おい、と声をかけられるのと同時に強く肩を握られ、ナマエは一瞬眉間に皺を寄せた。痛かったわけではなく、その呼び止め方の粗雑さに、である。振り返らずとも相手はわかっている。丁寧とか精密なんていう言葉とは縁のない男だ。人付き合いに関しては特に。例外的に、ヒーローや勝利といったものに対する態度は真摯であると言わざるを得ないだろう。
 ナマエは気付かれないように短い息を吐いて、それから何食わぬ顔で振り返った。どうせ、彼女自身も丁寧に呼び止めてほしいわけではない。
 爆豪の手はナマエの肩に置かれたままびくともしない。鍛え上げられた分厚い手のひらが、彼女の薄い肩をいまにも千切り取らんとばかりに掴んで離さないのだ。
「なに?」
 そのまま何も言わず、ただ爆豪の顔が近付いて来たのをナマエは咄嗟に手のひらで制した。あと少し呆けていたらもしかしたら唇が触れたかもしれない。否、おそらく相手はそれを狙っていたのだろう。ナマエは彼の視線で察した。
 行動を制された爆豪はというと、瞠目するナマエとは対照的な不服そうなジト目で、「なんだよ」
 強い反論をしなかったところを見るに、自分でも止められるような事をしている自覚があるようだとナマエは思った。だからと言って褒められたことではないけれど。
 爆豪の手が緩んだのを感じて、少し体を離す。あからさまに離れるわけではない。あくまでも、ほんの僅かに距離を取っただけだ。ナマエは、吐き出すべき言葉を整理するように目を伏せ、考える。ナマエも混乱はしており、その混乱は手の震えという形で現れていた。拳を握り、解放する。それを何度か繰り返すと、だんだんと思考がクリアになっていった。完全に払拭できたわけではなかったが、とりあえず簡潔な言葉が出てきたので顔を上げ、爆豪と視線を合わせる。
「…なんで?」
 それは月並みな言葉ではあったけれど、きっとなにか理由があるのだとナマエは信じていたし、もしもそれが自分の理解の及ぶことだったら叶えてあげたいとも思っていた。
「嫌なのかよ」
「それは答えじゃないわ。ねぇ、勝己。嫌とか良いとかじゃなくて、なんでもないのにすることじゃないでしょう。ああいうことは」
 付き合いは長いが、こんなことされそうになったのは今まで一度もなかった。
 キスとは、恋愛感情を伴った際の愛情表現の一環だ。少なくともナマエはキスというものをそう認識している。挨拶代わり程度に感じる人間もいることは理解しているが、かといって爆豪がそういうタイプかと言えば答えはノーだ。
 加えて、この男に恋愛という感情が芽生えている可能性すらナマエには考えにくかった。
 爆豪に対して、面と向かって告白をしようという人間は多くない。どうしても、憧れよりも恐怖心が勝ってしまうことが多いからだ。けれどもちろんゼロではない。そしてそういう相手に対して鬱陶しく感じている様子は、これまでに何度か見ている。
 鬱陶しいだけじゃない。たぶん、興味がないのだ。恋愛というものに。今は他のことに必死なので。彼の憧れをつかみ取ることに、一生懸命なので。愛とか恋とか、そんなちゃちなものに構っていられない。
 てっきり、name#はそう思っていた。
 鼻先を掠めるほど近い距離。恋愛感情を持ち合わせない男女の距離感として不適切なものであったにせよ、不快感はなかった。あからさまに避けなかったのはそのせいだ。
 ナマエは、キスが挨拶だなどとは言わないが、もしも爆豪がそう望むのであれば触れてしまっても構わなかった。ただ、何も知らないままキスされるほど無神経なわけでもないので、一度、理由を聞いておきたかったのだ。
「だからおねがい、勝己。理由を教えてちょうだい」
 爆豪は唇を尖らせ、いかにも言いたくなさそうだ。けれど、ナマエの懇願するような視線に、チッと舌打ちをして、それから極めて不本意そうな声で答えた。
「どこのどいつかもわかんねェ野郎に近づいてんじゃねーよ」
 二人の間に沈黙が落ちる。爆豪はこれ以上は何も言わないと態度で表すようにそっぽを向いている。
――どこの、どいつか、わかんねぇ野郎
 爆豪の言葉を単語ごとに区切りながら、ナマエは記憶を巡らせる。
――野郎に、ちかづいてんじゃねーよ
「あ、」
「チッ」
 完全に意識の外に追い遣った、ナマエにとって取るに足らない記憶のひとつだったので思い出すには幾分か時間を要した。だが、男友達どころか友人だって数少ない自分が、爆豪の目に余るほど近付いた相手。ともなるとおのずと絞られてくる。
 先ほど目にゴミが入って、クラスメイトの綿貫という男子に目薬を借りたのだ。睫毛に触れないように、差してあげようかと提案されたので、ナマエはそのまま了承した。クラス内でも比較的よく話す男子だったので気にしていなかったが、確かに少し距離が近かったかもしれない。
「綿貫くんのことでしょう。全然、何にもないのに」
 まさかそんなことで、と思った。事に対する捉え方の大差に驚嘆したまま、ナマエは言葉を置いていった。
「あ? 名前言われてもわかんねーよ。座ってるお前の正面に立って奴だ」
「目薬、差してくれたの。ほら、目薬って本当は借りないほうがいいって言うじゃない? だからせめて、睫毛には触れないようにって」
「そういうことを聞きてぇわけじゃねェんだよ俺は……」
 分かり合えない。
 ナマエの脳裏にそんな言葉が過ぎる。そしておそらくは爆豪にも。
 捉え方の相違というのは、言って直せるものでもない。それに、爆豪だって普段からそんな些細な行動ひとつひとつに神経を研ぎ澄ませているわけでもない。
 だけど、彼は想像してしまったのだ。唐突に。ありえないことだと分かっていても、その理解を打ち消すほど鮮明な想像だった。
 そしてそれは実に不愉快であり、それと同時にあるひとつの、明確な意思を爆豪に植え付けた。
「テメェは勝手が過ぎんだよ」
 普段使っているペンや、眠っているベッド。スマートフォンやカバン。服や靴、自分の部屋。そういうものと同等の意識をナマエに対して感じている。自分のものだと言う意識。不可侵というカテゴリ。
 自分の物は人に貸したくないし、触れられたくもない。
 爆豪にとって、奪われるというのは弱者の証だ。常に強者の立場に立つ。自分は奪われる側ではなく、奪う側の人間だと言う意思。
 己の所有物に対する潔癖さは他の人間よりも少し過剰だった。
「勝己は、私とキスがしたいわけじゃないのね」
 ナマエも頭の整理がついてきたようで、手の震えはもうすっかり消えている。
 ナマエの冷静な声とは裏腹に、爆豪の苛立ちが再び膨れ上がった。
 キスがしたいわけではない。そんなことをしたところで何も生まれはしないし、意味などない。恋愛感情を持っていない同士の好意だ。愛情表現どころか、挨拶にだってなりやしないだろう。
 いま、自分たちがキスをすることは、この世に数多存在する無意味で無価値なものと同じことだ。その考えについては、二人は一致していた。
 したいわけではない。けれど、その日が来ないとも限らないから。
「お前が他の野郎とすんなら、俺が一番先にやる。そんだけだ」
 いつかその時が来るかもしれない。不可侵領域を土足で踏み荒らしてくるような何かが、いつか現れるかもしれない。だから、その前に先手を打っておくのだ。
 爆豪勝己の所有欲は、他人よりもやや潔癖で、それでいて実に一途だ。
 爆豪の答えを聞いたナマエははじめは目を丸くして、それから柔和に微笑んだ。
「勝己も私が好きなのね」
 簡潔な肯定だった。
 言葉のままの意味でも。彼の行動に対する返答としても。
 所有欲というのは言葉にしてしまうといささかがめつく聞こえてしまう。だからおかしくないように「好き」という言葉を使ったに過ぎない。所有欲。独占欲。執着心。どれも、ふたりを言い表すにはぴったりな言葉だが、口に出すべき言葉ではないだろう。というのがナマエの考えだった。
 口に出す言葉は美しいほうが良いだろう。
 ナマエは微笑んだまま、二人は唇を重ねた。先ほどの続きのような手軽さだ。お互いの手が触れ、軽く握った。
 その行為は二人の間に、ほんのわずかな羞恥心と唾液の匂いを残した。それだけだった。
 挨拶にもならない。無意味で無価値な行動の一つ。おそらく二度目はないだろう。二度もする必要がない。
 一番最初にだけ意味がある。
 ナマエはもう混乱していないし、爆豪はもう苛立っていない。二人は何もかもが元通りだった。



20191013.ニワトリ様小説『一番最初は。』リメイク作品