「ただいま」
「おかえ、り?」
 玄関を開けるとそこには誰もいなかった。でも暗い夜からは恋人である轟くんの声が聞こえる。
「げんちょう……」
「ちげぇ。悪い。こうすれば見えるよな」
「みえるって……、え?」
 玄関先にはたしかに誰もいなかったはずなのに、開け放たれた玄関の何もない空間から唐突に腕が飛び出した。その左腕は轟くんが愛用している腕時計と同じものをつけている。腕の次は脚。その脚が履いている靴は轟くんが今朝履いていったものによく似ていた。そして体と頭。なにもなかったところから、人が生まれた。その人は轟くんと同じ服を着ていて、轟くんと同じ顔をしていて、特徴的な髪色とかも全く瓜二つだ。そういえば昔、テレビで聞いたことがある。
「どっぺるげんがー……?」
「ちげぇんだ。ちょっと、仕事中にいろいろあって」
「なにかあったことはわかる」
「どうやら、影を取られたらしい」
 ある日恋人が、影を無くして帰って来ました。

「それで、轟くんどういうことなの?」
「わっかんねぇ……。特におかしなこともなかったのに、気付いたら俺の影がなかった」
「そっかぁ」
 それは困っちゃったね。と思ったけれど、本当に困っちゃったのかはわからなかった。轟くんは私の前に座ってなにもなかったみたいな顔をして菜の花のおひたしを食べている。ようく見ると、顔にかかった前髪の影がなかったりだとかお茶碗の影はあるのにそれを持つ手の影はなかったりだとか、そういうちょっとした違和感みたいなものはある。でも、それは本当に注意して見ないとわからないので、目の前の人物の影が無くなったなんて言われなきゃわからないだろう。
「わたしがなにかできることはある?」
「……特にねぇな。普段通りにしてくれりゃあいい。あぁ……。ただ、あれだ。電気を消すとさっきみたいになる」
「ひゃあ……」
 それは結構びっくりしてしまうからいやだなぁ。「まだ影無し人間一日目だからな……他に何が起きるかはわからねぇ」という轟くんの科白はもっともだけど、わたしだって影のない人と暮らすのははじめてだからもうすこしわたしと一緒に驚いたりしてほしい。
「たいようにあたってきえたりは……」
「それはなかった。電灯ももちろん平気だ。消えちまったりそういうのはないらしい」
「よかったぁ」
 とりあえずひと安心だった。でもまだ完全に安心はできない。だってまだまだ分からないことだらけなのだ。轟くんだって自分のことがわかってない。もしもなにかが引き金をひいてしまって、紅茶とお砂糖みたいに轟くんが消えてしまったら。
「わたしはもういきていけない……」
「なんか壮大な話になってるところわりぃけど、たぶん暗いところで消えるだけだ。本当に」
 だけ、って言うのはちょっとそれはどうなんだろうと思ったけど、轟くんがそう言うのだから"だけ"ということなんだろう。いや、でも。やっぱり不安だ。轟くんはすこし自分自身に対して無関心なところがあるし、もしかしたら本当は大事なのにそれを理解してないだけかもしれない。そうだったら嫌だなぁ。
「この、いじょうじたいのそうだんをだれかにしたい」
「……おまえ、相談できるような友達いるのか?」
「……。ひゃあ」
 びっくりした。いなかった。めったに触らないスマートフォンを操作してアドレス帳を開くも、そこに並ぶのは両親の名前と轟くん。
「あ、そういえばみどりやくんのれんらくさきをしってる」
「いつの間に。まぁ、緑谷なら良いけどよ」
「いいの? じゃああとでれんらくしようかな」
 緑谷くんは轟くんの高校時代の同級生で、いまは轟くんと同じくプロヒーローをしているなんだなすごい人だ。緑谷くんはたまにうちに来たりもするのでわたしも話すことがあるけど、轟くんととても仲が良いのでわたしは実はすこし緑谷くんに嫉妬してる。でも轟くんのことをお話しできる人が緑谷くんしかいないジレンマ。
「みどりやくんはなんていうだろう……」
「別に。そうなんだ、で終わりだろ」
「いや、みどりやくんならきっといいはんのうしてくれるとおもう」
 そして轟くんにもう少し危機感を持つように注意してくれれば万々歳だと思った。わたしは自分に起きたわけでもないのにこんなにどきどきして怖くなってしまうのに、轟くんは話のあいだあいだでご飯やおかずを摘まんで、なんならもうすぐ完食しそうだった。相変わらずお茶碗の影はあるけど轟くんの影はない。不思議だ。あ、お茶がなくなりそう。「お茶いれるね」とわたしは轟くんの湯飲みを持って台所へ向かった。ついでにわたしも飲もうと思い立ち、轟くんと同じ柄だけど、大きさの一回り小さい湯飲みを取り出す。以前九州へ旅行に行った時に買ったやつで、轟くんの湯飲みは小さなわたしの手には余るけどわたしの湯飲みはちょうどいい大きさなのでしっかりと持つことができる。
「はい、どうぞ」と轟くんの前に熱いお茶の入った湯飲みを置くと「あぁ……ありがとう」と轟くんが花が咲くように笑ったので、心臓にずどんと大きな矢が刺さったような衝撃が走った。いつもやってることなのにこんな風に急に、特別なことみたいな顔されるとびっくりしてしまう。
「いまにしておもえばとどろきくんにはびっくりさせられてばかりだった……。しげきてきなおとこだね」
 しみじみ呟くと「なに言ってんだ、お前」と轟くんに呆れられてしまった。そんな呆れた顔もかっこいいよ、轟くん。と思うので、つぎ緑谷くんに会ったときにこのことを言おうと決めた。

「あ、そういやぁ。分かるかとは思うが」
「ん?」
「夜は一緒に寝てやれねぇからな」
「ひゃ、ひゃあ……!」
 それは困ってしまったぞ。



171112.