空は晴天。NYの街並みが遠くまで見下ろせる本部の屋上、加えて貸切状態という最高のロケーションにいるにも関わらず私の気持ちは沈んでいた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分の手、正確にいうと小指と人差し指が包帯でぐるぐると固定されてしまっている手を、空に透かしてみながら私は深くため息をついた。昼休憩をもらってすぐ、駆け込むように屋上へ逃げ込んできたはいいものの午後からどうしたらいいのだろう。
「まさか、君だったとはな」
誰かが階段を上がってくる音は聞こえていた。でも、どうか顔見知りの人ではありませんようにと祈っていたのに。
「あ、赤井さんじゃないですか、っ」
今、一番会いたくなかった相手かもしれない。声が上擦ってしまった。恐らく彼の口ぶりからして私が怪我をしたことはもう耳にしているのだろう。なお一層、ぎこちなさが否めない笑顔になってしまったけれど、赤井さんは気にする素振りもないまま私の横へとやってくる。
「あー……えっ、と……お昼、食べました?」
なんとかして話題を見つけたのだけど、赤井さんには聞こえなかったのかもしれない。赤井さんは何を言うでもなく煙草とマッチを取り出していた。返事のないこの時間は辛いけれど、もう一回聞き直す勇気はない。恐らく赤井さんには聞こえている。ただ、彼なりのペースがあるんだ。
「決められた時間に休憩を取るなど、この仕事をしていては無理な話だな」
赤井さんは煙草の煙を吐き出すと、ようやく私の方を見てくれる。うん、確かに。その通りな回答に私は深く、深く頷くしかなかった。
「……ですよね、」
つまり赤井さんが言いたいのは、決められた時間に休憩出来ている私はいかに役に立てていないか、という話だろう。元々、自己嫌悪中な上に、一番突かれたくないポイントを最も簡単に刺されてしまった。泣きっ面に蜂、というやつだ。赤井さんにそんなつもりが無くても、今の私にはダメージが強い。
「下で話題になっていたよ。待望の新人がデビュー早々、フルフェイスの男に殴りかかって小指の骨を折ったとな」
「っ……え、?」
ちょっと待って。いつの間にそんな話になっていたんだろう。赤井さんの言葉に驚いて顔を上げると、彼は軽く肩を竦めている。
「ちっ、違います!それ全然違いますから!」
「経緯はどうであれ、結果は同じだろう?」
赤井さんは私の右手に視線をやりながら、目を細めた。
「い、いや……あの、これは折れたんじゃなくて、ちょっとだけヒビが入って……!」
必死に訂正しようと指を見せるけれど、ぷっくりと腫れ上がったように見える指先の包帯では、ヒビだろうと何だろうと格好悪いことこの上ない。案の定、それがどうした、と言いたげに赤井さんは片眉を上げているから、顔がどんどん熱くなってくる。
「そ、それに殴りかかったんじゃなくて、そのっ、飛んできたヘルメットを避けようとして……それで、」
段々と、声が小さくなっていく。赤井さんの誤解を解こうと必死に説明するけれど、真実もまた胸を張れるものではない。無謀にも自ら犯人に立ち向かった故の怪我か、ただの事故で負った怪我なのか。どちらかが捜査官として誇らしいか。
「残念ながら、そうとは伝わっていないようだな」
赤井さんは煙草を持つ手を口から離すと、塀の外へと視線を向けた。太陽の光に照らされた横顔が綺麗で、少し見惚れてしまう。でも、それを噛み締めている余裕はない。
「そ、っか……」
どうやら私が病院へ行っている間に、話が誇張されて広まっていったらしい。だから戻ってきた時、あれ程視線を感じたのだ。包帯が目立っていたのかと思っていたけど、そうじゃない。
「そっかぁぁ……」
だったらこの後、どんな顔をして戻ればいいんだろう。完全に、役に立たない新人のレッテルを貼られてしまっている。いや、数週間の間拳銃も握れなければ、利き手である右手が使えないせいで内勤だってままならないのだ。役に立たないレッテルではなく、本当に役に立てない人になってしまう。平気を装っていたけれど、いよいよマズイ気がしてきた。声が少し震えてしまう。
「赤井さん、私っ、クビになったりっ……しますか?」
思い切ってそんな事を聞いたら、赤井さんは数秒、瞬きを繰り返していた。
「あっ、いえ……!」
急に恥ずかしくなって下を向いていると、赤井さんがふっと息を漏らす。
「まあ、それで成り立つような組織なら、そうしているだろうがな」
「……っ」
「何より、わざわざ撒いた種を芽も出ていない内に掘り出すことの方が馬鹿げているだろう」
自分の行く末を悟って絶望していた私と違い、赤井さんは軽い口調でそう言った。なにをそこまで心配するんだと言いたげな表情をしている。
「でも、もし芽が出なかったら、っ?」
「……芽を、出す気がないのか?」
その言葉に、私は数度首を振る。だって、そんなつもりはない。
「……あります、ずっと」
なのに自分のあまりの出来なさに、泣きたくなってくる。アカデミーの時は、優秀とは言えなくとも劣等生でも無かったはずだった。それもアカデミーという小さな世界での話だったのか、自分よりも下位の成績だった男の子が、先輩捜査官と仲良さげに捜査から帰ってくるのを見る度に内心酷く落ち込んでいるのも事実。
「そうだろうな、」
「……え、?」
「じゃなきゃ、あそこまで資料整理に精を出さんだろう」
ぱちりと、開かれた赤井さんの瞳と数秒、見つめ合う。彼なりの冗談だと分かって少し吹き出すと、気が楽になる。自分を取り巻いていた重苦しい空気がどこかへ飛んでいったようだ。赤井さんも、心なしか表情が柔らかいように見える。
「あれ……実は結構、他の方から結構感謝されたんです。見やすくなったよーって」
「良かったじゃないか」
「っ、です、よね!……うん、そうだ!なら次は私、内勤のプロになります。効率よく仕事を回して、皆さんがより捜査に時間を費やせるようにするんです!」
そうして作業手順の不満や改善すべき点を思いつくまま話していると、いつの間にか元気も出てきていた。忙しいはずの赤井さんに向かって何をしているんだろうと思うけれど、彼は煙草を片手に、それでもちゃんと耳を傾けてくれていた。
「なので、赤井さんも困り事があったら教えてくださいね。私、どうにかして改善してみせますので」
「頼もしいことだな」
それは、お遊びの延長線上にあるような言い方だったけれど、でも嬉しかった。いつか、本当の意味で彼に頼られるような、存在になれたら。
「じゃあ、見ていてください」
私がそう言うと、赤井さんは微かに口角を上げる。意外にも柔らかな視線を受けて、胸の奥が熱くなった。
「昼飯は食っておけよ、」
ちょうど吸い終わった煙草の火を消して、赤井さんは階段の方へと歩いていく。言われてみれば確かに、急にお腹も空いてきた。
「はーい」
もう閉められてしまったドアを見つめながら、私はそっと笑う。きっと返事は聞こえていたはずだ。