おそろしいはなし



フィールドワークに出ると兄さんが言い出して、それに付き添う様に外に出たのは太陽が真上に上がってからだった。冬休み明けからの講義に使う実地調査資料を集めるのかと聞いたところ、ごく個人的な研究のものらしく兄さんの足取りは軽い。起き抜けから何かしら理由で彼の機嫌が良いのは知っていたが、それに拍車を掛けるように愉しげに僕の前を歩いている。その証拠と言ってはなんだが、どうやら今日はまだ一本もタバコに火を点けた様子が無い。これは身近に居た僕からすると相当奇跡に近い現象だ。驚きすぎて兄さんの家を出る前につい疑問が口をついて出たほどだった。

「兄さん、今日はタバコまだ吸ってないね?禁煙でも始めたの?」
「禁煙なんて俺には無理だと純也なら分かるだろう?吸いたくなったら頼れる、別のものが出来たってところだな。」
「…うーん?僕にはピンと来ないけど、変なことでも無ければ寧ろ身体に良いし、応援するよ。」
「応援か…フフ、そうだな。是非お前には応援してもらいたい。」

返ってきた言葉とともに細められた兄さんの目には何やら怪しい光が灯っていた気がしたけれど、結局その場でははぐらかされてしまった。でも、まあ、兄さんが愉しそうならいいかと僕も軽く流しておくことにする。
現地に向かう途中、交わされる会話は今までと特に変わることはない。義兄弟から恋人になった時、僕等の接し方は様変わりしてしまうのでは、と心の何処かで思っていたけれど…。穏やかに流れる普段通りの会話が僕を酷く安心させる。今まで僕らが過ごしてきた日々の全てが失われるわけじゃない。その土台の上に、また別の形が建てられていくだけなんだ。ストンとその考えが僕の中に落ちてきた。

「兄さん。」
「ん?どうした?」
「僕、兄さんとこういう形になれて、やっぱり良かったなって思うよ。…勿論他の人よりかは確かに壁は多いけど、兄さんだから怖くない。」
「…ああ、俺もさ。お前がそう感じてくれて嬉しいよ。でも純也、少しは恐れていてほしい。」

年末にかけて人々の往来はいつもより激しい。逆に言えば、それだけ自分達のことで忙しいと言える。例え、僕らがこの道端で手を絡めあったとしても、通り過ぎる人からすれば、ほんの僅かな記憶にも留まらないだろう。視界の片隅に映るか映らないか程度の、彼らの生活においてごく瑣末なことだ。
兄さんの骨ばった右手が僕の左手を包み込む。寒空の下、自分以外の体温は心地良い。絡められた手を頬を赤らめて見つめていると、低い声を更に落とした声で兄さんは囁いた。掠れた、男の声だ。

「今隣にいるのは、ずっと長い間お前に酷いことを強いるのを想像してきた男なのだから。」

繋がれた手の方、兄さんの親指がそろりと手の甲をなぞる。この暖かで頼り甲斐のある手が、教鞭を握る手が、僕の全身を撫で上げて、全てを暴こうとするのだと。ゾクリと背筋に寒気が走る。生物的な危機本能と同時に、求められていることへの歓喜で全身の毛が逆立つようだ。
生唾を呑みくだす音が生々しく鼓膜を打ち、一拍空けて人波に掻き消える。一瞬、周りから僕たちだけ切り離されたような感覚を得て足元がおぼつかない。見上げた兄さんの顔は先程のことなどなかったみたいに普段通りの様相だ。此れからも兄さんはこうして僕に爆弾を投げ入れてくるのだろうか…?とてもじゃないが心臓が持たない。触れ合った手を頼るように握り返して僕は言葉を振り絞った。

「お手柔らかに、お願いします…。」
「…善処しよう。だが悪いが前も言った通り、俺もかなり我慢した後だからな。保証は出来ん。」

…これは駄目かもしれない。うう、と恨めしい声を上げてみせるが、兄さんは笑って取り合わなかった。本気ですっかり僕を腹に収める手筈なのだろう。兄さんは何事にも計画的で、合理的に物事をこなす。きっと僕とのことも(心理面はともかくとして)したいことがカレンダーを埋めるが如く、びっちりとスケジュールを組んでいるに違いない。…非常に喜びづらいことだが、最悪捜査に響かなければ言うことは無いかなあと、連れられる最中、僕は青空を見上げて思った。





随分とキナ臭い場所。第一印象はそんな感じだ。民俗学の中でもとりわけ都市伝説を扱う兄さんにはお誂え向きな立地だけど…。まず一般人は脚を踏み入れたがらないだろう匂いと、雰囲気が入り口から漂っている。狭い路地というわけではないが、漂う空気は明るい世界で生きる人々を追い返そうとする意志すら感じる。それとも逆に、そこから逃れてきた人たちが築いた安息の地なのかもしれない。立ち並ぶ店構えも独特だ。チラホラとピンクのネオンが見えて、後ろめたいことがあって来たわけでもないのに落ち着かない。
兄さんは僕に入り口で待つように言って、胸元から小さな手帳とペン、それにボイスレコーダーを携えて中へと向かっていった。僕の職業柄、経歴に傷が付きそうな場所へ行かせまいとする気遣いだったのだろうか。元々キャリア組とは言え今の部署を思えば、残念ながら杞憂なように思える。寧ろ編纂室に飛び込んでくる捜査対象を思えば、僕も兄さんと同じくアンダーグラウンドな場所への見聞を深めるべきではないだろうか。
兄さんを追って中に入るべきか、入らないべきか迷っていると、丁度この街道へと入ろうとする青年が居たので引き止めてみた。中はどういう人たちが普段居るところなのか、せめてそのくらいは知っておきたい。

「あの、すいません。普段こちらに通われている方ですか?」
「え?ああ…まあ、そうですけど。貴方は?」

呼び止めた青年は怪訝な目と共に、値踏みするように視線を返す。口元に指先を当てて考える仕草が妙に色っぽい、と場違いなことを考えた。唇に当てた指先を飾る爪も、ツヤツヤと磨かれて手入れされているのが分かる。そんな青年の姿に若干気圧されつつ、慌てて僕も答えた。

「お気を悪くされたらすいません。兄がこの中に入っていったのを待っていたものでして、どんな場所かなと。他意はないんです。」
「お兄さんが?へえ…、お兄さんに待つように言われて?」
「ええ、そうです。」
「そう、なら私からは言えません。お兄さんに直接聞かれるのが一番かと思います。」
「そうですか…。なら此処に纏わる怖い話とか、都市伝説ってご存知無いですか?」

一度は微笑みを浮かべて返事をくれた青年は、再び怪訝な色を纏って「都市伝説?」と鸚鵡返しをした。あの兄さんがフィールドワークと称して来るくらいの場所だ。そう言った話題の一つや二つあると思ったのだが…。どうやら当てが外れたらしい。僕は分かりやすく肩を落とした。
…とするなら兄さんは何故ここに訪れたのだろう。青年をこれ以上引き止めていたところで答えが出るわけでも無いし、今から用事があったはずだろう。引き止めたことに詫びを入れて、諦めて兄さんを待つつもりだった。しかし暫く口を閉ざしていた青年が、悪戯っぽく口元に笑みを湛えて僕に声をかけた。その声色はゆうかさんが嬉々として、小暮さんが恐々と、誰かに内緒話をする時とソックリだった。

「ありますよ、一つ。気分を悪くさせちゃったりするかもしれないですけど、聞きたいですか?」
「本当ですか!?是非お願いします。」
「これは僕の働いてる職場のマスターが、お客様から聞いたご友人のお話なんですが…。」

お客の友人は独り身で、時々一夜を共にする相手を探しに街に出ては、その日出会った相手と遊び、お互い後腐れなく別れるを繰り返していた。
その日も彼は同じような目的の人間が集まるバーに足を運んだ。常連客である彼の周りには、噂を聞きつけた火遊び好きな女性が集まりやすい。しかし訪れた時間が悪かったのか、単に運が悪かったのか。待てど暮らせど珍しく誰も寄り付いて来ない。彼は仕方なく日を改めようとその場を去ろうとした。
その時。壁の花のように立っていた一人の女性が声をかけてきた。長身の、人形のように艶やかな長い黒髪が印象的な女性。今夜の相手に自分を選んではくれないか。か細い、聞き取るのもやっとの小さな声だった。余程緊張していたのか、俯いてしまって綺麗に通った鼻筋しか映らない。本人曰く普通の女性より体躯があるせいで男性経験がなく、そんな折、相手を問わず一夜を共にしてくれる彼の噂を耳に挟んだという。その日彼の周りに人が集まらなかったのは、彼女が話し掛けられるまで、店の人間が取り計らっていたからだったらしい。
見た目は彼の好みという程では無かったものの、普段相手にしている百戦錬磨の女性陣とは毛色の違う初々しい女性の登場に、彼は二つ返事で手を取り合って店を出た。ホテルへ向かう道中、二人は不思議と会話が弾み、好みでなかったはずなのにお互いになんて魅力的な人なんだ!と思うようになった。そして辿り着いた部屋の中、待ちに待った彼女の肢体が眼下に晒されようとした時ーーーー…

「脱いだ姿は男で、しかも綺麗な黒髪はウィッグを付けただけ。化粧を拭ったその顔は彼の血を分けた兄弟だった、って話です。どうですか?」
「それは…その男性、とても肝が冷えたでしょうね。」
「でしょうね。お客さんは大方兄弟の奔放な趣味に対して、悪戯目的で女に化けて来られたんだろうって仰ってたんですけど…。」

青年は瞼をやや伏せて、言葉を切った。その唇は強く引き結ばれており、この話に関して彼には何か思うことがあったのかもしれない。青年の痛ましい表情と、自分の今の現状も重ねてしまい、終わった話だというのに続けてしまった。

「…本当に愛していて、縋るような気持ちでご兄弟さんはそこにやって来たのかもしれませんね。」
「!…ふふ、どうでしょうかね。二人はどうなったのか、語ってもらえなかったので答えは謎のままです。何処で誰が自分を見ているのか分からない、誰に見つめられているのか分からない。そんな戒めの意味があるのかもしれません。僕の知ってるそれっぽい話はこれくらいです。」
「…ありがとうございます。わざわざ引き止めてしまってすいませんでした。」

礼を言われた青年は曖昧に笑って、足早に奥へと進んでいった。僕は青年が語った話を反芻しながら顎を指でなぞる。物語の二人は、上手く折り合いを付けられたのだろうか。自分を偽ってまで愛する人に近づきたかった気持ちはどれほどのものだったのだろう。向けられた兄弟からの気持ちに、男性はどう答えたのか。彼らの話を聞いて、僕は自分の気持ちを再び確かめようとしていた。
彼らは歪な形で想いを遂げようとしてしまったけど、僕らはそうじゃない。僕は…兄さんが求める形があるのなら、僕なりに応えていきたい。お互いに求めあってるのだから、話し合っていけばいいんだ。不安がることなんてない。当面は身体のことを考えることになるのだろうけど………ふ、不安がることない、ないったらないんだ。…あんまりにも痛いのはやだな…。
悶々と一人頭を悩ませていたところで、兄さんが戻って来てくれた。収穫が上々のようで口角が弧を描いている。調べ物も粗方済んだらしく、今日はもう帰路につこうと提案された。見れば日は早くも陰り始めている。思っていたよりも時間が経過していたみたいだ。冷たくなる夜風から逃げるように僕たちは家路を急いだ。
兄さんが帰ってきたことにホッとして、なんだか考えていた不安も紛れてしまった。しかし兄さんの言葉通り、僕はその夜兄さんの恐ろしさを知るのである。


20170131




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