赤い箱のお時間
「やーん!かわいい!ね、七海!」
「うん、確かに可愛いねえ」
学校の帰り道のことである。たまたま通りかかかったペットショップの窓ガラスに、べたりと張り付くように友人は近寄った。中には子犬がたくさんいて、尻尾を振りながら期待に満ちた目でこちらを見上げている。
「いいなあ、犬欲しいなあ。もしくは犬になってしまいたい!」
「あはは、そんなに好きなんだねえ」
「あれ、七海は犬好きじゃないの?」
小動物好きだからてっきり好きだと思ったんだけど。と、窓ガラスに手をつけたまま友人はこちらを見てきた。「私はどっちかっていうと猫派かなあ」家にジバニャンがいるし。もちろん、コマさんもかわいいけれど。でもやっぱり「家族」を贔屓してしまうのは仕方がないと思うのだ。
「そっかー!まあ、どっちもかわいいよね」
「うん、可愛い可愛い」
女子高生の常套句「可愛い」を連呼し、お互いにっこり笑う。「そろそろ帰ろうか」「そうだね!」犬派か猫派かの話をしていたら、我が家のお猫さまに会いたくなってきた。早く帰ってジバニャンを撫でくりまわそう。そう思いながら、私は友人と再び帰路についたのだった。
友人と別れたあと、少し薄暗い道に通りかかる。この道がこんなにも暗いのは、道沿いにあったヨロズマートが、最近閉店してしまったためだった。私は妖怪が見えるけれど、やっぱり不気味だ。『何か特別なもの』の存在を無意識に感じているからだろうか。その特別なものが何かわからないけれど、妖気に当てられているような気がして、肌がピリピリしていた。
「早く通り抜けよう…」
何だか嫌な予感がする。肩にかけた鞄の持ち手を握り直し、早足に足を進めようとしたときだった。
「ねえ、そこの君」
低く、抑揚のない静かな声が後ろからした。この道には私しかいない。ということは。「ねえ、そこの君。天野七海ちゃん、だよね?」
「え、っと、はい」
名前を呼ばれてしまっては振り向かないわけにはいかない。妙にドキドキして後ろを振り向けば、案の定そこには知らない男の人がいる。手に赤い箱を持って、薄い笑みを浮かべていた。
「やっぱり。君が七海ちゃん」
「あの、私に何か…?」
後退りしそうな足を踏んばって、ぎゅっと強く鞄を握る。「そんなに警戒しないでほしいなあ」にこやかに言うお兄さんは世間ではイケメンだろうけれど、その雰囲気はただ者ではない。
いつ逃げ出そうか。そんな機会を伺っていると、お兄さんは一歩私に近づいた。「君に、他でもない天野七海ちゃんに、この赤い箱を預かっててほしいんだ」
「え?」
「はい。これ。よろしくね」
ずいと差し出された箱は、私の胸元に無理矢理押し付けられた。反射的に受けとれば、お兄さんはすぐに踵を返してしまう。
「えっ!あの!ちょ、この箱!」
預かるっていつまでだ。そもそもこの赤い箱は何なんだ。どんどん出てくる疑問に頭はパンク状態である。しかしそんな私の様子を気配で察したのか、お兄さんが首だけを回してこちらを振り返った。
「期間は僕が取りに来るまで。中は絶対開けちゃいけないよ?」
「え、」
「いいね?絶対、開けちゃダメだからね。開けたら、」
そこで一度言葉を切ると、お兄さんはふふふと含み笑いを溢した。「どうなるかは、僕のお楽しみ」
そんな意味不明な言葉を残し、お兄さんは去っていった。呆然と立ち尽くす私の手には、紐で括られた赤い箱。それはまるで玉手箱だ。
開けてはいけないその箱を開けたらどうなるのか。
ダメと言われれば余計気になってしまう。
「どうするの、これ…」
お兄さんは消えるようにいなくなってしまったし、その問いに答えをくれる人は誰もいない。
仕方なく私はその箱を持って家へと向かった。両手の平で包むように持ったその箱は、ほとんど重さを感じない。しかし、箱の隙間からまるで誰かが手まねいているような、そんな恐怖を感じる。
いっそのこと捨ててしまおうか。そう思ったもののなかなか踏み込めず、とうとうその箱は私の自室の机上に鎮座することになったのだった。
▲▽
箱を受け取ってから三日がたった。あの謎のお兄さんの言いつけを、私はかろうじて守ることができている。といっても本当にギリギリ。本当は気になって仕方がない。
一瞬でも気を緩めると、手が滑って開けてしまいそうだった。中身は何なのか。箱の大きさから考えると、中のものはあまり大きく無さそうだ。
視界にちらつくからいけないのだと、クローゼットから大きめのハンカチを取り出して被せたのが昨日のこと。それも気休め程度にしかならず、ほとんど効果がない。
『絶対開けちゃいけないよ?』
お兄さんの言葉が脳裏をよぎる。早く取りに来てよ。声には出さずに文句を述べて、私はため息をつくしかなかった。
「姉ちゃん?何か悩みごと?」
「うわっケータ?!ビックリした」
そこに、ひょこっと顔が覗きこんできた。弟の景太である。部屋に入るときはきちんとノックするように伝えてあるのに、それは今まで一度も守られたことがない。なのでこうして好き勝手に私の部屋に入ってくるのは日常茶飯事だった。
「姉ちゃんのため息、重かったよ。何かあったの?」
「えーっと、」
「あれ、何それ?」
そしてそこはやはり我が弟と言うべきか。すぐさま目ざとく机上の物体を指差した。不自然にハンカチがかけられているから余計不思議に思ったのだろう。「あ、ちょっと!」私の制止も聞かずハンカチを取り払ってしまう。
「こ、この箱…!」
「え、ケータ知ってるの?」
「ねねねね姉ちゃん?この箱どこでもらったの?!ってか誰にもらったの?!」
見た瞬間、冷や汗を流しながら訊ねてくるケータに、思わずのけ反った。「学校の帰り道に、知らないお兄さんから」その気迫に押されつつも答えれば、ケータは再びハンカチを箱にかけて押さえ込む。何、何なの?!
「これ!ぜっっったい開けちゃダメだよ!」
「ちょ、ケータ何か知ってるの?!」
「お、俺も一回貰ったことがあって、それで!」
そこまで言って、景太は己を抱き締めた。ちょっと、そこで言うのをやめないでよ!気になるでしょ!
「何、何があったの?!」
「俺の口からはとても言えない…!」
「はあ?!」
「とにかくダメったらダメだよ!!まあ姉ちゃんが開けてしまっても、それはそれでありかもしれないけど…」
うん、それはそれでいいかも。でもやっぱ俺は人間の姉ちゃんがいいな、と景太がぶつぶつ呟く。「ちょ、意味わかんないって」中身を知ってるなら教えてほしいし、開けたらどうなるのかも知りたい。知ることができれば、悶々としなくてもすむのだ。
「知ってるなら教えてよ」
「とにかく大変なことになるってことは確かだよ」
「ええ?!」
「と、とりあえず!ダメだからね!じゃあ俺宿題あるから!」
景太はそれだけ言うと、慌てて部屋を出ていってしまった。またしても残るのは呆然とする私だけ。あああもう、どうしたらいいの?!
「仕方ない。肌身離さずもって出かけてお兄さんが取りに来るのを待とう」
学校に行くにしても遊びに行くにしても、とても荷物になるけど!
ところがそんな風に思っていた翌日、私のもとに、お兄さんは意外にもあっさりと現れた。「やあ、七海ちゃん」また、あの薄暗い道の途中、にやかに、まるで友人と話すかのように。
「ありがとう。あの赤い箱、開けないで持っていてくれたんだね」
「はい」
おもむろに鞄から取りだし、その箱を手渡す。お兄さんはにっこり笑うと「でも、残念だなあ」と眉を寄せた。
「僕は君だったら、飼っても良かったんだけど」
「はい?」
「きっと可愛かっただろうね」
何の話だ。
「それじゃあ、またね」
「え、ちょ、ちょっと?!」
「また会えたらいいね」
私、その箱のこと何も聞いてないのだけど!
しかし、ひらり、と手を振ってお兄さんはさっさと姿を消してしまった。残された私はまた呆然と立ち尽くす。道沿いの家で飼われている犬がわん、と一鳴きした。
『僕は君だったら飼っても良かったんだけど』
お兄さんの真意は、今もわからないままだ。