劈くような蝉の鳴き声が辺り一面に鳴り響く、茹るように暑いある8月の昼。わたしはこの世で唯一大切な人の笑顔の写真が黒い枠に収められた、いわゆる「遺影」と呼ばれるものを胸に抱え、小さな部屋に棺桶が収められていく様子をただ一人で静かに見守っていた。 23.07.22
1週間前、唯一の肉親である父が亡くなった。
父は長年病気を患っており、幾度も死地に立たされながら闘病したが、年齢により体力も衰え、とうとうこの世界にわたしを一人だけ残して天国へと旅立った。随分前から長くはないことを父自身もわたしも知っていて覚悟をしていたからか、驚きや困惑はあまりなく無事に今日葬儀を終えられた。しかし、やはり喪失感というのはどれだけ覚悟をしていても感じずにはいられないものだ。この広い世界でわたしはたった一人になった気分で、寂しい気持ちが沸々と沸き上がってくる。
葬儀場のスタッフの人に父の遺骨を渡され、受け取ってその場を後にする。わたしを何度も抱きしめてくれたあの大きな身体がこんな小さな壺に入ってしまうなんて。小さくなった父を遺影と共に抱きかかえ、わたしが向かった先は自宅ではなく、海岸だった。
父は海が好きな人で、職業も漁師だった。海に出て魚を取ってきては新鮮な魚を食べさせてくれたのはいい思い出だ。それだけじゃなく、ただ海を眺めているのが好きなんだとよく言っていた。日の出から晩まで海にいて、わたしの学校が長期休みになれば1か月単位でよく海の上に連れ出されたこともあった。「いつか俺は海に還るんだ」なんて言葉が口癖な父は、葬儀方法も「水葬」を希望していて、最後のわがままくらいは聞いてあげないと。そう思いながら壺のなかに詰められた父の遺骨を一掴みしては海へと流した。そうしているうちに自然と今までの思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。
わたしを目に入れても痛くないほどに可愛がってくれて、でも生きる上で必要な色々な知識を教えてくれて、側で優しく見守ってくれて、いつも笑顔で笑っていて、少し楽観的で、たまに頼りなくて。でも、わたしはそんな父が大好きだった。いつも悲しい時は側に居てくれて、寂しい時は笑わせてくれたのに。今ここに、父は居ない。
海に骨を撒く手が止まり、ボロボロとあふれ出した涙が視界を奪っていく。
父がいないこの世界で、これからどうやって生きていけばいいのか分からない。けれど、残酷に平等に時は過ぎてゆく。わたしは唯一の大事な人を失ったというのに世界は変わらなくて、夜が過ぎればまた新しい朝が来る。まるで初めから父が存在していなかったかのようで、時の流れを恐ろしく感じる。いつか、忘れてしまう時が来るんじゃないか。そんなことを考えると酷く恐ろしくて、わたしは壺を抱えながらその場に蹲った。
「…会いたいよ……お父さん…」
もう一度、一目だけでいいから。
お父さんに会いたい。
身体中の水分を使ったのではないかと思うほど泣き腫らし、何時間かも分からない時間わたしはずっとそこで蹲っていた。さっきまで身体を焼き尽くしてしまうかのように強く降り注いでいた太陽はすっかり沈んでしまったようで、顔を覆っているのに分かるくらい辺りが暗くなっていた。そろそろ帰らないと…そう思いながら鼻を啜って不意に顔を上げると、違和感に気が付く。
これ、違う。太陽が沈んだんじゃない。空を見上げると、さっきまでの雲一つない青空が嘘だったみたいに分厚くて黒い雲が真上を覆っていた。びゅうびゅうと吹く強い風がわたしの髪をさらっていき、波が全てを飲み込もうとものすごい勢いで引いていった。
大時化が来る。それも、ものすごい規模のもの。海の向こうには、少し遠めから自分の身長より高いであろう波が勢いよく迫っていることが見て取れる。いつもだったら優雅にこの辺りの空を飛んでいる鳥は今は姿を消していて、漁船なども一隻も見当たらない。段々と大きくなっていく波がなんだか生き物のように感じて、心の中では「はやく高台に逃げないと」と思っているのにも関わらず、足は震えて全く動けないでいた。
もしかしたら、きっとどこかでわたしも「死にたい」と、そんな風に思っていたのかもしれない。
「…お父さん、」
目前に迫った高い高い波を見上げながら、そんな風に呟いた。
ごぼり。目の前で大きな水泡が弾ける様子を見つめていた。苦しい、悲しい、寂しい、つらい。なのに、身体の力が入らない。時化ているときの海は灰色で暗く、前も後ろも上も下も分からない。失った方向感覚に、既に抵抗する気も失っていた。あぁ、そうか、死ぬのか。そんなことをぼんやりと考えていた。ゆっくりと沈んでいく身体と意識のなか、思った事はただ一つ。
これで、父に会いに行けるー…