お見通し


ふと気がついた。そういえば一度も好きだと言ってないな。

僕は兄さんの研究室で持参した缶コーヒーを両手に唐突に思い出した。コーヒーの湯気が身動いだ反動で小さく揺らぐ。
唐突に、と言うのは本当は正しく無い。兄さんと恐らく、恋人関係になったであろう時から、ずっと言おう言おうと口の中で転がしては吐き出せないままだったのだ。そしてとうとう兄さんと泊まりがけで休暇を共にする日が来てしまった。
つい先日、編纂室で抱えていた厄介な事件が終わり、少しばかり愚痴を聞いてもらおうと兄さんに連絡を取った。その時に二人の休みが重なることだし、兄さんの家に一泊していかないかと誘いをかけてもらったのだ。仕事の話も家でゆっくり聞かせてくれと。
兄さんの好意に気づくことすら随分と時間が掛かった僕だ。言葉の真意をしっかり把握する前に、喜んで一にも二にも無く返事をしてしまった。漸く意図を理解する頃にはすっかり泊まり支度を整えて、現在のこのこと兄の研究室で尻を落ち着けているというわけである。

ぶわりと汗が噴き出す。参ったぞ、これは非常にまずい事態ではないのか?
今は呑気に兄さんの講義が終わるのを待っているが、問題は当然一緒に外食をしたその後。無論予定通り兄さんの家に向かうだろう。夜が深まれば互いに自然と触れ合いたい気分になるのは想像に難くない。
そういう関係になってから返事らしい返事をしてない僕を、兄さんはどんな気持ちでベッドに呼んだのだろう。今までも明確な答えを得ないまま、兄さんは僕に触れて心を砕いてくれていたはずだ。彼が与えてくれた温かな思い出に、酷く申し訳ない気持ちになる。
いや、もしかすれば僕の自意識過剰なだけで、あれやこれやなんてする予定は無く、純粋に僕を労ってやろうという気遣いなのかもしれない。そうであれば多少恥ずかしい思いはすれど、僕の想像なんて兄さんの知るところでないのだから、今までと変わりなく微温湯のような日々を過ごせるだろう。
…しかし、兄さんのあの言葉は、果たしてそんな生易しい誘いだったのだろうか。


あり得ない!
僕の冷静な部分がここぞとばかりに否定しては逡巡していく。僕は兎も角、兄さんはもう良い大人なんだ。酸いも甘いも知り尽くしてることだろう。そんな人が今更女性のパジャマパーティーよろしく楽しい夜を過ごしましょうね、なんて真似する訳がない。人前で言えた話ではないが、優しいだけじゃないキスだって僕らは何度も交わしている。(とは言え不慣れな僕に合わせていただろうから、それすら兄さんにとっては長く遠い歩みだったかもしれない。)

そもそも男同士って何がどうなるんだ?
いよいよ良くない手汗が、じっとりと缶コーヒーを包む手に滲んだ。兄さんとの関係が深まる都度に調べようとしては、なんだか恐ろしくなって忌避してきた情報。いや、そりゃあ僕だって何となくこうだろうなというのは想像つく。しかしつくと言っても恐怖心が勝ることに変わりない。男同士でも上や下があるらしいが、それだってどう決めるんだ。僕が兄さんを?兄さんが僕を?兄さん相手に僕はどうこう出来るのだろうか…。
手始めにまず兄さんの体躯を思い浮かべて想像してみる。するとあれよあれよと見る間に身包みを引っぺがされる自分が浮かび、自分の妄想ながらなんて男らしくないんだと項垂れた。しかし女性ならいざ知らず、相手はあの兄さんだ。どこから手をつけていいかすら分からない。きっとベッドの上で向かい合っても途方に暮れることだろう。
特に僕の希望は無いし、兄さんが望む形を取ればいいじゃないか。好意を伝えていないという罪悪感も手伝って、なんとも人任せな思考に落ち着いていく。こんなことになるならもっと早く手を打つべきだった。兄さんを相手にすると弟としての顔が覗いて、彼に甘えたのが仇になっているじゃないか。



深い溜息を吐いたところで研究室の扉がギイと唸って開く。ノック音は無い。部屋の主のお戻りだからだ。
慌てて僕は顔を持ち上げ引き締める。無意識にぐっと手にも力が入る。すると持っていた缶コーヒーはとっくに緩くなっていたことに気がついた。どうにも熟考の域に達していたらしい。
出迎えの言葉をと口を開けば、暫く動かしていなかったせいで舌がもつれそうになった。

「お、おかえり、兄さん。講義お疲れ様。」
「ああ、待たせて悪かったな。…随分と部屋が冷えているが、暖房くらい好きにつけて構わないんだぞ。」

兄さんは部屋に入ると手早くエアコンのスイッチを入れた。小さく機械音を立てて、部屋を暖めるべく我先にと温風が部屋に吹き込む。チラリと僕の手元を見ていたから、冷えた手を缶コーヒーで温めていたと思ったんだろう。確かに冬の空気に包まれて室温は下がっていたが、考え事に夢中で気にしていなかった。特に僕は冷え性という訳でもないし、加えて身体も弱くない。相変わらず過保護だなあと苦笑を浮かべつつ、気遣いは嬉しくて素直に礼を言う。

「ありがとう、考え事してたから気づかなかったや。」
「お前はいつも何かに思考を巡らせているな。没頭するのはいいが、程々に。ほら、手を貸してみろ。」

兄さんもね、と言葉にする前に何処から取り出したのだろうか、手のひら大の使い捨てカイロと一緒に手を握り込まれた。開けたてと言うには随分と熱を持っている。目で伺うと、兄さんはああ、と短く返してカイロを覗かせるように少し手を開く。

「指が冷えるとチョークが握りにくいからな。講義中地味に差し支える…この時期はポケットに適当に突っ込んでいるんだ。まあ最近じゃこの大学のボロ空調も少しずつ直されているし、来年には漸く御役御免になるだろう。」

そういうことか。僕は合点が入ったと頷く。兄さんがよく使う講義室は年季が入っており、部屋によっては隙間風が強いところもある。学生は勿論だが、開けた教壇で弁を振るう講師陣は尚更冷えることだろう。兄さんの言うところが本当であれば空調も頼りないんだろうな…。あまり自分の身なりや体調に頓着しない兄さんが持ち歩くくらいだから、かなり酷いのかもしれない。
ジンワリと兄さんの手とカイロから、染みるように伝わる温かさに、唇の端がつい綻ぶ。子供っぽいかもしれないが、こうやって兄さんに甘やかされるとむず痒くもあり、酷く愛されている気持ちになってニヤついてしまう。兄さんの感情を再確認するようで意地が悪いだろうか…。加えてこうして厚意に甘んじているから今困っているというのに。
そっと表情を盗み見る僕の不安を他所に、兄さんは握り込んだまま僕の手が温まるのを待ってくれてるみたいだ。程なく僕の手も兄さんと同じくらいになって緩く手が解かれる。

「ありがとう兄さん。思ったより冷えてて自分で驚いたよ。僕もカイロ持ち歩こうかな。」
「ふむ。何なら予備があるから後で渡そう。それと、カイロの礼を貰おうか。」
「えっ、に、兄さん…!?」

上から被さるように握られていた手が、虚をついて貝殻のように合わさった。驚いて目を合わせれば、タイミングよく兄さんの唇が僕に吸い付いた。唇の隙間からつぷりと舌が侵入して僕の歯列を一周していく。自分以外の濡れた粘膜の感触に身震いがした。

「んぅっ…兄さ……。」
「純也…。」

人が来るかもしれない危機感が、兄さんの舌に溶かされて背徳感にすり替わる。僕は随分兄さんと交わす口付けに弱くなってしまった。抗うどころか寧ろ夢中になって兄さんの舌を追いかけてしまう辺り、引き返せないところまで骨抜きにされている自覚がある。
兄さんが他の人にしてきたやり方なんて僕に知る術は無いものの、贈ってくれるキスすら甘やかされていると分かるくらい、兄さんの舌は緩慢な動きで僕を誘う。単純に口腔内を深く味わっているといえばそれまでだが、僕のペースに合わせてくれていると感じるのだ。変に呼吸が乱れたら落ち着くのを待つように攻め立てていた舌先をしまい、落ち着いたと判断したらまた差し込んでくる。未だ恐る恐る伸ばす僕の舌先を甘噛みして、早く出ておいでと諌める仕草。舌先で教鞭を振るうが如く、言葉を介さず教え込まれるキスが僕は心底好きになっていた。
…それに、咎めるように舌先を噛まれると、僕ですら知らなかった微かな被虐心に刺さり、腰に甘い痺れが落ちる。我ながら倒錯していると思うけれど、過保護気味な兄さんが時折覗かせる意地の悪さに、どうしようもなく興奮していた。
あむあむと僕の舌全体を食み、生温かい肉同士を擦り合わせる。唾液がジュウと音が鳴るくらい兄さんの口に吸い込まれたのが分かった。僕の舌を解放すると今度は上顎の裏側をチロチロと擽って、口蓋の凹凸を楽しむように舐られる。湧き上がる快感から逃げるように兄さんの舌を押し返すが、また絡め取られては今度は兄さんから注ぎ込まれた。逃げ場を失った僕は抗うことも出来ないまま、それを飲み下す他ない。兄さんの唾液を咀嚼する音が生々しく響いたのを聴き終えて、兄さんから褒めるように首の付け根を撫でられた。反射的に鼻から抜けるような嬌声が漏れる。気持ち良さに濡れて溶けた声色が研究室に木霊した。

「ほら、もっと口を開いて…そう、いい子だ。」
「あ……ん、はぁ…んん…。」

しつこい程に時間をかけた深い口付けで僕の中を荒らしたあと、兄さんは満足げに唇を離した。息が上がり、必死になって掴んだ両手はいつのまにか彼の背中に回っている。普段からくしゃくしゃの兄さんのワイシャツに更に深い皺を作ってしまい、身も世もなく縋ったのだと顔が赤くなった。僕の慌てた様子が可笑しいのか兄さんは押し殺せない笑い声を零していた。

「兄さん…!」
「悪かった、拗ねるなよ。纏まった休みが合うのが嬉しくてな、舞い上がってるんだ。」
「それは…!…僕も嬉しいけど、でも何もここでしなくても。ここじゃ人の目もあるかもしれないに、それに……。」
「それに?ふむ、そうだな、それ以上が出来ないな。」
「兄さん!!」
「冗談じゃないぞ?俺は本気で言っている。」

首元にかけられていた手がスルリと下り、僕の腰回りを撫でていく。含みを持たせた触り方が夜を連想させて、僕の顔に血液が集中した。

「な、あ、えっと…!」
「なあ、純也。逃げるなら今しかないと、流石に分かっているな?」

耳触りの良い低音と共に、兄さんの厚い唇が僕の耳殻に触れる。正面から抱き込まれる形になって、兄さんの顔は見ることが出来ない。いや、こうしてわざと隠しているのかもしれない。
兄さんの心音は緩やかだ。初めて唇が触れ合った日はお互い壊れるのではないか、と心配になるほど早鐘を打っていたのに…。僕の答えが何であれ、兄さんの腹は決まっているんだ。あんなにキスを交わした後でも、引き返せると兄さんは僕を気遣ってくれている。


何てことをさせているんだ僕は。
自分自身に改めて腹が立って、目の前の兄さんの身体を力強く抱き返した。穏やかだった兄さんの心臓が俄かにスピードを上げた。そのことが嬉しくて更にギュウと抱きしめる。

「兄さん、逃げれるなんて言わないでよ。」
「…紛れもない事実だ。お前はまだハッキリと口にしていないと記憶している筈だし、今なら良い夢が見れたと俺も思い出にしまっておける。」
「逃さないでほしいって言ってるんだよ、兄さん。僕が言わなかったのは、言うタイミングを失っていたことと…。」
「純也…?」

一度言葉を切って、おずおずと、僕は告解するように言葉を紡いだ。

「兄さんが僕を追いかけて、好きでいてくれることに甘えていたんだ。」

兄さんが自分だけを見てくれる心地よさに酔っていた。彼の好意に胡座をかいて、それでいて兄さんが早く切羽詰まるのを待っていたんだ。僕への感情が溢れて、頭から飲み込んでくれたら良いと思っていたのだ。
僕は自分の心の奥底に沈殿していた仄暗い欲望に顔から火が出そうだった。恥ずかしい、ただただ恥ずかしい。言ったあとに慌てて顔を肩口に埋めた。今度は僕が顔を隠す番だった。
兄さんからの言葉は無い。身勝手な理由に呆れているのかもしれない。それでも僕は…兄さんみたいに、優しく余地を残して逃してなんかやれない。兄さんが僕とのことを思い出に出来ても、僕にそんな真似はできそうに無い。祈るような気持ちで僕は続けた。

「僕、兄さんが好きだ。だから、逃げたりしない、する必要がない。」

ちゃんと握り締めててください。そう告げた瞬間、視界が回り、天井が見えた。あ、と言う間も無く兄さんの唇が顔中に降り注ぎ、その口付けの雨に応えるのに必死で僕は何が何やら分からなくなった。ようやく収まった頃見上げた兄さんの顔は、こんな時でもニヒルな笑みを浮かべていて格好良い。埋めようの無い相貌の差は他人であることを感じさせる。けれど、耳を打つ声は確かに聞き慣れた兄弟へのものであり、結ばれた恋人を想う色をしていた。

「何処から食べるべきか迷ってしまうな?」

冗談めかした言い方と、それにそぐわない鋭い視線に背中が粟立つ。がじ、と手首を甘噛みされて僕は笑った。

「何処からでも。その代わり綺麗にすっかり食べてもらえないと、化けて出るからね。」
「そりゃ困るな。」

まるで出会った頃、兄弟として構ってもらった頃みたいにコロコロと笑い合う。戯れながら目の前にある逞しい、同性で、他人で、それでいて兄弟の身体を抱き締めた。そうしてひとしきり笑った後にソファで絡めた視線は、あの頃の純粋な瞳とは正反対。お互いを物欲しそうに見つめる濡れた目だ。
けれど先ほども言った通り、ここではこれ以上僕らが前に進むのは無理だ。名残惜しく兄さんの頬をなぞってから、僕はソファから起き上がる。兄さんも僕を引き上げながら、いつもと変わらない飄々とした面持ちに戻った。相変わらずポーカーフェイスが上手いなあと感心したけど、その水面下で今夜僕を淫らに抱こうと想像しているのだと思うと唇が歪に弧を描く。そんな僕に気づいてか兄さんはちょっと困った顔をした。

「お前は本当に顔にでるな?純也。出る前に、それ、どうにかしなくちゃな。」
「えっ、そんなに見せられない顔してる?」
「ああ、お前が今まで言わずとも伝わって来てた、」

言葉を切って兄さんはグンと僕の両腕を引っ張る。立ち上がらせた僕を真正面から見つめて、呑気な調子で、それでいてどうしようもない喜色を込めて言った。

「俺と同じ、相手が好きで堪らないって顔さ。」



20170122
診断メーカーの「ごはんつぶの水純は、そういえば一度も好きと言ってないな。から始まる話を書きましょう」というお題から。
無駄に長い。濡れ場入れたかったんですけど、それは連作にしている方でしようと思います。
あっちは純也くんを開発する話を書きたくて始めた話なので、色々、色々出来たらと思います。
前置きが長いんだよな〜〜。



モドル


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