忠犬ボクサー3


◆ ◆ ◆

 青柳の犬。
 別に不名誉なことじゃない。事実俺は青柳に褒められるためにボクシングをしているのだから。

 ボクシングをしていたら青柳は俺のことを褒めてくれる。

 自分以外の人間は鬱陶しい。いつも俺の邪魔をするから。
 でも、青柳は特別だ。俺が心を許せるのは、青柳だけだ。

 俺のほんのわずかに残っている優しさは、全部青柳にやろうと思うくらいには好きだ。



 体についた泡を落とすと、レバーハンドルを捻りシャワーの湯を止めた。体を拭いてシャワー室を出る。

 頭にタオルを乗せて濡れた髪を適当に拭く。
 ジムのロゴの入ったジャージを着て練習スペースへ戻ると、さっきまで汚れていたリングの上はきれいになっていた。もう別の練習生たちがスパーリングをしている。

「あ、南田さん、お疲れ様です。山田選手、ついさっきタクシーで帰りました」
「あっそー」
 どうでもいい報告をくれた練習生へ適当に相づちを打ち、青柳を探した。

 青柳は受付のところにいた。選手連中や練習生たちがその周りにハエのようにたかっている。

「吉井くんはもう少し塩分量を減らすことを心がけてみて。あとタンパク質は大目に」
「わかりました」
「蓮さん、俺試合決まったんで減量メニュー組んでください」
「うん。明後日持ってくるね」

 青柳は受付周りの掃除をしながら練習生たちに食事のアドバイスをしていた。
 俺に気が付いた、確かフライ級の選手だったかが「あ、」と声を出す。

 手をひらひらと振りながら青柳に「お待たせぇー」と心にもないことを言いながらジムの受付まで向かう。

「もう、純平くん、髪の毛まだ濡れてるよ?」
「うっせぇ。早く行こうぜ」


 ひとり暮らしの俺の家へ帰る前に、ジム近くのスーパーへ歩いていく。

「新聞見た? 純平くん1面に大きく載ってたね」
「どうでもいい」

「え〜。すっごくカッコよかったのに」
 そう言って笑うと青柳は俺の数歩前を歩く。青柳の一つに束ねた栗色の髪がふわふわと揺れた。その後ろ姿について行く。

 青柳が着ている薄手のネイビーのニットの袖が手の半分くらいを隠している。
 それもそうだ。あのニットは元々俺の服だ。俺の身長はライトフェザー級にしては大きめの178pある。対して青柳は165pも無かったはずだ。

 よく分からないが、青柳は俺の買った服を着たがる。とはいえ俺はジャージを着ていることの方が多いから、別に私服が減ろうがどうでもいい。
 青柳がそうしたいなら、それでいい。

「痛っ」
 そのままぼんやり歩いていると青柳のそんな声が聞こえた。
「気ィつけろや! コラ!」

 目の前で青柳といかにも『ヤンチャ』をしてそうな男がぶつかったらしい。
「ごめんなさい」
 困った顔で男に謝る青柳の肩を掴んで引き、俺の後ろにやる。

「ア? なんだテメー……っ?!」
 青柳にぶつかってきた男を睨みつけた。
「テメェが気ぃつけろや、クソが」

 男は真っ青な顔で「スンマセン」と謝って走って逃げていった。

 ボクシングをしていて、こういう時に手が出せないのも足枷のひとつだと思う。ボクシングさえしていなかったら、青柳にぶつかってきた男を殴り殺せていたのに。

 そんなことを考えていたら青柳が俺の手を握ってきた。
「なんだよ」
「純平くん、手を出さないでえらかったね……いい子」

 喉が鳴る。ドクドクとたくさん走った後みたいに全身の脈が響く。
「別に」

 青柳に手を引かれてスーパーの中へ入った。インスタントの袋麺が陳列されているところで色んな種類のラーメンを眺める。いつもは醤油ラーメンを買うが、今日はとんこつラーメンのパッケージがやけに目を引いた。

「トッピングも買っちゃおうか。何がいい?」
「チャーシュー。おい、今日は」
「とんこつラーメンの気分、でしょ?」

 そう言って青柳は黄色いパッケージのとんこつラーメンを手に取って買い物かごに入れた。



 高くも安くもない2Kのマンションの1階に俺の家はある。

 青柳が買った食材を冷蔵庫へ入れていく。

 ほぼ毎日この家に来るのだから一緒に住めばいいのにと思う。それを青柳に言ったら、俺の顔が知れているからここには住まないと言った。
 ボクサーも人気商売だから、らしい。別に週刊誌でどうこう書かれても俺は気にしないのに。

「じゃあ、作るね。ネギ、冷凍してるのまだあったよね」
 台所で鍋とラーメンの準備をしている。俺は青柳の作るラーメンが好きだ。ただのインスタントの即席めんなのに、青柳が作ると美味しい。

 でも今はラーメンよりも欲しいものがある。

「メシはあとだ。褒めろよ、なあ。青柳ィ。俺まだ一昨日の、もらってねぇ」
「うん。純平くん、おいで」

 俺は青柳に褒められるのが好きだ。


 青柳は小さくて細い、そして軽い。青柳の前に跪いて、そのウエスト部分に腕を回して抱き着く。

 ボクシングの計量は試合前日に行われる。計量が終われば減量した体もすぐに栄養を吸収してほぼナチュラルウェイトに戻る。元々過度な減量はしていないが、それでもナチュラルウェイトより落とした階級で試合をするからだ。

 もちろん試合が終わればすっかり体重は元に戻る。
 青柳の薄っぺらな胴体に体重を預けると、青柳は弱々しい声で「重いよ」と言った。

「試合、頑張ったね。いい子、いい子」

 そう言って俺の頭を撫でてくる。昔から変わらない柔らかい手だった。

 ふと、そろそろ許してくれるんじゃないかと思った。

 青柳の親父の言う『結果』を俺は残している。
 きっと青柳も認めてくれると思う。そしてまた、俺を褒めてくれるだろう。

「な、青柳。やっぱ俺さ、総合もやってみたい」
「総合って、なんのこと?」

 ぴたりと俺の頭を撫でていた青柳の手が止まる。

「総合は、総合格闘技に決まってんだろ」
「どうして?」
「どうしてって、なあ……わかるだろ? 手しか使えねぇんだ、ボクシングってのは」
「だから?」
「足枷のない状態で、俺はやりてえんだよ」

 昔、同じことを青柳に言った。あの時俺は13歳だった。だからこれは10年越しの懇願になる。

「まあ別に、純平くんがしたいならいいよ」

 優しい声に、俺は顔を上げて青柳を見る。青柳は笑っていた。

「でもさ」

 そう口を開いた青柳の声音に、ぞわりと、いつかの時と同じ危険信号が体に走る。

「そうするともう、僕は純平くんのこと、捨てなきゃいけなくなるよ?」
「捨てる? リングの上で闘って、破壊するのは同じじゃねえか! なんで俺は、捨てらンなきゃいけねえんだよ!」
「当り前じゃない。だってそうすると純平くんは青柳ボクシングジムを辞めて別の総合格闘技のジムに所属することになるよね?」

 ぞわり、ぞわりと、痛いくらいに危険信号が全身に駆け巡る。

「どうする? 純平くんは誰からも指示をもらえなくなって、どうしたらいいか分からないまま、ひとりぼっちで生きていかないといけないんだよ?」

 青柳が俺を捨てる。もう青柳に褒めてもらえない。

 青柳は俺のことを好きだと言ってくれた。それは嘘だったのだろうか。

 今立っているはずなのに、平衡感覚が失われていく。

「純平くんは、ひとりで生きていけるの?」
「壊すのは、どっちも同じだろ。なんで、俺は捨てられるんだ?」

 問いに問いで返された青柳は優しく微笑んだまま「自由に、なりたい?」と俺に尋ねた。

 青柳の言う自由が俺のことを捨てるという意味であれば、それは俺にとって死刑宣告のようなものだ。

「僕のこと、壊せば自由になるよ」

 どうすればいいのか分からないでいると、青柳はそう続けた。

 青柳を壊す。そんなことは考えもしなかった。

 青柳のからだを頭から順番に見ていく。小さくて筋肉の感じられない細い体。

 ボディを殴るか、頭を殴るか。それもちょっとの力で。
 きっと俺は青柳を、とんでもなく簡単に壊すことができるだろう。

 ゆるく広げた右手を小指側から折りたたみ、親指で人差し指から薬指を抑えて拳を作った。
 この握り方だけは、青柳が俺に「僕はこれしか知らないけど」と言って教えてくれたことだった。

 前傾姿勢のオーソドックスな構えから右ストレートを放つ。
 拳は青柳には届かない。その隙間は1pくらいか。それでも青柳は少しも動じず、ニコニコと笑っているままだ。

 俺は拳の形を作ったまま、だらりと腕の力を抜いて下ろした。

「僕のこと、壊さないの?」
「お前が、俺を壊してくれよ……青柳」


 青柳に言われ服を全部脱ぐ。俺の家で唯一大きな家具であるパイプベッドの上で、脚を開いて仰向けに寝かされる。

 脚の間に青柳がやってくると、ローションのキャップを開けて手に垂らしていく。ローションを纏った青柳の指が尻の穴に添えられ、いつになっても慣れない冷たさにひくりと震えると青柳は微笑んだ。

「純平くん……好きだよ」
「う……っ」

 2本だろうか。突き入れられる青柳の指にピリッとした痛みが走る。
「痛かった? ごめんね。ちょっとだけ怒ってるから」

 いつもより乱雑に入った指を動かしながら青柳は言った。

「純平くんが、僕から離れようとしたからね」
「お前だって、俺のこと捨てるとか言った」

 自分で言って鼻の奥に奇妙な痛みが走った。青柳はいつも俺に初めての痛みをくれる。

「ごめんね」

 青柳は眉毛をハの字にして困ったような顔をした。

 指がゆっくりと俺の中から引き抜かれると、青柳は自分の着ていた服を脱ぐ。
 青柳が大きくなった自分のソレを俺の尻の穴にピタリとくっつけ、そこにローションを新しく垂らした。

「純平くん、入れるね」

 俺の中を青柳のソレが深々と入り込む。入っては出て、入っては出る。

 入り込む瞬間は相変わらず苦しくて痛いのに、入ってしまえばその痛みは快感に変わる。青柳に指を突き入れられたときに緩く持ち上がっていた自分のソレは、もう硬く反り勃っていた。

「あお、やぎぃ」

 太ももに添えられている青柳の細い腕に手を伸ばし掴む。

「純平くん、かわいい。どうしてあんなに強いのに、僕なんかにいいようにされちゃうんだろうね」

 青柳の視線の先には並べられたトロフィーがあった。

「しら、ねぇよ」

 確かに青柳は鼻クソみたいに弱い存在だ。

 どうして俺は青柳にこんな事を許しているんだろうか。自分のことなのに理解できない。

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