吾妻橋で伊藤は途方に暮れていた。長州藩の面々が突然「団子を食いたい」と言い出し、じゃあ近所まで行ってきますよと言ったはずなのに全く遠いところまで足を運ぶ羽目になった。
というのも、高杉晋作が「吾妻橋に美味い団子が売っているらしい」と言い出し、他の男どもも聞いたことがあるだの食ってみたいだのやいやい言い始め、下手に買ってくるなどと言った伊藤は今更お使いを断ることもできず、もらった地図片手に馬を走らせることとなったのだ。
と、ここまでは良いのだが、問題は吾妻橋は大変混雑していることだった。天気がいいからだろうか、風が気持ちいいからだろうか。なんだかいつもより人が多く、このまま馬で橋を渡ることはできないと思った伊藤は、少し戻って馬屋に愛馬を預けて再び橋の前に立った。意を決して人混みに飛び込み、掻き分けて目的の団子屋を探すが、ひとつの店を見るにも一苦労。もみくちゃにされた伊藤は、半分もすぎないうちに橋の欄干まで避難することとなった。
「あー、なんで今日に限って……」
「伊藤くん?」
欄干に寄りかかって川を眺めていると、後ろから声がかかった。高い声はよく聞き馴染んだもので、それだけで声の主がわかると伊藤は飛び上がるように振り向いた。
「ナマエ!」
「やっぱり伊藤くんだ! 珍しいね、どうしたのこんなところで」
ナマエは道場の門下生である。江戸には無数の道場があり、その中でも小さい道場でひっそりと鍛錬に励んでいる。
柔術について嘉納から手解きを受けていた伊藤は、嘉納の顔馴染みのいる道場を紹介された。そこにいたのがナマエである。
ナマエは伊藤の隣に立つと、同じく欄干に手を置いて海を眺めた。
「よくこの人混みの中、俺だって分かったな」
「だって……伊藤くん目立つし」
「そんなこと言われたことねーよ」
「ほんと?」
目を細めて笑うナマエはそれ以上何も言わず海を眺めた。その横顔を見ていると、伊藤は思い出すことがある。
ちょうど10日前の出来事だ。伊藤はナマエと2人きりになったことがあった。道場の外、石段の上で鍛錬を抜け出したナマエを見つけた。
その日はいつものナマエと違い、片手に団子を持ってぼうっと空を眺めていた。町へ出ようと前を通りかかった伊藤にも気づかず、団子も手に持ったまま静止したナマエを見て、伊藤は思わず声をかけた。
「よう」
「あ、伊藤くん。どうしたの」
「どうしたっつーか……お前こそ何してんだ?」
「んー、ぼーっとしてる」
お団子一緒にどう?と力なく微笑むナマエを見ると、その誘いを断ることはできなかった。
素直に石段を上り、少し間を開けて隣に座る。
ナマエは膝に乗せていた団子の包みを持ち上げ、一本取るよう催促する。みたらし団子だ。甘塩っぱい蜜の香りが食欲をそそる。伊藤は促されるまま受け取り、ひとつ食べた。
誘ってきた割に、ナマエは何も話さない。時間はゆっくり流れるし、動いているのは町人と風に吹かれたナマエの髪くらいだ。
そのとき、ナマエが一点を見つめているのに気付いた。視線の先には子どもと、その母親がいた。なんの変哲もない親子の姿は普段であれば見逃してしまいそうなほどである。
「私もいつかああいう母親になるのかな」
「え」
「全然想像つかないな。まあ、ならなきゃいけないんだろうけど」
若い娘は、大抵貰い手がつく。ナマエは勝気な娘ではあるが、器量も良いし家柄も悪くないため、苦労はしないだろう。
伊藤は、自分の意思とは裏腹に「嫁に行く」ことが決まっている若い娘の人生を、目の前の親子のように当たり前だと思っていた。だが今、等身大のナマエからその話を出されると、一気に現実味が増す。それなのに、伊藤はナマエが変わらず柔術に打ち込んでる姿しか想像できない。
伊藤は思わず隣に座るナマエを見る。ナマエももう親子のことは見ていない。代わりに空を見上げ、ゆったりと流れる雲を眺めていた。
「空、青いね」
優しい風が吹き、2人の輪郭を撫でた。空を見上げたナマエの横顔を見ていると、まるで知らない女性に見えた。それと同時に今すぐにでもナマエを抱き寄せたいと思った。寂しそうなナマエを、放っておけないと感じたのだ。
今、隣で海を眺めているナマエからはそのときのような寂しさは感じられない。それでもあの一件を思い出してしまうのは、伊藤にとって印象的な出来事だったからだろう。
気がつくと、怪訝な顔をしたナマエが伊藤を見ていた。目が合った伊藤はぎくりと肩を震わせる。
「……なに? じっと見てきて……」
「いや! なんか雰囲気違うなーと思って」
取り繕ったが、本心だった。道場での様子とは違い、薄く化粧をして髪も綺麗にまとめている。服だってそこら辺の町娘と同じだ。
伊藤に首から下を指さされ、ナマエは装いのことを言われてるのだと気付いた。
「さすがに稽古着で出歩かないよ。今日はお団子買いに来たんだ」
「団子?」
「もしかして伊藤くんも買いに来たの?」
「そうなんだよ。でもこの混み具合だろ? 店が見つからなくてさ」
橋の真ん中に目を向けると、見渡す限り人ばかりだった。またこの人混みに紛れて饅頭屋を探すのは骨が折れそうだ。
「案内しよっか?」
向こう側にあるの。とナマエが指さした先は、伊藤が来たのとは反対方向だった。そりゃ見つからないはずだと項垂れていると、不意に手を取られ軽く引っ張られる。
「この人混みだとはぐれちゃうでしょ」
伊藤はされるがまま、手を引かれて店まで連れて行かれた。
手を引かれている間伊藤は思った。面倒見が良くてやや強引なところは、母親に向いているのではないだろうかと。
「母親の自分」を想像できないナマエにそう思うのは、悪いことをしているようで、伊藤は黙って自分を叱った。
「買えてよかったね」
「ああ、思ったより早く済んだ。ナマエのおかげだな」
「どういたしまして。さて、私もそろそろ帰ろうかな」
歩き疲れたのか、ナマエ少し背伸びした。
伊藤は預けた馬を迎えに行きたいと告げると、ナマエの帰り道も馬屋と同じ方向だと言い、途中まで一緒に歩くことになった。
あたりは夕焼け色に染まっている。まだまだ葉は青いとはいえ、夏も終わりかけ。日が落ちるのも早くなってきている。
見慣れなかったナマエの姿も、話しているうちにいつもと変わらないように感じた。
しばらく歩いているとナマエはひとつの店先で足をとめた。伊藤の袖を掴んで「ねえ」と声をかけると、上目遣いで続ける。
「少し見ていきたいの……いい?」
別に、いつもと変わらないナマエのはずなのに、自分より背が低いから見上げられるのは当たり前なのに、伊藤は緊張した。夕焼けでナマエの顔に落ちた陰が、また見知らぬ女の顔に見せたのだ。
戸惑いながらも受け入れると、ナマエは嬉しそうに声を上げ、軽い足取りで店に入った。伊藤も続いて入ると、そこは小間物屋だった。
ナマエはなんとなく物色するというより、目当てのものを探してるようだった。
「なんか欲しいもんでもあるのか?」
「櫛がほしいの。落として割れちゃって」
「へー……」
「兄さんから貰ったものだから悲しかったよ」
伊藤は一瞬、誰から貰ったのか気にしてしまった。兄から貰ったという一言で伊藤は胸を撫で下ろした。それと同時にハッとする。まるでナマエに好い人がいたら嫌みたいではないか。
そんな伊藤の葛藤もつゆ知らず、ナマエは目当ての櫛を見つけ、一つずつ眺めている。気に入った柄があったのか一つ手に取り値段を確認したがすぐに目を丸くして、そっと元の位置に戻した。平静を装っているが困惑しているのが見て取れる。ナマエが控えめに手招きして伊藤を呼んだ。伊藤が少しかがむと顔を近づけて耳打ちしてきた。
「私には贅沢だったみたい」
伊藤が戻された櫛を横目で見ると、木櫛であるが上品な桜紋様であった。値段の方だが、伊藤にとっては手の出る代物だった。だが、普段使うものにしては値段が張っているのも事実。
ナマエに目をやると、眉尻を下げて残念そうだ。その様子を見ると、伊藤にも気持ちがうつる。
「いいのか」
「いいの、未来の旦那さまに買ってもらうから」
「なんだそれ」
冗談のように返したが、内心は穏やかじゃなかった。
伊藤はナマエが「欲しい」と言えば、買ってやらんこともないと思っていた。だがナマエの口から飛び出してきた言葉に動揺し、気の利かない言葉しか返せなかった。
店主に一言挨拶し、ナマエと伊藤は店を出た。
店が後ろの方で小さくなっても、伊藤はナマエの言ったことをうじうじと考えていた。
あるのか、あてが。未来の旦那さまが。
その旦那はナマエの欲しいものを、諦めなくてすむ生活を与えられるのか。
もうすぐ馬屋に着くというのに、会話は何もない。隣を歩くナマエの下駄だけがカタコトと音を鳴らす。夕焼け空は日が落ちる寸前の、桃色と深い藍色に変わっていた。
「今日はありがとう」
ここを曲がれば馬屋だ、というところでナマエは伊藤に声をかけた。振り向くと、ナマエが立ち止まって姿勢を正している。
「私の買い物にまで付き合ってもらって」
「いや、俺もナマエがいて助かったよ」
少し沈黙。どうしたのだろう、と思っていると、ナマエは細い声でぽつりと言った。
「……あの櫛、」
「うん?」
「あの櫛、本当は、伊藤くんからもらえたらなーって、思ったり……なんて」
驚きと、どうしてという疑問が頭に浮かび、伊藤はナマエの顔を見た。先程まで桃色がかすかに残っていた空は、ただひとつの藍色に包まれてナマエの表情を隠す。
「なんちゃって、贅沢すぎるか」
なんだそれ。
ナマエの表情は見えないが、口調から冗談めかしたものを感じる。
呆気に取られてると、じゃあまたねと手を振って、ナマエは馬屋と違う方向へ歩いていった。
伊藤の頭に、耳打ちしてきたナマエの声が響くように思い出された。鈴を転がしたような声だった。今までナマエの声なんて気にしたことなかった。ナマエの表情も、若い娘の人生も。
それなのに、贅沢すぎたかも、と言った声が、どれほど切なかったか───。
伊藤はぐっと拳を握りしめ、来た道を走って引き返した。
今まで出会った女の中で、もっと魅惑的なものはたくさんいた。遊郭に行けば、それを生業としている女だらけだ。
だが、他の女の心情を想い、自分のことのように悩んだこのなど一度もなかった。ナマエのこととなるとまるで違った。
どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。今まで勝気な娘の姿だったナマエが、自分に気弱な姿を見せた理由に。
先ほどの小間物屋に息を切らして入ると、店主がにっこりと笑って出迎えてくれた。
「おかえり、"未来の旦那"」
伊藤は小さく「うす」と返事すると、櫛を買って急いでナマエを追いかけた。
道すがら、「俺ならナマエに何も諦めさせない」と強く思いながら。
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