芽吹いた微熱


兄さんの部屋は大学の研究室と同じく、いつ来ても乱雑に物が積み上げられている。部屋によっては足の踏み場がないほど書籍やら資料やらを置いていたりする。ゴミを溜め込んでいるわけでは無いので鼠こそ走り回って無いが、代わりに紙魚が何処そこかに巣食ってそうだと思ったのは一度や二度では無い。
兄さんが先導する短い廊下を進みつつ、辺りを見回す。事前に僕が来ることを知ったからか、今日に限っては平素より物が片付けてられている気がする。尚、端に物を寄せることを片付け、と仮定するならばだが。
年中そんな様子なので、積み上げられた物たちを見ると、どうにかならないものかとついつい思案してしまう。本人は自分なりに片付けていると主張してはいるが…。年末を共に過ごすにかこつけて、此処いらで掃除を促してみるか。
そんな僕の思考が読まれたのか、振り向きもせず突き当たりの扉を開けながら兄さんは言う。

「純也。幾らでもゆっくりしてくれていいが、俺の私物を動かすのはやめておくように。物の配置を変えられるのは好きじゃ無いし、何処に行ったか分からなくなる。」
「へっ!?な、いやその…。」
「こんな短い廊下でいつまでも俺に追いつかないなんて、差し詰め俺の部屋の様子を見てたんだろうと見当がつく。そこから物をあまり増やさないタイプのお前が考えることなんて、時期を考えに含めても掃除くらいなものだろう。俺はサトリでもなんでもないからな。簡単な推理だよ。」
「そういうことか…。でも兄さんどこに行ったのか分からなくなるなんて言うなら尚更整頓すべきじゃないかな。」
「お前の言うことも尤もだが…俺しか住んでない家だ。お前が何か探すこともまずないし、俺だけが分かる配置の方が作業も捗る。」
「…あくまで意見を変える気は無いと。」
「そういうことだ。折角遊びに来たんだから掃除なんて考えずに大人しくもてなされておけ。」

諦めろ、と言うようにヒラヒラと手を振られてしまった。確かに客人がそこまで考える必要はないだろうが、それ以前に家族の一人でもある。小言を零すくらい許してほしい。
通されたリビングはローテーブルに控えめに雑誌が積まれている以外は存外綺麗な状態で、他では本の茂みに隠されていた床が確認出来る。ここに関しては人を通す頻度が高いからか、普段からちゃんとしているのだ。リビングで出来るなら別の部屋もすればいいのに…と思わないでもないが、言ったところで堂々巡りになってしまうだろう。ソファへと案内してもらうと、僕は遠慮なく身を沈めた。気心知れた兄さんの前だと、ついつい気が緩くなってしまう。兄さんは飲み物を取ってくる、と言って冷蔵庫の方へ向かっていく。
家主が視界から外れたところで、僕はやっぱり納得がいかないと顎に指を当て考え込んだ。キュルキュルと思考を回し、考えを選び取り、纏まったタイミングで丁度よく兄さんが戻って来た。どっかりと僕の隣へ腰を下ろすと、温かいコーヒーが注がれたマグカップを此方に差し出した。逆方向の手には黒々としたブラックコーヒーが収まっている。僕の方は柔らかいブラウンカラーだ。子供扱いというかなんというか…。ブラックコーヒーが飲めないなんて言ったことないのに。兄の淹れてくれる僕のコーヒーはいつだってミルクで割られている。

「兄さん…僕だって別にブラックコーヒーでいいよ?」
「何を言うんだ。ブラックのままじゃあ胃に悪いだろ。警察なんて人一倍気の張る仕事をやってるんだ、自愛すると思ってそっちを飲めばいい。」
「ええ…?警察こそブラックで飲んでるイメージ持ったりしないの?ほら、張り込みとかさ。」
「それならそれで普段から痛めつけてる内臓を労わると思えばいいじゃないか。さあほら、冷める前に飲め。」
「ヘビースモーカーの兄さんに言われちゃおしまいな気がするなあ…。ううん…じゃあお言葉に甘えて…。」

…今回も上手く丸め込まれてしまった。今まで長いこと一緒にいるけど、未だに口で兄さんに勝てた試しがない。そもそも勝てる日なんて来るんだろうか。
勧められたままにチビリチビリとコーヒー、もといカフェオレを飲む。カフェオレはよく温まっていて、僕の舌先を少し焼いた。その様子を見て兄さんは満足げに口の端を僅かに上げると、自分のマグカップに口をつけた。こうやって僕に何か施した時に嬉しそうに笑みを称えるところも、勝てない理由かもしれない。兄さんの見守るような視線に口をもごもごさせてしまう。気恥ずかしさと共にカフェオレを飲み下したあと、先ほど考えついたことを兄さんに話すことにした。

「そうだ兄さん。さっきの話の続きなんだけど。」
「まだその話か。それで?俺を説得する妙案でも思いついたか?」

兄さんは呆れたというように溜息を吐いたが、僕の言葉を待ってくれている。無理やり話を打ち切ったりしないところも兄さんの良いところだ。一度気になったことはいつまでも考え込んで、相手に話してしまう僕にはとても有り難い長所でもある。僕は少し得意げになって口を開いた。

「兄さん一人だけの把握で済ませなければいいんだと思って。」
「…それで?」
「誰かが一緒に住めば気にするようになるから、誰かと暮らせばいいんじゃないかと…。どうかな?」
「その誰かってのは誰にするんだ。」
「それもそうか…ええと、うーん…。」

兄さんを任せられそうな人…。人見さんは毎日忙しそうで家に余り寄り付かない、寄り付けないタイプだろう。そもそも二人はそういう色恋の関係はないと聞いているし、はたから見ても性別を超えた友人なのだと分かる。小暮さんは…恐れ多いと萎縮するかな。それに彼には悪いが、場所を取ると言って兄さんが煙たがりそうだ。あとは誰か…。
顎を擦りながら思考に耽る僕の上から、また兄さんが溜息を吐いた。今度はとても残念なものを見たときのようなニュアンスだ。

「そこは僕と一緒に住もう、とならないのか純也。言い出しっぺだろ。」
「あ、ホントだ、僕が居るのか。盲点だった。」
「責任があるのか無いのか分からん奴だな。…誘導したみたいで癪だし、その考えはいつかにしよう。」
「…うん、ごめん。」

良いアイデアだと思ったが兄さんの機嫌を損ねてしまったみたいだ。素直に謝って項垂れる。許すよ、と伝えるようにクシャりと空いた手で髪を撫でられた。
兄さんが言うように僕が一緒に住むよ、なんて言う勇気はまだ無い。今度はきっと家族として過ごして来た幼い頃の生活とは違う。…兄さんからすると、あの頃から家族としての穏やかな気持ち以外を抱いて暮らしてきたのかもしれない。明確な感情の芽生えが何時だったのかを僕は知らずじまいだ。でもずっとそうだったと語る兄さんの言葉に偽りはないと僕は思っている。ひょっとすると僕と暮らし始めても過去に経験済みの生活だから、精神的動揺は少ないんじゃないか…?

「例え本当に僕が住み始めても、兄さんはあの頃と変わりなく過ごせそうだなあ…。見習わなきゃ。」
「どういう意味だ?」
「だって昔から僕のこと意識しつつも悟らせないくらい落ち着いて暮らしてたじゃないか。きっと今更僕と一緒になったくらいで兄さんがどうこうなる気がしないと思ったんだ。」
「…なるほどな。確かに以前までなら素知らぬ顔で暮らしていけたかもしれないな…。だがそれは恐らく違う未来だな。」
「え?そうなの?」
「まずお前が俺のことを意識し始めている点だ。そんな状態で平然と接したり出来ない。俺も人間だからな、今だってお前に触れる隙がないか伺っていた。こんな風に。」

僕の予想に反して兄さんは語った。そしてそっとマグカップを握っていた僕の手に、自分の空いている方の手を重ねる。指先が触れた皮膚の感触を楽しみながら、撫で摩るように手の甲を這う。そしてくるりと円を描くとそっと離れていく。
わずか数秒のことだったのに、触れた部分がまだそこに兄さんの指先があるかのように熱を持つ。そこで僕は自分の身体全体がカッと熱くなっていたことに気づいた。一瞬力が抜けそうになって、慌てて持っていたマグカップを目の前のローテーブルに置く。
そんな僕を目を細めて見つめたまま、兄さんは続ける。

「それと、あの頃は俺自身若くて気が立ちやすかったから…相当我慢していたんだ。でも、もう無理だと思っている。」

返事を待たずまるで僕を身体で囲うように、兄さんの両腕がソファの背にかけられる。あの日アルコールの香りと共に見た色に溶けた瞳に、僕の間の抜けた顔が映り込んでいる。…いや、違う。
兄さんの瞳越しに見た僕の表情は、隠しきれない期待を滲ませていた。

「…限界だったんだ。時間の問題だったろうと今では思っている。じゃなきゃ酔っていたとはいえあんな失態お前に見せたりしなかった。」
「失態なんて、そんな。僕はそれが嬉しかった。…うん、嬉しかったんだと思う。」
「…純也。」
「兄さん…。」

今度は酒の勢いに任せてなんかじゃない。僕も酔ってなんかいない。ちゃんとお互いを意識して、こうしているんだ。今の状況を正しく理解しているよ、と伝える代わりに、
僕は恐る恐る兄さんの唇に同じものを押し当てた。


僕らは互いに美容に気を使ってなかったみたいで、触れた先からカサついた感触がした。兄さんはきっと言っても無精しそうだから僕が気を使うことにしよう。
僅かに開いたその先に踏み込むことはせず、合わせた時と同じようにゆっくりと離れる。恋愛経験の浅い僕は当然こういった色事にも疎い。キスの作法や上手な事の進め方なんて知らない。…あまり尋ねたことはなかったけど、兄さんはこういったことにも詳しいのかな。

「…今度リップクリームでも買っておくよ。」
「ああ、それなら塗るときは俺も呼んでくれ。」
「わざわざ兄さんを?」
「分からないか?それはそれで嬉しいが…。呼んでくれれば、こうやって。」

顎に親指が添えられて、顔が持ち上がる。そしてあっという間に二度目のキスが落ちてきた。気恥ずかしさから戯けてみせたが、兄さんにはお見通しだったのだろう。伏せられた兄さんの瞼を見て習うようにぎゅっと目を閉じる。啄むような口づけが何度となく落とされたかと思うと、ピタリと隙間なく唇を重ね、遊ぶように喰まれる。
呼吸をしようと咄嗟に距離を取ろうとするが、逃がさないとばかりに兄さんの厚い唇が僕を捉える。すぐに追いつかれて今度はパクりと口が食べられてしまった。驚いたのも束の間、閉じられた唇の戸をベロリと兄さんの舌がねぶる。それからノックするように舌先を割れ目にツンツンと当ててきた。
堪らず目を開けば、潤んだ視界に兄さんの鋭い視線が刺さった。剣呑ささえ帯びそうな目つきなのに、何処か僕の動向を探って観察しているようにも見える。もしかしたら伏せていたのは僕を促す最初だけで、そのあとはずっと僕の様子を眺めていたのかもしれない。
今度こそ確かに体が熱を上げたのが分かる。僕が怖がってなかなか唇を開かないことに焦れたのか、兄さんはソファに掛けていた両手を僕の腰と後頭部に回し、更に体重をかけながら引き倒した。背中への反動で微かに呻いた隙をついて、ついに兄さんの舌が僕の口に差し込まれる。
兄さんからは苦いブラックコーヒーの味がして思わず顔を顰めてしまう。一方の兄さんは僕の口内を弄っているから甘いカフェオレの味がしているのかもしれない、なんて想像してしまう。その間にも入り込んだ舌が僕の上口蓋を擽って、鼻に掛かったような媚びた悲鳴が喉の奥で渦巻いた。しなる僕の身体に心得たのか、反応が好い箇所を執拗に虐められ、背を駆け上る確かな快楽と情欲に身震いした。震える最中、兄さんの舌が僕の下に絡みついて、きゅっと絞るような動きを見せる。その弾みで先ほど焼いてしまった舌先が刺激されて、心地よさにしな垂れていた両腕が痛みから目の前にある身体にしがみ付いてしまった。それに気付いてか、兄さんは一度唇を離すと、改めて僕の舌先を労わるように一舐めした。
知らず顎を伝っていた唾液を舐め取り、惜しむようにまたベロリと唇を舐めて、漸く兄さんは僕の唇を解放した。

「こんな風にリップクリームを移してくれ、てことだ。大丈夫か、純也。」
「ンッ…はぁ……、移るどころか先に溶けちゃうじゃないか、こんなの。」

何がとは言えず、兄さんの視線から逃れるように顔を背ける。大丈夫かと聞かれたが全然大丈夫ではない。鼻だけでの呼吸は慣れていなくてペースを乱され続けたし、口内を弄られた時に身体がしっかり反応したことに気付いてしまった。兄さんが相手でも僕は、間違えようもなく興奮を覚えている。いや、兄さんだからこそなのかもしれない。同性愛であることとは別に、背徳的に思える何かが僕を満たし、惑わせている。
兄さんは僕の髪を優しく掻き混ぜて、僕の息が整うのを待ってるみたいだった。喜びが溢れるみたいに柔らかく笑う兄さんの表情に、キュウと心臓が締まる。相手を目の前にして尚も自制する好意の在り様に、僕は同じだけのものを返せるのだろうか。不安になってごろりと上に乗っていた兄さんをソファに寝かせる。そしてぺとりと胸元にすり寄った。兄さんが笑った気配がする。

「今度は随分甘えたになったな。」
「水明兄さん…。」
「うん?」
「僕、同じ分だけを兄さんに返せるか分からない。分からないけど、僕も兄さんが好きだよ。」
「…愛情は量れるものではないだろう。だがその言葉で十数年前のお前への気持ちを自覚した俺も、それを押さえつけてきた俺も、今ここにいる俺も救われたんだ。だから返そう、なんて考えなくていい。」
「でも、それならどうしたらいいかな。」
「…そうだな。なら少しだけ、今度は我慢してもらっていいか?」

キョトンとして兄さんの胸に埋めていた顔を上げると、頬が包まれて唇に温かい、馴染み始めたカサついた感触が触れる。
兄さんは端整な顔に再び色を纏って、もう一度キスがしたい、と囁いた。



20170104
年越し前にあげたかったんですが年越しちゃいました。明けましておめでとうございます。
title:サンタナインの街角で




モドル


ALICE+