「それで、出発はいつだ」
飲みの席。この宴席は先の無血開城が成されたことの祝いの宴席だ。薩摩・長州、坂本、そして隠し刀で飲み始め、少し酔いが回り始めたところだ。遠目に桂の首がゆっくりと傾いていくのが見える。あともう少ししたら踊り出すかもしれない。
周りの浮かれた声が雑音として響く中、隠し刀の声はすっと龍馬の耳に入ってきた。彼女の声は、剣を振るう際の掛け声もよく通る。勇ましく、凛としたその声質が彼女の伸びた背筋とぴったりで、龍馬は好ましかった。もう少し近くで聞きたいと、龍馬は女に身を寄せた。聞こえないふりをすると、女も龍馬に身を寄せてもう一度言葉を紡ぐ。
「いつ出発するんだ」
「まあ、5日後くらいじゃな」
「そうか。あっという間だな」
隠し刀は眉尻を下げ、瞳は遠く澄んでいた。出会ったころよりも表情が豊かになった隠し刀を見て、龍馬は目を細める。
隠し刀と結ばれたのは、龍馬が近江屋で襲撃され、目を覚ましてすぐだった。
不安定な日本で、いつまで一緒にいられるかわからない。それに、自分の目標のために隠し刀を付き合わせることに、いつも迷いがあった。そんな中、隠し刀から想いを告げられ、龍馬は天にも昇る気持ちであった。初めて肌を合わせた日のことは忘れられない。いつも強気な隠し刀が、気恥ずかしそうにした様子は、親密な仲でしか見られないものだ。
甘い思い出に浸っていると、隠し刀と目が合い、にこりと微笑んできた。綺麗に弧を描く口元につられ、龍馬も微笑み返す。想いが通じ合うというのは、身体の奥がくすぐられ、それがなんとも心地よい。
酒も入り、しばし夢見心地だった龍馬に、隠し刀は微笑みの表情を崩さず言った。
「お前まさかとは思うが、別れの挨拶ではい終わり、ではなかろうな」
「なんじゃ、急に……」
龍馬は何か冗談かと思い、軽い返事をしたが、隠し刀の様子を見て口を一文字にした。彼女の表情は笑顔であるが、口調は責め立てるようだったからだ。
龍馬はこの局面に覚えがあった。
江戸で長屋に邪魔した際、棚にあった小皿を割ってしまったことがある。もちろんわざとではない。囲炉裏に火をくべ、立ち上がる際に裾を踏んでよろけた先に棚があっただけだった。そのときは隠し刀が不在で、どう始末をつけようか悩み……結局、隠蔽を試みた。
龍馬は人から叱られるのが嫌いである。好きなものはいないだろうが、とりわけ龍馬は苦手であった。
小さな長屋とはいえ、土間にはしっかりとかまどがある。釜の蓋を開けると、朝炊いたであろう米が残っていた。それを少し拝借し、割れた小皿の破片につけた。破片同士を擦り合わせ、どうにか接合できないか……とかまどの前で試行錯誤していると、長屋の戸が小気味のよい音を立てて開いた。主人の帰宅だ。
龍馬はとっさに小皿を後ろ手に隠し、隠し刀の帰宅を労ったが、かまどの前でうずくまる男など盗人のように怪しい。隠し刀は戸の前から動かず、龍馬の足元に転がっている小皿だったものを見つけ、次に釜の蓋が開いているのを遠目で確認した。隠し刀は口の端を上げ、こう言った。
「ほう、上手く工作はできたかな」
あとから知ったことだが、玄瑞がこの小皿を気に入り、隠し刀はそれを譲ろうと、包むための和紙を買いに行っていたという。もっとも、気まずい思いをしたのはこの事実ではなく、龍馬が己の不始末を隠蔽しようとしたことだった。隠し刀は龍馬の「事なかれ主義」をちくちくと責め立てた。いっそ叱られた方がマシだったと思うほど、隠し刀は「残念だ、残念だ」と繰り返し、龍馬の良心に訴えかけたのだった。
当時のことを思い出し、にわかに強張る龍馬。それを知ってか知らずか、隠し刀は龍馬の顔を指差し、続ける。そこに微笑みはもう無い。
「お前は人と縁が繋がればそれで終わりと思ってるかもしれないが、人の生とはその後も続くものだ。繋がった縁は忘れられないよう、時折思い出の箱から取り出してやらねばならん」
「……どうも要領を得ん話じゃが」
龍馬は真意が掴めず、思わず眉間に皺が寄る。
「つまり……晋作から短銃を貰った後、ちゃんと礼は言ったのか?」
「もちろんじゃ! わざわざすまんのう、と……」
「貰ってすぐの礼ではなく、そのあとだ。"あのときはどうもありがとう、しっかり使っているぞ"と」
「……あ」
言っていない。言っていないが、晋作からもらった短銃を己が愛用していることは知っているはずだ。なぜなら共闘した際「使ってくれてるんだな」と一言声をかけられたからである。そのときは気にならなかったが、今思えばその言い方は、自分の贈ったものを使ってくれているかやきもきしていたそれだろう。
つまり隠し刀は、因縁を繋ぎ止める努力が必要だと龍馬に説いているのだ。龍馬にとって因縁とは、通り過ぎる道でできた縁に過ぎず、そのあとのことは風の吹くままであった。晋作からもらった上海土産の短銃然り、細やかな気遣いをしてきたとは言えない。
「龍馬は広い視野を持ちたいのだろう? そのために人との縁を大事にして、盤石な因縁を結ぶことが大事だ。生活の基盤を作りやすくもなる」
「ううむ、確かに」
龍馬は顎に手を当てて納得した。それを見た隠し刀は釣り上がった眉尻を下げる。力を抜いてふ、と微笑むと、龍馬の肩を叩き、空いた片方の手で背中をさすった。
「とはいえ龍馬、お前の人の懐に入りこむ能力は大したものだ。きっとその能力は米国でも役に立つだろう」
龍馬は一瞬ご機嫌取りをされたのかと思ったが、背中に置かれた隠し刀の手から慈しむような仕草を感じ、自分は励まされているのだと知った。その温かさがくすぐったく、思わず姉である乙女のことを思い出した。時には厳しく、常に自分のためにそばにいてくれた存在だ。
隠し刀に出会ったころ、そのうち自分と家族になってみるかと冗談を言ったことがあった。あのときの隠し刀は曖昧に笑って誤魔化していたが、その隠し刀が今、本当に家族のような存在になったのだと確信する。隠し刀の温かい手が、それを物語っていた。
「わしは幸せもんじゃのう」
「そうだろう。私も今はそう思っている。ところで、話は最初に戻るが、私のたちの縁も思い出の箱から出さなければならなくなる時が来るだろう」
「……なんとなくおまんが言いたいことはわかったけんど、わしは何をしたらえいがよ。もっとはっきり言ったらどうじゃ」
「だから……」
隠し刀は目線を外し、気恥ずかしそうにした。口の中で何度か言葉を噛む様子を見せ、決死の覚悟という目で龍馬に向き直る。
「手紙を寄越せと言っているんだ。他の奴らみたいに、放っておいてくれるな」
この一言を言うために、死地に赴くような目線を寄越したのか、このおなごは。そう思うと、龍馬は身体が震えるほど、この女を愛おしく感じるのであった。
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