ナイトメア・コレクション



 雨の匂い
   土の湿った
 懐かしい
   郷愁の香り

 魔女は唄った。ここは狭間の場所なのだと。



 ◇ ◆ ◇



 打ち晒された過去の栄華は、いったい何処へと行くのだろうか。

 女は人知れず、そんなことを考える。

 ぬばたまの闇の広がる、廃墟と化した古城での一場面だ。

 たとえば史実とは、書物の一ページを繰るのと似ている、と彼女――クローディアは思う。口頭で語り継がれた前提は、次の瞬間にあっさりと覆されるかもしれなくて、先に記されていることなど、誰一人として知り得ない。

 そう、物語を綴る、神以外には。

 仮定としてこの世界を綴る神が居たならば、この国の大多数の者が『それはイエス・キリストの父たる神だ』と語るのだろう。

 それほどに、この英国という国は古めかしい箱庭だった。

 一八七〇年、英国は大主教座都市のカンタベリー。産業革命の進むグレーター・ロンドンに隣接したこの地は、大都ほどではないにせよ、そこそこの賑わいを見せていた。

 とはいえ一歩中心都市を出れば、辺りには長閑な草地に緩やかな丘陵が広がっている。

 そんな丘陵地帯の一画に、その城はあった。

 地方領主の住まうような、貴族のタウンハウスよりも少し大きい程度の古城。外壁は雨風に晒され、薄汚れて所々ヒビが走っている。

 ゴシック・リヴァイヴァルの波に乗り建てられたこの城も、半世紀あるじを亡くしたままでは建設当初の荘厳さはとうに失われたものだった。

 カーテン一枚が錆び付いたレールにぶら下がる一室で、女は使いかけの蝋燭に火を灯した。それは暖を取る為のものではなく、雲に隠された月の代わり、光源を得る為の明かりだ。

 寒さも極まる季節と言うのに、暖炉は煤と埃が占拠している状態である。対する彼女の格好と言えば、白いブラウスに絹織りの黒いドレスを重ね着した程度の薄着だ。地面に付きそうなトレーンの下にはバッスルのフリルの塊が潜んでいるが、アシンメトリーに持ち上げられた前裾は膝下丈で、四歳のこどもにしか許されないほどに短い。

 幾らブーツを履いているからと言って、普通の女性ならばあらゆる意味で――たとえば足を見せるなどとはしたないだとか、未亡人ではあるまいし黒装束は如何なものかだとか――耐えられないのだろうが、彼女はそんな気温にも顔色ひとつ変えることなく、机上の箱から小瓶を幾つか取り出した。

「人魚の涙、シルキーの布地、クルーラホーンの醸造酒……あら、ジャスパー。ケルピーの鬣はどこへやったの?」

 中身を一つ一つ確認しながら、アラビアンブルーの瞳が辺りを見回す。

 彼女が視界に捉えるのは、嘗て美しく部屋を彩っていたのであろう調度品の数々ばかりだ。金の絵の装飾が施された花瓶は床に転がり、仰々しい額に入れられた絵画は色褪せたまま部屋の隅に下ろされている。

 それから埃の払われた、まだそこそこ新しいベッドの上。そこに、彼女の探している者が居た。

 ビロードのような短い黒漆の毛を纏う、一匹の黒猫だ。

 アッシュグレイの双眸が、猫特有の瞳の煌めきをもってクローディアを見つめ返した。

 黒猫はまるで彼女の言葉を理解したように立ち上がると、伸びをしてからベッドを飛び降りる。

 けれど猫の前足が床に触れるか否かの刹那、そこに降り立ったのは一人の男だった。コツリと革靴の音が響いて、一歩踏み出した男が薄く微笑む。

 ノーブルブラックの髪を襟足の辺りで切り揃え、左右にわけた前髪から覗く瞳は、これまでベッドに丸まっていた猫と同じアッシュグレイだ。夕暮れの曇り空のような色をした瞳が、底知れぬ妖艶さを醸し出しながら女へ返した。

「お呼びですか? マスター・クローディア」

「お呼びですか? ……じゃないわ。ケルピーの鬣よ。決死の思いで刈り取ってきたひとつまみが、一本残らず消えているの。私以外でここに居るのは貴方だけなんだもの。知らないだなんて言わせないわよ?」

 シニヨンを作って毛先を流した、ローズショコラよりももう少し赤味の強い巻き毛を後ろに払いながら、クローディアは告げる。確かに、ここに住まうのは彼女とこのジャスパーだけである。他の誰かが誤って弄るはずもない。

 しかし、反論の言葉を述べる男の表情は、至って涼しいものだった。

「お言葉ですが、マスター。それは確か、取ってきたその日に我慢しきれず、貴女が薬を作るのに使用されたのだったと記憶していますが」

「あら、そうだったかしら。じゃあ新しいものを取ってきてくれない? 使い魔さん」

 パタリと箱の蓋を閉じながら、女はうっとりと見とれるほどの笑みを浮かべた。

 艶のある唇に、高温の炎の煌めきをたたえる瞳。それはまるで、人心を惑わす夢魔のような危うい美しさを内包している。――彼女の目の前で微笑む、ジャスパーのように。

「マスターのお手伝いとあらば是非にと言いたいところですが、ケルピーと言えば獰猛な 悪しき妖精アンシーリー・コート。如何な私でも、その願いにはお応えできかねます」

 男はあくまでも飄々と、彼女の出方を窺うように表情を濁さず言い切った。彼の言葉の中には穏やかな色こそあれ、主人と呼ぶ声には一片の敬いの念さえ感じられない。

 代わりに見え隠れするのは、楽しむような瞳の輝きだ。

「もっとも、取り引きを持ちかけて頂ければ、相応の働きは致しましょう」

「ふぅん。最初は歌声、次に涙。今度は何を所望するというのかしらね?」

「そうですね。貴女の命……と言いたいところですが、それでは現在の契約を無効にしてしまいます。寿命をほんの一日程度で如何でしょう?」

「呆れた悪魔だこと」

 ――ジャスパーがクローディアを敬うことがないのも、当然の話であった。

 彼は悪魔なのだ。本来ならば人から使われることすらそうそうないはずの、黒い欲望に凝り固まった存在。

 そんな彼がクローディアに仕えることとなったのは、まだほんの四年ほど前のことだ。

 嘗てキングズ・スクールの魔術師学科にて、優秀な成績を収めていた少女が居たという。彼女は知識に対して貪欲で、ありとあらゆる世界の理を求めた。所謂エリートだった彼女だが、卒業のその年、突如ロンドンの魔術師協会への所属を蹴ったのだ。

 本来魔術師は、各国の運営する魔術師協会に属することが暗黙の了解となっており、これからはぐれた魔術師は「魔女」と呼ばれ、奇異と嫌悪の目で見られることが多い。

 それでも尚、組織に与することを嫌った彼女が四年前に訪れたのが、この城だった。

 カンタベリーの中心街で騒がれていたその話題は、この城をねぐらとしていたジャスパーの耳にも届いていた。その影響も大いに手伝って、好奇心に勝てないジャスパーは、彼女に使われることを条件に彼女を側で観察することにしたのだった。それが彼の言う《契約》である。

 人間とは、果てしなく弱い生き物だ。

 悪魔と呼ばれる彼や、魂を持たない精霊達から言わせればとてもつまらない生き物とも言えるだろう。

 疎外されることを恐れ、出来るだけの支障を摘み取った平和な人生を歩もうとする種族。

 けれどその中でも、時折このクローディアのように、己の欲望に忠実に生きる人間がいた。それは良くも悪くも、魂を持たぬ者達にとっては興味を惹かれる存在だったのだ。

「悪魔だなどと。私とて、元は単なる妖精の端くれだったのですから」

「悪しき妖精を超える欲に忠実な妖精は、悪魔へと堕ちるのでしょう? だったら悪魔じゃない。ついでに言うと、取り引きはしないわ。私の寿命と探求心は、もっと大きな切り札としてとっておかなければならないもの。夢魔の秘薬を作るのは、また今度」

「あぁ、誠に残念ですね」

 彼女に返された一言にはまったく残念そうな気配を見せずに――寧ろ至極当然だというニュアンスさえ臭わせながら――、青年は肩を竦めた。

 そうして彼が再びベッドに飛び乗りながら猫へ変化するのと、クローディアがソファから立ち上がったのはほぼ同じタイミングだったかもしれない。

「おや、どちらへ?」

「材料を集めに。墓場の土と死者の爪ならば、すぐにでも取って来られるもの」

「墓暴きも程々にお願いしますよ、マスター」

 猫が不似合いな笑みを浮かべる。鼻の下の口が吊り上がり、風もなしに髭が揺れていた。

 黒いローブを纏った女は、ジャスパーの返事に答える代わりに片手を振って部屋を後にする。灯されたままのランプの光に、彼女の長い、ローズショコラよりも赤味の強い巻き毛が、ゆらゆらと深い闇の向こうに消えていった。



 ◇ ◆ ◇



 どれくらいの闇が、その部屋を支配していただろう。蝋燭が半分ほど燃焼しきった時間になって、この空間で唯一の扉が開かれた。

 本当に微かな扉の軋む音に気付いたのは、彼が人ならざる存在だったからか。或いは、それすらも大きく聞こえるほどにしんと静まり返っていたせいかもしれない。

 ピクリと耳を震わせた黒猫は、眠っていたのだろうか。ゆうるり瞼を開くや否や、ぞくりと全身を総毛立たせて低く鳴いた。

 フーッ、とアッシュグレイの瞳が鋭利な刃物のように細められる。けれど、灯りの元に照らし出されるのは、いつもと変わらないクローディアの姿だ。

「あら、ジャスパー。帰ってきた主人にその態度はあんまりだと思わない?」

「……マスターですか。驚かせないで頂きたいですね」

 皮膚が粟立つような感覚を覚えながらも、ジャスパーは人の形を取ると、いつも通りに掴み所のない笑みで曖昧に笑った。

 胸に生まれた違和感は、何故だか払拭されることがない。

 勝手に驚いているのはそっちだわ、とは、外套をベッドへ放り投げているクローディアの言い分である。恐らくさきほど彼女が言っていた材料なのだろう、その足で小瓶を小箱へとしまった女は、珍しく埃の被ったカーテンを開け放った。

 今夜は、どうやら満月のようだ。錆びて所々つかえながらも、どうにか開かれた窓からは、ほんのりと白い光が差し込んでくる。

 窓の前に、クローディアが靴音高く進み出た。そこで、彼は再び瞳を険しく眇める。

「お前は――」

「あら、どうしたの? ジャスパー」

 嫣然と微笑むクローディア。彼女は、いつもと何ひとつ変わらない。

 おかしかったのは、違和感を生み出していたのは、彼女の背後に控えるモノだった。

「マスター。余計なものを拾ってこられるのは、関心しませんね」

 ベッドに腰掛けたジャスパーの雰囲気が、一息に張り詰めたものとなる。彼を振り返ったクローディアは、くつりと楽しそうに笑った。

「だって、面白くはない? 天使に魅入られた魔女だなんて」

「死神、ですよ。マスター。もっとも、この国では唯一神以外に神が存在する筈はないと教えられているのでしょうが」

 月明かりに照らされた、クローディアのすぐ背後。ジャスパーが目を細めて見つめていたそこには、女の首筋に鎌を突き付けた告死天使アズラエル――またの名を、死神が佇んでいた。

 ごくりと、息を呑む。

 何故だろう。違和感の正体を突き止めたと言うのに、ジャスパーの頭の中ではガンガンと警笛が鳴っていた。

 何かがおかしい。そう、そもそも彼女は、これほどまでに死に急ぐ人間だっただろうか。

 おかしいとは思いながらも、まるで脳はそれを異常だと認識していないけれど。

「マスター・クローディア」

「ふふ。なんて顔をしてるのかしら。人型の時は中々な造形の顔も、台無しじゃなくて?」

「クローディア」

 一度目は静かに。二度目は確かに力を込めて、男はその名を呼んだ。

 助けを願わないのかと。

 助けてと願ってくれと。

 胸の内に秘めた、懇願も虚しく。

「さよなら、ジャスパー」

 ぐつり、と、肌の切れる嫌な音がした。



 ◇ ◆ ◇



「……っ!!」

 喉が痛い。乾ききって、唾液の粘液だけが気持ち悪く口の中を支配する。

 喘ぐように唇を動かして、男は漆黒の闇に身を横たえていることに気付いた。額の汗に、いつもは綺麗に整えている前髪が張り付く感覚が気持ち悪い。

 それから、視界の端で何かが揺れたような気がした。

 気怠い肢体を動かしながら、起きあがろうとして……そこで漸く青年は、頭上から自分を見つめる何者かが居ることに気付く。

 填められたのだと頭が理解するには、ほんの五秒ほどの時間が必要で。

「レディが夜這いとは、関心致しませんよ、マスター」

「ふふ。面白い夢だったわ」

「まさか悪魔が人間に悪夢を見せられるとは、とんだお笑い草ですね」

 ――そう、すべては悪夢だったのだ。素材とそこそこの力があれば、人間にさえ調合することのできる《夢魔の秘薬》。その粉末を体内へと取り込んだ者は、眠気に襲われ悪夢を見るのだという。

 恐らく彼の狡猾な主人も、何かしらの方法で見せた悪夢を覗き見ていたのだろう。

 甚だ悪趣味な行動である。

「どこから、どうやって一服盛られたのでしょうね。墓暴きに向かわれた際ですか?」

「さぁ、どこからかしら。もしかすると、最初から最後まで……かもしれないわね?」

「私達は、まだ最後を迎えておりませんが」

「えぇ、だから今この瞬間も、悪夢の延長線かもしれないわ」

「おや。それは困りました」

 のろのろと身を起こして、ジャスパーは軽く額に張り付いた髪を払った。

 定説を覆す定説、とでも言うのだろうか。今この瞬間でさえも、自分は何処とも知れぬ場所で眠り込んでいるのかもしれない。

 もしかすれば、このクローディアという女に出逢ったことこそ、悪夢の中の出来事かもしれないだなどと。

 そう考えると、何故だか彼の口元にはいびつな笑みが上った。自嘲に似た、哀れむようなその笑みに、クローディアもいつもの笑みを浮かべる。

 底知れない輝きを宿すのは、或いはどちらの瞳だろうか。

「垣根の上に居る女」

 ぽつ、と、不意に男の口から漏らされたのは、何気ないそんな一言だった。

「垣根の上?」

「魔女のことを、人は遠い昔からそう呼んだそうですよ」

 僅かな関心を示したクローディアに、ジャスパーは悠然と微笑んだ。

 いつの間にか取れたカフスボタンを留めながら、青年はいつだったか、忘れてしまうほど遠い昔に聞いた話を思い出した。

 嘗て人々は、生死に携わる女達のことを時に慕い、時に罵った。罵倒の言葉に魔女という言葉を使ったのは、中々に的確な表現かもしれない。

 人の死に目に、命を救えなかった者に、悪魔の使いだという烙印を押したのは――悪魔からしてみれば、実に愉快な話だった。

 愉快であり、愚かしくもあるその言葉は、生と死の垣根に存在する者として、魔女の言葉を確立させていく。

 あちらの世界と、こちらの世界と。いつしかそれは空間をも凌駕する者なのだという誇張解釈を伴って、人々の間に浸透していった。

「本当に人間とは、愚かしくも面白いものですね」

「私のことを言っているのかしら」

「さぁ、どうでしょう」

 寝覚めよりは遙かに落ち着いた様子のジャスパーへ、クローディアは不敵に笑ってみせる。彼は時折、彼女こそこちら側の人間なのではないかという錯覚に駆られることがあった。

「垣根の上に居る女? 上等だわ。私は生死を越えて、世界の垣根を跨ぐのよ。すべての物語を知る為に」

「すべての物語、とは?」

「伝承、口話、人の生まれてから死ぬまでの記録。星の廻り、季節の移ろい。もしくは人の居なくなった世界の行方。この世界よりも、もっと遠くの世界の物語まで、それこそすべて。何にも囚われない、ありとあらゆる物語」

「貴女は本当に、魔女じみている」

「本物の魔女にでもなりたいもの」

 まるで夢物語のような女の話に、悪魔は目を細めて嗤った。これ以上にはない、至上の美酒を目前にしたかのように、彼の顔にみるみる浮かぶのは歓喜の色だ。

 その笑顔さえも整っていて、作り物じみた美しさは完璧で不気味な印象を与える。やがて彼は彼女へと手を差し伸べて、うっとりとするような声音で囁いた。

「ならばマスター。本物の魔女にでもなりますか? この手を取れば、貴女は何処までも堕ちて――どこまでも羽ばたける」

 それはまさしく、悪魔の囁き。

 魂を売り渡したならば、二度と元には戻れない。これから先の長い人生を、悪魔と交わった女として生きて行かなければならないのだ。

 けれどクローディアは、その手に一切の迷いを抱えてはいなかった。

 白手袋の男の掌に、白魚のような女の手が重なる。

「それに必要な対価は?」

「それではマスター。貴女のこれからの人生を、すべて」

「命は渡せないわ」

「えぇ、命は要りません。貴女の存在ひとつ、あれば良いのですから」

 まるで愛を囁くように、その声は深く彼女の脳へ染み渡った。

 悪魔の言葉には、もしかすると魔力があるのかもしれない。人魚の歌声にだって、水棲馬の瞳にだって、魔力が宿っているくらいなのだから。

 頭の片隅で女は考えながら、何処までも何処までも堕ちて行く。

 波打つシーツに埋もれる二人をただひっそりと見つめているのは、天井の隅から垂れ下がる、埃まみれの蜘蛛の巣ひとつだけだった。



END



after word
10年くらい前に企画用に書き下ろしたものです。企画主様の作ったお題を元に短編を書く企画だったはず。
あまりに古い作品なので、多少見られるように手を加えましたが、殆どそのままなのでやはり顔を両手で覆いたくなる。
本作テーマは、「曖昧な上下関係」でした。


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