手にした一実はこの街で一番強い。

「橋本が何人引き連れてあんたんとこ攻めたのか知らないけど、一実は一人でそれを補いきれるほど強い。それにわたしも、この家の中で暴れるっていうんなら相手になるよ」

 立ち上がると、議員が座り込んだまま後ずさった。わたしまだ何もしてないけど。

「わ、わかった、倍の金を出す! だから七瀬だけは渡してくれないか…!」

 親心なのか、そうじゃないのか。わたしには判断しかねる。
 黙って一歩近づけば、議員は額に汗を滲ませながら情けなく笑って見せた。

「な、七瀬のことが気に入ってるなら、貸してやるから…! だから俺についてくれ!」
「なんだそりゃ」

 ため息まじりに胸ぐらを掴む。汗ばんだスーツの感触が手のひらにまとわりつく。不快だなあと思った。
 怯えきった顔。人を殴るのはずいぶんと久しぶりのことだ。加減できないかもしれない。しなくていいのか。
 もしものときは一実が止めてくれる。



「勝手なことばっか言わんといて…!!」

 唐突に背後から響いた声。振り返ると、七瀬ちゃんが見たこともないような激情を背負って立っていた。

「あれ、七瀬ちゃん。なんで来たの」

 その問いに答えはない。七瀬ちゃんはわたしの声が聞こえてないみたいにまっすぐ父親を睨みつけている。
 姉が慌てたように二階から走ってくる。隙をつかれて逃げ出されてしまったのだろうか。まあ別に閉じ込めておいてって頼んだわけでもないし、いいけど。

「気持ち悪い! 大っ嫌い! お父さんも、学校のみんなも、先生も、自分も、ぜんぶ大っ嫌い…! 嫌い、嫌い、…もう、いやや…」

 七瀬ちゃんはくしゃくしゃに顔を歪めて、癇癪を起こした子供みたいに、ままならない感情の波に翻弄されていた。

「もう、いや……もう何もかもに怯えながら生きるんはいや……こんなんやったら生まれるんやなかったって、そう思いながら生きるんもいや……っ!」

 泣き叫ぶ声と共に七瀬ちゃんが腕を持ち上げる。その手の先には鈍く光る包丁が握られていた。
 その場の誰もが固まる。一実も姉も、竹刀を突きつけられたままの男もぎょっとしている。けれど何より驚いていたのは、その刃を向けられた、七瀬ちゃんの父親だった。
 七瀬ちゃんは震える両手で、それでもしっかりと包丁の柄を握りしめていた。潤んだ瞳には涙と憎しみしか浮かんでいない。
 わたしにはその感情もよくわからない。憎しみも、失望も、期待するから生まれてしまう。なら最初っからそんなものしなけりゃいいのにって思ってしまうのは、橋本の言うとおり、わたしの頭がどっかおかしいせいなのだろうか。

 まあ、どうでもいいけど。いや、どうでもよくないのかな。よくわからないな。考えるのがめんどくさくてやめる。いつものことだ。

 視界の中で七瀬ちゃんが動く。父親に向かって。
 包丁の刃が蛍光灯の明かりに照らされて光るのを、フィクションドラマを見るように眺めていた。



 血が落ちる。畳の網目に流れ込んで、ああこれはシミが取れなくなって姉に怒られるやつだ、とのんきに考える。
 手のひらには数瞬遅れで鋭い痛みが走る。場違いに、自分がちゃんと生きている人間なのだということを実感した。

「名前さん…な、なんで」

 七瀬ちゃんが憔悴しきった目でわたしを見上げる。なんでって、目の前で人殺しそうになってる人いたら、普通止めるだろ。
 七瀬ちゃんの手から力が抜けて、包丁が離れる。わたしはその刃を握ったまま、驚愕に目を見開いて固まっている議員を振り返る。

「お父さんさ、七瀬ちゃんいらないんだよね」

 七瀬ちゃんの肩が揺れる。聞きたくない、知りたくない、わかるけど、ただ殴られて、相手の思うように生きるのが嫌になったから、逃げ出して、行き着いた先のこの家から出ようとしなかったんだろう。
 ここにいたいならいつまでもいればいい。姉だって七瀬ちゃんのこと気に入ってるみたいだし、一実とも仲良くやれてるみたいだし、家事だって手伝ってくれてるし、朝の卵焼きも美味しかったし。わたしはわたしが笑えない分、せめて周りの人間にはちゃんと笑ってほしいと思ってるから。

「お金もいらないし、汚職だ虐待だってのもバラさない。どうでもいいから。だから、あんたがいらないなら、七瀬ちゃんわたしにちょーだい」

 笑えないし怒れない。なんで生きてるのかもわからないままただ息をしてるだけの人間。優しくもなんともないわたしだけど、せめて誰かを守っていたい。わたしにだって誰かを守れるって、自惚れながら死にたい。

「何を馬鹿なことを…! 第一、君がそのことを話さない証拠など…!」
「勘違いすんなよ。これは提案じゃないしお願いでもない。死ぬよりひどい目にあいたくなけりゃ黙って頷けよ。それに、娘に命狙われながらじゃ、お仕事もはかどらないよ」

 掴んでいた包丁を男の前に投げ捨てる。男はべったりと血のついたそれを見て、引きつった顔で黙り込んだ。それが答えだった。
 かくして、呆気ないほど簡単に、事件は幕を閉じる。



 ガラクタだらけの空き部屋を、姉と二人で掃除していた。マスクをしていても、舞う埃にくしゃみが出る。目がかゆい。

「名前、ほんとによかったの?」
「何が」

 ゴミ袋片手に姉が尋ねてくる。この部屋を片付けることか、七瀬ちゃんのことか。

「警察に言ったりしなくて」
「ああ…だって、警察に言ったら、七瀬ちゃんが大変だし」
「名前ってそういうこと考えられたんだ」
「うるせえババア」

 殴られそうになったのを躱す。睨まれる。

 父親に何もしなかったのは、七瀬ちゃんのこともあるし、単純に興味がなかったから、というのもあるけれど。
 七瀬ちゃんにとっては、汚職議員だろうが、自分を金で買おうとした男だろうが、それでも父親だから。きっと大切に思っていたときもあったし、親と子らしく過ごした、幸せな時間だってあったはずだ。
 だって、じゃなきゃ殺したいほどに憎んだりしない。たぶん。
 そして、その思い出まで奪う権利は、ただの他人であるわたしにはない。



 空き部屋の掃除を一旦中止して一階に下りる。トラックに積まれた段ボールを家の中に運んでいた七瀬ちゃんが、わたしを見つけて走り寄って来た。犬みたい。

「名前さん、手の怪我、大丈夫ですか?」
「うん」

 もう痛くない。痛いのかもしれないけど、あまり意識しないのですぐに怪我をしていたことすら忘れる。

「本当にごめんなさい…」
「別に、治らない怪我じゃないんだから」
「でも、女の子の体に傷なんて…」
「七瀬ちゃんも傷だらけじゃん。おそろいおそろい」

 七瀬ちゃんがキョトンと目を丸くする。ああ、もしかして今の発言って無神経だったのだろうか。泣かれても面倒だな。
 と思ったけれど、七瀬ちゃんは逆に嬉しそうに頬を緩ませた。変な子。

「喉乾いたな。七瀬ちゃんもなんか飲む?」

 七瀬ちゃんの横を通り過ぎてキッチンに向かう。冷蔵庫の中にはジュースなんて気の利いたものはない。
 麦茶のペットボトルを空けて、コップに注ぐ。七瀬ちゃんに手渡すと、両手でしっかりと受け止めた。

「あの、名前さん」
「なに」

 七瀬ちゃんの顔を見れば、初めて見る、年相応の笑顔を浮かべていた。

「なな、名前さんが好きです」


160906


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