色づく唇
「さあ、上を向いて」
「ん」
ごつごつした手を顎に添えられて、そっと持ち上げられる。私はそれに抗うことなく身を任せると、女郎蜘蛛の持つ筆が降りてくるのを待った。
筆の先につけられた紅は、女郎蜘蛛が調合したものらしい。「七海をイメージして作ったの」と言われたときにはどれだけ女子力が高いんだと思ったほどだ。
先ずは一筆、私の唇に触れる。ゆっくりなぞられて、ぞわぞわと不思議な感覚が背中を通っていった。こんな風に口紅を塗られるのは初めてだった。
「うん、やっぱり私の思ったとおりね。この色、七海によく似合うわ」
「ほんと?」
「あ、こら。動いちゃダメよ。まだ終わってないんだから」
再び女郎蜘蛛の持つ筆が、私の唇に降りてくきた。まるで絵を描くように、女郎蜘蛛の手は繊細に動く。ちらっと見上げた女郎蜘蛛の顔は真剣そのもので、そういえば彼の顔をこんなに近くで見たのは初めてだ。
見れば見るほど、土蜘蛛によく似てる。けれども女郎蜘蛛の仕草や、言動は私よりも女らしい。女子高生と言えども、普段するお化粧といえばアイブローとマスカラくらい。一方ファンデーションからがっつりメイクの女郎蜘蛛は、完全に「女子」だ。
筆が止まった。身じろぎすると、「まだよ」と顎を固定される。女郎蜘蛛は近くにあったティッシュを取ると、優しく私の唇に押し当てた。
「よし、できた。ほら、見てごらん」
「あ、ありがとう」
手渡された手鏡を覗きこむ。そのなかにいた私の唇には、ピンク色の口紅が控えめにのっていた。
「わあ、かわいい色!」
「なかなかいいでしょう?頑張って作ったかいがあったわ」
ふっくらした唇は、普段の私とはまるで違う。何だか少し大人っぽくなれたかな?
口紅をつけただけでこんなにも印象が変わるなんて!
「この紅はね、ちゃんと保湿成分も含まれているのよ。冬でもがさがさにならずにすむわ」
口紅は唇の潤いを奪ってしまうものらしい。知らなかった…さすが女郎蜘蛛。美容に関しても知識は豊富である。
「そうなんだ…女郎蜘蛛すごい!ありがとう!」
「いいのよ〜でもその代わり、またお化粧させてね」
バチコーンとウィンクが飛んきた。なんて女子力が高いんだろう!
私は、再び鏡の中の自分(の唇)を覗きこんだ。何度見てもきれいな色。思わず唇に指を這わせてみる。テレビのCMでやってた、キスしたくなる唇って、こういうのなのかな。
「ねえ、七海?」
「んー?なあに?」
振り向いた先に、ふと影が落ちた。それから、今度は筆とは違う感触。「ちゅー」。え、ちゅー?!
「んふふふ!やっぱりこの紅いいわね!キスしたくなっちゃう!」
「は、え?」
「言っておくけど、あんなセクシーな顔しちゃダメよ〜?特に土蜘蛛と大ガマには見せないこと!じゃないと…」
「俺みたいに奪われちまうぞ」
ばっと口元を隠した。その下で、声にならない声が出ようとする。今何された?何されたの私!
「んふふ、かーわいい!」
「あ、あ、あの!え?な、に?!」
「あーあ。ほんとはこーんな筈じゃなかったんだけどねえ」
「仕方ないわね」と、女郎蜘蛛が一つ、ため息をつく。頭が真っ白になった私は、ただただ呆然とするだけで。
「無防備に唇を預けないように。な?」
「は、はい!」
化粧したいっていったの、女郎蜘蛛のくせに。言いたい文句も声になることはなく。
その日、私は、女郎蜘蛛も男なのだということを改めて思い知らされたのだった。