雨降る桃源郷

ぽつり、と鼻先に滴が落ちた来たと思ったら、すぐにそれは量を増してきた。
慌てて近くのヨロズマートの軒先に避難して、重く垂れ下がる雲を見上げる。この湿った、甘いような匂いは、確かに雨の匂いだった。

この季節、急な雨は仕方がない。けれど、さっきまでいい天気だったのに、まさか帰りの時間に遭遇してしまうなんて。まさにゲリラだな、と思いながら、七海はため息をつくしかなかった。

ざあざあと降り続く雨は、どんどん勢いを増していく。びしょ濡れにならずにすんだだけ、ましだったかもしれない。スーツを着た男性が鞄を頭にのせながら、駆けてきて、七海の雨宿りをしているヨロズマートの中へと入っていった。どうやら傘を買うつもりらしい。

「私も傘、買おうかなあ」

恐らく一時的なものだから、一通り降ればこの雨もやむだろう。けれど、雨宿りしている時間がもったいないし、何より暇だ。傘を買えばすぐに帰れる。でも、女子高生の懐事情は、そんなに甘くない。いくらバイトをしてると言えど、コンビニの傘は高いのだ。

来週、読みたい雑誌の発売日だし。

「困ったなあ。どうしよう…」

傘を買うか、買わないか。
雨がやむのを待つか、待たないか。

そうやって考えている間にも、雨はざあざあと降り続く。すぐ隣では、先程走ってきた男性がヨロズマートから出てきて、傘をさして帰っていった。

「こうなったら走って帰るか…」

濡れるより、七海自身の財政状況のほうが切迫しているのは確かなのである。
すでに七海の頭のなかに、「やむのを待つ」という選択肢はなかった。

もう一度空を見上げて、一人頷く。よし、せーので走りだそう。せーの…


「おいコラ。何走り出そうとしてるんだよ」
「…え?」

いざ行かん、と足を踏み出したのと声がかかったのは同時だった。慌てて足を引っ込めて声のする方を見れば。


「濡れたら風邪引くだろうが」
「お、大ガマ…?」
「おう。迎えに来たぜ」

まさかの大ガマだった。大きな赤い番傘をさして、にかっと笑う。迎えに来たって…なぜだ。


「そんなに不思議そうな顔すんなって。さっきたまたまケータから呼び出されてよ。七海が傘忘れていったって言うから迎えに来たんだ」
「あ、なるほど…」
「本当はケータが行きたがってたんだけどな!」


大ガマ曰く、迎えに出ようとした直前、お母さんに宅配便が来るからと、留守番を頼まれたらしい。ケータは既に2回、そのお願いを反古にし、鬼時間に遭遇している。さすがに3度目はまずいと思ったのかもしれない。だから偶然呼び出していた大ガマに、七海のお迎えを許可したのだろう。

今ごろシスコン気味な弟はヤキモキしているに違いない。役得だったぜ、と口笛をふく勢いの大ガマを見て七海は苦笑交じりにそう思った。

何にせよ大ガマが来てくれて助かった。「大ガマ、ありがとうね」と言えば、「おう、気にすんな!」と再びにっかり。そして同時に出てきた大ガマの手。…何だこの手は。
*
*
「さ、レディー。お手をどうぞ」
「えっいや、いいよ…普通に傘に入らせてもらえればいいって」
「おいおい無粋なこと言うなよ。せっかく来たんだ、雨の日のデートもいいだろ?」
「デート…」
「相合い傘でな!」


ぱちん、と大ガマのウィンクが飛んできた。まさか素でウィンクを飛ばしてくる人がいるとは。
*
七海と彼は「そういう間柄」ではない。とはいっても、このままではいつまでたっても帰ることができないだろう。「ほら、早く来い」急かされて、仕方なく、七海は差し出された大ガマの手をとった。
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「おわっ」
「よし、帰るぞ!」
「は、はーい…」
*
*
大ガマが七海を引き寄せる力は強かったが、意外にも、握る手は優しい。思わず見上げれば、楽しそうな横顔が目に入る。「大ガマ、何だか楽しそうだね」。やっぱり蛙の妖怪だからだろうか?
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「雨好きなの?」
「おう!冷たくて気持ちいいだろ?本当なら傘なんていらねーんだけど」*
「いや、さすがに私は傘ないと嫌だよ!濡れるの嫌だし!」
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今にも番傘を放り出してしまいそうだったので、慌てて繋いでいない反対の手で傘の柄をつかむ。その様子に、大ガマは楽しそうに笑っていた。
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「そんなに濡れるのが嫌なら、もう少し近くに寄れよ」
「え?あ、うん…」
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繋いでいた手を軽くひかれたので、そのまま身を任せる。
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そこでふと会話が途切れた。
聞こえるのは番傘に響く、雨の音だけだった。七海が持っている傘よりも、直に雨の音を感じている気がする。
ぽたり、と鼻先にまた雫が落ちてきて、よくみると、大ガマの持ってきた番傘は所々小さな穴が開いていた。
*
ぼたぼたぼた。雨の音が響く。時々ぽたりと落ちてくる雫が、七海の鼻先や頬を掠めていく。
それでも嫌な気分にならないのは、この繋いでいる大ガマの、大きな手のおかげだろうか。
軽く握り返してみれば、大ガマもさらに握り返してきて、気恥かしさに顔を俯かせた。
ふっと大ガマが笑ったような気がして、七海の頬は思わず熱を帯びてしまうのだった。
*
*
「何だか、帰るのもったいないよな」
*
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そう、優しい声で言う大ガマに、普段なら、絶対、そんなこと言わないのに。
「そうだね」と頷く自分がいて、七海はもう一度、穴のあいた番傘を見上げた。
びしょ濡れにはなりたくないけれど、今日は少しくらい濡れてしまってもいいかもしれないと思った。
*
隣にいる大ガマの手が、ことのほか優しくて、その心地よさと離れがたかったから。