姑獲鳥の夏
夏が過ぎて、ようやく寝苦しさからも解放されるようになった。
バイトで疲れた体を癒すように、ベッドの中に潜り込む。今日お母さんが干してくれたシーツが、とても気持ちいい。幸せ。
お腹を一撫でして、夢の中へ入ろうとしていたとき、僅かに扉が開いた。「姉ちゃん、起きてる?」弟だ。
「うん、起きてるよ。どうしたの?」
「うん…何か眠れなくて。一緒に寝ちゃ駄目?」
私は体を起こすと、ぱちぱちと瞬いた。確かに景太は重度のシスコンだと思うが、夜の添い寝が必要なほど子どもではない。
嫌な夢でも見たのかな?
珍しい景太のおねだりに首をかしげつつ、肯定の意を伝えれば、枕を抱いたままテテテと小走りにやってくる。そしてすぐにベッドの中に滑り込むと、きゅっと腕にしがみつかれた。あれ、ほんとにどうしたの?
「ケータ?」
「姉ちゃん…」
「うん?」
「姉ちゃんはずっと、俺の傍にいてくれるよね?」
景太の言葉に、息を飲む。あまりにも唐突すぎて、声が出なかったのだ。
「ケータ…何かあったの?」
「…ううん。何でもない」
「でも、」
「ごめん、姉ちゃん。何でもないよ。言ってみたかっただけ!ドラマでやってた」
「え、ドラマ?」
「うん、そうそう!」
ちょっとドキッとした?といたずらっ子のような笑みで景太は言う。でもその顔はやっぱり少し泣きそうで。私はゆっくり頭を撫でた。
「ケータ、姉ちゃんはここにいるから、ゆっくり寝な」
おやすみ、と言えば安心したように笑って目を閉じる。ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。眠れないといった割りに、早い夢のお迎えだったな。私は小さく笑って、もう一度景太の頭を撫でる。それから起こさないように、ゆっくり体を起こした。
「七海」
「オロチ、」
いつも通りおおもり山に行くと、そこにはいつも通り、オロチがいた。私が声をかけるより先に名前を呼ばれ、近くにいけばすぐに引き寄せられる。「冷やすなよ」と肩を擦られ、次にお腹に手を当てた。
「元気か?」
「うん、問題ないよ」
「そうか…それならいい」
フッと口元を緩め、オロチは優しく笑う。彼がこんな風に笑うようになったのはいつからだろう。それはどうみても、親の顔。オロチと私の子に対する顔だった。
私はこの体に、オロチの子を宿している。それは昔、私が彼と契りを交わしてから、ずっと。もう何年になるのかさえ、忘れてしまった。景太の姉になるずっと前だから、10年ではきかない。それほど長い年月を、私は彼とすごし、そして、命を宿した。
人は、私のことを姑獲鳥(うぶめ)という。つまり妊婦の妖怪である。けれど私の子は産まれることはない。お腹に宿したまま、私は時間が止まっているのだ。
それでもオロチは会うたび、傍にいるたび、私と、この子を気遣う。お腹に手を当て、うれしそうに笑ってくれる。
私はそれだけで幸せだった。私とオロチの繋がりが、このお腹に宿っていると思うと、思わず私も、手を当てたくなるのだ。
「ね、オロチ」
「ん、どうした?」
オロチが肩を抱いた手にわずかに力を込める。私はそれに手を重ねて、見上げた。
「今日ね、ケータが…姉ちゃんずっと俺の傍にいてくれるよねって聞いてきたの」
「ケータが?」
「あの子…何かあったのかな…」
ぽつりと呟いた言葉を、オロチは丁寧に拾い上げてくれた。「最近のケータは…特に困った妖怪に出会ってもいないし、トラブルに巻き込まれてないはずだが…」顎に手を当てて考えている。しかし思い当たる節がなかったようだ。
「すまない。俺には原因はわからない」
「そっか。どうしたんだろうなあ…」
「ただ、もしかしたら」
「うん?」
「俺たちのことを薄々感じ取っているのかもしれない」
それは考えてみたこともないことだった。景太は私が妖怪であることを知らない。もちろん、彼にとって仮染めの姉であると言うことも。
そもそも私は妊婦だということもあり、オロチの計らいで、安全な人間界に住み着くようになった。いろんな家族を転々として来たけど、景太はその中でも、群を抜いて私を慕ってくれている。彼にとって普通の姉として振る舞ってきたけど、さすがに妖怪ウォッチを手にいれてきたときは焦ったものだ。だってあの光に当てられたら反応してしまう。なのでこっそり友達契約し、私のメダルを隠したのは記憶に新しい。
私はそれなりに、天野家の生活をうまく過ごしてきたと思う。景太だって気付いている様子はないように思えたのに…
「まさか…」
「いや、本当のところはわからない。が、どこか本能的に何かを感じ取っているのかもしれない」
「そっか…」
「七海、そんな不安そうな顔をするな。子に障る」
「うん、でも…」
もしも景太に知られてしまえば、私はあの天野家にはいられなくなる。それは私の中の誓約だった。私が本当の家族ではないと知られてしまえば、その家に不調を来すことがあるからだ。
だから、悟られないように気付かれないようにしてきたというのに。
「オロチ、私…」
「ああ、わかっているさ。お前がケータのことを本当の弟と思っていることくらい」
だから、と言葉を切ってオロチは私を緩く抱き締めた。お腹に負担がかからないように、包み込むような風で。
「少し、ケータのことを気を付けて見ていよう。お前も、焦ったところで何もない。無理はするな」
「うん…」
「大丈夫。また明日になればいつもどおりのケータになるだろう」
ゆっくり、私の肩をオロチの掌が上下した。そこから少しずつ、温まっていく。不安と緊張に冷えていた心まで溶けていくようだった。
「オロチ…ありがとう」
「フッ、妻を気遣うのは当たり前だろう?」
額を、オロチの胸元にくっ付ける。すっと息を吸い込めば、オロチの匂いがした。
私はとても、幸福者だ。
「…という夢を見たんだ」
そう言うと、オロチは無遠慮に私のお腹に手をペタペタと当てて、あからさまにがっかりした。
おい、レディの神聖なる腹部を触っておいてなんと不逞な輩だ。そもそも私は妖怪ではなく列記とした人間で、私の年齢も17歳である。もちろん、景太とも血が繋がってる。
ツッコミどころはそれだけではない。オロチの夢の話なのに、なぜ私視点で話が展開されているのか。
いろいろおかしいでしょ!
心の中で叫んでみるも、オロチに届くことはなかった。がっかり半分、どこかほくほくした顔をしている。
「久しぶりに…いい夢だった」
「ああ、そう…」
何かオロチが変態っぽく見える。私は心持ち、一歩後ろに引いた。
「七海が妖怪だったら、か…考えたこともなかったな」
「そうなの?」
「ああ…俺が好きになったのは人間の、そのままの七海だからな」
そんな風に幸せそうに笑われてしまえば、もう私は怒れない。ちょっぴり頬が熱くなったのを隠すように、「で、も。私はオロチが人間だったらって思ったこと、あるよ」と言った。
「そうなのか?」オロチは意外そうな顔をする。
それはそうだ。私とオロチには、絶対的に破ることができない種族の壁があるのだ。だから彼の思いに答えるのには勇気が必要だったし、時間だって要した。男はにぶいというが、本当にその通りである。
「確かに俺は妖怪で、七海は人間だ。だが、それでも俺はお前を好きになったんだ」
仕方ないだろう?
オロチは笑う。楽しそうに、心が通じたのが嬉しいと、幸せそうに。
私も気付けば笑っていた。
そうだ、何を今さら確認しているのだろう。好きなのだから、それでいいじゃないか。
「ま、俺はあの夢を正夢にしてもいいけどな」
その時、オロチが見せた悪戯で、それでいてどこかぞっとするような笑みを、私は多分、一生忘れないだろうと思った。
※京極夏彦が元ネタです。