神様なんていない

試したいことがある、とキュウビに言われて、私はおおもり山のご神木に来ていた。しかし、呼び出した彼はと言えば未だ現れておらず、ぽつんと一人、何をするわけでもなく佇んでいる。ふと空を見上げれば、ご神木の木々の合間から光が漏れていた。場所柄か、それがやけに神々しく見えて、そういえばキュウビも神に値する存在だったなと思った。といっても彼はくくりで言えば妖怪だし、正直私にとっては畏怖する存在、とも言える。何を考えているのかわからないところがますます怖いのだ。

だから今日だって、キュウビが怖くて断ることができなかった…というのは私だけの秘密である。

そんなキュウビの試したいこと、とは何なのだろう。

神様なのだから、なんだってできてしまいそうなキュウビなのに。
思い当たる節がなく、首を傾げる。

そして思い付かないからこそ、できれば私で試してほしくないというのが本音なのだけど…それは我慢することにした。



「やあ、七海」
「あ、キュウビ」


悶々と考え込んでいた私のもとに、どろんと音をたててキュウビが現れた。「遅くなって悪かったねェ」と言いながら、ゆっくり私に近付いてくる。…え、いきなりなんか近いんだけど。


「あ、あの、キュウビ…?」
「ん?なんだい?」
「えーっと、ちょっと近くない?」


出会い頭、なぜこんなに距離を縮める必要があるのか。
じりじりと迫るキュウビに、私は思わず後退りする。彼はと言えば、なぜか楽しそうに目を細め、すっと手を伸ばしてきた。反射的にさらに後退りをしようとしたが、背中が壁にぶつかってしまう。…え、壁?!何でこんなところに?!


「七海」


とん、と私の顔の横にキュウビの手(前足?)が置かれた。やけに色めいた声で名前を呼ばれ、ぞわっと鳥肌がたつ。

後ろはなぜか壁。前はやけに楽しそうなキュウビ。

逃げ道がない。

追い詰められているこの状況に、じわじわと恐怖心が沸いてきた。もしかして、私、キュウビに食べられる?!

果してそれは正解なのか、キュウビの顔が近付いてくる。「ちょ、キュウビ…!」思ったより焦った声が出て、キュウビの胸元を押し返す。もふもふとした毛並みが、今は無駄に怖かった。

お母さんお父さん景太、サヨウナラ…!と死を覚悟し、思いっきり目をつぶったのだが。


「くくっ」
「え?」


聞こえてきたのはキュウビが笑いを喉で耐える声だった。この状況に似つかわしくないそれを聞いて、私は恐る恐る目を開ける。相変わらず近い距離ではあったが、キュウビの顔が近づいてくることはなかった。


「あの、キュウビ…?」
「くくっ…七海、ドキドキしたかい?」
「はい?」
「だから、ボクにドキドキした?」


キュウビが伺うように首を傾げる。
ふわふわした尻尾が、楽しそうに揺れていた。

もしかして私、からかわれた?!って試したいことって、今のやつ?!

愕然とした私に、キュウビは笑みを深めた。
何で、こんなこと。そう思ったら、怒り半分、安心半分で、思わず顔が歪む。どんな顔をしたらいいかわからなかったからだ。だって、本当に今、私は死を覚悟したのだ。この狐の妖怪に、取り込まれてしまうかと思ったのに。


「そんな顔しないでほしいなあ。怒らせるつもりも、怖がらせるつもりもなかったんだ」
「でも、あんなこと、急にされたら、」


誰だって怖いと思う。ましてや、伝説的な大妖怪に迫られたら、生命の危機を感じるのは当たり前だろう。私の中でじわじわと恐怖心から、怒りへと変わっていく。それでもキュウビは楽しそうに目を細めて、「怒らないでよ」と長い爪で私の頬をつついた。


「今人間界では、壁ドンが流行っているんだろう?」
「はい?」
「壁ドン。とあるところから情報を入手してねェ。女の子の憧れだと聞いたから、七海にも試してあげようと思ったのさ」


何て無駄なリサーチ。そして何その迷惑な親切心。私はそんなことしてほしいなんて頼んでいないし、ドキドキするどころか怖かった。それに、わざわざ私で試すこともないだろう。
私は睨むようにキュウビを見上げた。


「くくく、その顔、いいねェ」
「えっ?」


しかし、キュウビは更に機嫌を良くするだけだった。私、怒っているのだけど…。本当に、キュウビは何を考えているのかわからない。


「七海の、ボクのことしか考えていないその顔、堪らないよ」


キュウビが頬をつついていた爪で、ツツツ、と私の首筋をなぞっていく。収まっていた鳥肌が、また再発した。


「怒らせるつもりも、怖がらせるつもりもなかったのは本当。でも、ボクのことで頭がいっぱいになるのは気分がいい」
「な、何を言って、」
「七海、キミはいつボクのものになるんだい?」


今度はトントン、と鎖骨の辺りを爪で叩かれた。ゾワゾワ、鳥肌が収まらない。背筋から這い上がってくる恐怖が、私の中をいっぱいにする。


「本当に食べちゃおうかな?」


ぺろり、とキュウビの舌が見えた。動かない私の体に、キュウビの顔が近付いてくる。それは首筋に向かっていて、今度こそ本当にヤバいかも…!!と思ったときである。



「あああの、キュウビ様!こ、これ以上はムリィィィ〜!!」
「えっ?!」


後ろから突然声が聞こえて、ふと壁がなくなった。寄っ掛かるようにしていた私の体が、ぐらっと揺れる。たたらを踏む前に、キュウビが私の体を抱き止めた。


「あーあ。残念。やっぱりムリカベには無理だったねェ」
「は、はあ?」
「壁役を頼んだのさ。壁ドンするのにちょうどいいだろう?ま、この状況に耐えきれなくなったのは仕方ないか」


それにある意味役得だった、とキュウビが腕に力を込めてきた。すりすり、と頬擦りされる。ふかふかの毛が私の体を包んでいた。その間、私は突然の出来事と恐怖に体が縮こまったままだったのだけど。


「さあて、何して遊ぼうか」


キュウビがにやりと目を細める。
捕まってしまった私は、どうなってしまうのだろう。神様助けて、と思ったけれど、目の前にいるのが神様なのだ。助かる見込みはないだろう。


「さっきの続き、しちゃおうかな?」


ああ、もう絶対神には祈らない。