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 買いこんだ食材をおろすと、思わずため息がもれた。
「おつかれさん。おもたかっただろ? わるいな、助かったよ」
「いえ、おもたいのはほとんど迅さんがもってくれたじゃないですか。わたしは全然……こちらこそ、ありがとうございました」
 ひと息つくひまもなく、さっそく食材を手わけしてしまっていく。クレープ屋さんによっていたことと、思ったより買いものに時間がかかってしまったことで、夕飯の支度がぎりぎりになりそうな時間だった。
 迅さんがクレープ屋さんにあらわれたのは、どうやら買いだしが原因のようだった。冷蔵庫の中身がすくなくなりはじめていたらしく、夕ご飯担当もあってレイジさんから調達の任務を受けていたのだという。わたしが市街のほうへより道をしていると聞いて、てつだいにちょうどいいからとつかまえにきたのだろう。
 買いものをしているあいだも、ずっと迅さんのことは気がかりだった。けれど、もういいやと思えてきている。正直に言うと、すっかりつかれきってしまったのだ。
 思えば、迅さんは最初からなにごともないかのように普通に接してきていた。それでもどことなくさけられているようにかんじていたのだけれど、やっぱりわたしの自意識過剰だったのだろう。
 そうすると、勘ちがいなのに露骨にさけてしまったわたしはなんて最低だったのか。迅さんは、なにもわるくないのに。わたしが勝手にネガティブに考えてひとりでおちこんで、そのせいできっと、迅さんをいやな気持ちにさせた。だからいまは、ただ、あやまりたかった。
「時間もあんまりないので、今日はカレーにしちゃいましょうか」
 買いこんだ食材を見て、夕ご飯のメニューをきめる。こったものを作る余裕はなさそうだから、今日は切って煮こむだけのカレーにしてしまおう。ゆで玉子をそえて、コールスローサラダと、白菜いっぱいのコンソメスープと、角切りとすりおろしのりんごヨーグルト。カレーはいっぱい作っておけば翌日も食べられるし、ドリアやうどんにアレンジもできる。
 手ぬきではない、あくまで時間との関係と効率を考えた結果なのだ。と、言い訳ともとれる理由をつけて、さっそく片手鍋に水を張る。まずはゆで玉子から。半熟と固ゆで、半分ずつにして、好きなほうをえらんでもらうことにしよう。
 玉狛のキッチンはひろい。レイジさんが料理を得意としているのもあって、キッチンまわりの設備はしっかりしている。それらを駆使すれば、夕飯の準備もまにあうはずだ。
 三口コンロの一番火力が弱いところに鍋をかけながら、わたしは穴あけ器にぷすりぷすりと卵をさしていく。
「てつだうよ。というか、おれが当番なのにやらせちゃってわるいな」
 買いたしたものをしまい終えた迅さんが、袖をまくりながらとなりにたった。
「なにをしたらいい?」
「えっと……じゃあ、卵に穴、あけてもらっていいですか?」
 わたしは手にしていた卵と、穴あけ器をさしだした。
「お安い御用だ。ところで、どうして卵に穴をあけるんだ?」
「穴をあけておくと、きれいに殻がむけるんです」
「ああ、なかなか殻がむけないときがあるな。穴をあけると防げるのか」
 知らなかった、と言いながら卵に穴をあける迅さんは子供のように感心していて、くすりとわらってしまう。ゆで玉子の準備はまかせて、わたしはお米を研ぐことにする。エプロンに袖をとおして、うしろで結ぶ。
 何合にするかまよったけれど、思い切って一気に十合炊いてしまうことにする。男性陣はおかわりをするかもしれないし、あまったらおにぎりにして、あしたのお弁当ととしてみんなにもたせてあげればいい。数えまちがえないように、一合、二合、とつぶやきながら計量カップではかっていく。
「穴あけおわったけど、もう入れちゃっていいの?」
 火にかけた片手鍋をのぞきこみながら、迅さんがたずねた。
「もうちょっとで沸騰するので、そうしたら卵を入れて、冷蔵庫のにタイマーで五分半セットしてください」
「五分半?」
「はい。半熟玉子の時間です」
 卵は常温にもどりつつあるから、五分半でいいだろう。沸騰したお湯に、つめたい卵なら六分。常温の卵なら五分半。それが半熟玉子の鉄則なのだ。
「半分は、タイマーが鳴ったらお湯から上げて、冷水をかけておいてほしいです。残りの半分はもうちょっとゆでて、固ゆで玉子にしちゃいます」
「おお、えらべるのか」
「はい。好きなほうを食べてください」
「どっちもっていうのはアリ?」
「ありですよ。いっぱいゆでますから。あまったら味玉にします」
「隙がないな」
 わたしは大きなボウルに入れたお米に水をそそぎながら、くすりとわらった。玉狛のご飯は当番制で、ローテーションで作るようになっているけれど、迅さんはあまり料理にあかるくないようだ。それもそうかもしれない。レイジさんという、お料理上手な人がいるのだから。
「桑染、これもう卵いれてもいいかな」
 名前を呼ばれて、片手鍋をのぞく。鍋の底からぶくぶくと泡がたちのぼっていた。沸騰している。
「もうよさそうですね。お願いします。おおきい網じゃくしがあるはずなんで、それでいれちゃってください」
「網じゃくしって、これ?」
「それです。網になっている、おたま」
「これ、網じゃくしっていう名前だったのか」
 網じゃくしに卵をのせて鍋の中にいれながら、迅さんがひとり言のように言う。あたりまえのように話しているのが、とてもひさしぶりにかんじられる。
 すっかりわすれかけていたけれど、そういえばここしばらくはぎこちなかったのだった。あんなになやんでいっぱい泣いたりもしたはずなのに、全部もとにもどったような自然な居心地で、夢をみていたのではないかと思ってしまう。
「ゆでてるあいだに、野菜の皮をむいておくか」
 タイマーをセットして、迅さんが皮むき器をとりだした。
「あ、じゃがいもからお願いできますか? お水にさらしたいので」
 わたしは洗いおえたお米をボウルから炊飯器のお釜にうつす。しばらく水につけてからスイッチを入れるので、わすれないようにしなければ。
「水につけるの?」
「はい。そうすると、よけいなでんぷんが出て、料理の仕あがりがよくなるんです」
「へえ、くわしいんだな」
「普通ですよ。レイジさんもやっているはずです」
 これにいれてください、とお米を洗っていたボールに水をはって、迅さんにわたす。わたしは玉ねぎに取りかかることにした。目にしみるから苦手なのだけれど、カレーを作るうえでは避けてはとおれない。こっそりと気合をいれて、外側の皮をむく。
 なんとなく会話がとぎれて、わたしたちはならんでもくもくと野菜の皮をむいた。迅さんの手もとでは、じゃがいもの皮がつみかさなっていく。わたしは半透明のすがたを見せた玉ねぎに、包丁をさしこんだ。
 ざくざくと切っていくうちに、じわりと涙がうかんでくる。玉ねぎが、目にしみる。手をとめてぎゅっとまぶたをとじてみるけれど、眼球をちくちくとさされるようなかんじはなくなってくれなかった。
「うー……」
「桑染?」
 ちいさくうなったわたしに、迅さんがこっちを見たのが気配でわかった。
「どうした、指でも切ったか」
「ちがうんです、玉ねぎが目にしみて……」
 腕で目をぬぐってまぶたをひらいてみたけれど、涙がじわりとうかんできて、ぽろりとこぼれおちた。
「かわるよ」
「大丈夫です、ちょっとしみるだけなんで」
 迅さんにこんなつらい思いはさせられない。とはいえ、今日はやけに目にしみる。痛くて目があけていられない。まばたきをくりかえしてみても楽にならなくて、とじたまぶたのあいだからぼろぼろと涙がおちる。
「桑染」
「はい、なん――」
 玉ねぎに涙がおちないようにとうえをむいていると、ふっと影がさした。なんだろう、とうっすら目をひらこうとしたところで、ぐい、と顔を横にむけさせられて、目じりをぬぐわれた。
「え、あ――じ、じんさ」
「やばそうだな、玉ねぎ」
 じゃがいもの皮をむいていたはずの迅さんの手の甲が、わたしのほほのなみだをぬぐっている。
「包丁、あぶない」
「おっと、ごめん」
 動揺でいっぱいになりながら、まだ手ににぎられたままの刃物の存在に気がつけば、迅さんはぱっと手をはなした。
 心臓が、倍にふくらんでしまったような気がするくらい、どんどんとうるさく胸をたたいている。うるさい。顔も、耳も、全身が、あつい。おどろきのせいか、単純に効果が切れたのか、涙はぴたりととまっていた。
「――桑染」
「は、はいッ!」
 動転しているわたしは、名前を呼ばれてぴしりと背筋をのばした。なにを言われるのか予想ができない。自分が緊張していることだけは、かろうじてかわかる。
「これを貸してあげよう」
「あ……」
 そういうと、迅さんは首からかけていたサングラスをわたしにかけた。トレードマークのひとつでもある、ブリッジのないめずらしいデザインのサングラス。薄水色のフィルターをかけられた迅さんが、満足そうにわらっている。
「なかなかいいな。似合っている」
「えっと……」
「サングラスをしたら、ちょっとはマシになるんじゃないかと思うんだけど、どう?」
 指をさされた玉ねぎを見て、ああ、そういうことかとほっとした。心臓をなだめるように、深呼吸をする。さっきの迅さんの行動に、きっとふかい意味はない。おちつくんだ、わたし。
「ありがとうございます、サングラス」
「どういたしまして。もし本当に無理だったらかわるから」
「大丈夫だと思います。サングラスも借りたので――あ」
「どうした?」
 あらためて玉ねぎにむかいあったところで、ずる、とサングラスがずれてしまった。視界が、いつも通りの色彩と薄水色フィルターの、二分割にされている。
「あー、サイズが合わなかったか」
「ちょっとおおきいみたいです……」
 返そうとサングラスに手をのばすと、それよりはやく迅さんの手がとりかえしていった。また、心臓がおどろいてとびはねる。減速と加速を繰り返すジェットコースターに乗っているような気分だ。
「……桑染」
 すこしひくくなった迅さんの声に、ぴたりと身体がかたまる。透きとおった青い瞳が、じっとわたしを見ている。急に張りつめた空気に、さっきとはちがう理由で心臓が鳴る。警告をしらせる鐘のようだった。
「ごめん――」
 ピピピピピ――。
 迅さんが口をひらくのと同時に、キッチンタイマーの音が鳴りひびいた。おおげさにおどろいて、わたしの肩がはねた。迅さんは「あー……」とつぶやくと、うるさいほど時間の終了をつげるタイマーの音をとめた。
「ごめん、邪魔が入った――って」
「ご、ごめんなさ、ちがうんです、お、おどろいて」
 おどろいたのが引き金になったのか、それともちがうなにかが作用しているのか、わたしの目からは塩水があふれていた。玉ねぎのせいではない。さっきまでは止まっていたのだから。
「ごめんなさい、すぐ、とめるから」
 これではまるで、迅さんのせいで泣いているみたいではないか。そうじゃないのに。どうして泣いているのかわからないけれど、とにかくはやく、なみだをとめなければ。ごしごしとつよく目をぬぐうと、迅さんが、ほそくため息をついた。
 胸がぎゅう、とくるしくなって、とめるどころか、ますます涙があふれた。鼻の奥がつんとする。ごめんなさいとあやまりたいのに、嗚咽がもれてしまいそうで、声がだせない。
「桑染、ごめん」
 ――なにに、あやまって、いるんですか。こわい、聞きたくない。さけられる理由をしりたかったはずなのに、いざ聞かされるとなると急にこわくなるわたしは、おくびょう者だろうか。ふさげるのなら、耳をふさぎたかった。
「おれ、桑染のこと、さけてた」
 トリオン器官か頭を、一発でつらぬかれたような衝撃だった。いまのわたしがトリオン体だったらベイルアウトしていたことはまちがいないだろう。
「うすうす桑染も気がついていたとは思うけど」
 迅さんはつづける。
「理由もわからないままさけられて、傷つけたよな。……ごめん」
 ちがう。ちがう。わたしは首をふる。さけていたのはわたしのほうなのだ。迅さんがあやまることではない。傷つけたのはわたしのほうで、本当にあやまるべきなのはわたしなのだ。
「ちが――わ、わたしのほう、こそ、ごめんなさい、迅さんのこと、さ、さけ、て」
 みっともなく泣きたくないのに、嗚咽がまじってしまう。せめて泣き顔だけでも見られないようにと、うつむいて顔をかくすので精いっぱいだった。
「さきにさけたのはおれのほうなんだから、桑染があやまる必要はないよ」
 首を横にふる。
「とりあえず、言い訳をきいてもらっていいかな」
「じ、じんさん、や、やだ」
 泣き顔をかくすわたしの手を、迅さんの手がとりはらう。こんなみっともない顔、見ないで。逃げるようにあとずさると、今度はまくりあげていた袖口をもとにもどした手がのびてきた。ブルーのジャージが、わたしの目もとをぬぐう。
「……視えた未来に、おどろいて、ちょっととまどってしまったんだ。だからって桑染をさけるのはまちがいなのにな」
 わたしの涙が、迅さんのジャージの袖口に吸いこまれていく。よごしてしまうから、こんなことやめてほしいのに、本気で拒むことができなかった。それも全部、迅さんの手が、やさしいせいだ。
「実際にその未来がきたら、また桑染のこと傷つけてしまうだろうけど、それまでは、いままでどおりでいたい……って、虫がよすぎるかな」
 ――そんなこと、ない。ぶんぶんとはげしく首をふる。
「わたし、も、いままでどおりが、いい――また、じんさんと、ふつうに、はなしがしたい」
 未来のわたしが迅さんをこまらせてしまうんだとしたら、最善の注意をはらって、そんな未来なんかかえてやる。たぶん、たずねてもどんな未来が視えたのかは教えてくれないだろう。ヒントもない状態ではむずかしいかもしれないけれど、未来のわたしだって、迅さんをこまらせたいはずがないのだ。それだけは、自信をもって言いきれる。だから、きっと変えられる。
「――じん、さん」
「うん?」
 ず、と鼻をすすって、上目づかいでそろりと迅さんをうかがう。青い瞳はこじれるまえとおなじ色をしていて、またすこし泣きそうになったけれど、ぐっとこらえる。
「また、よろしく、おねがいします……」
「――ッはは!」
 どうやら、言葉のえらびをまちがえたらしい。迅さんめずらしく大笑いをして、すこしくるしそうでさえある。
「はあ……そうだな、あらためて、よろしく」
 わらいすぎて涙がでたのか、迅さんも目尻をぬぐった。泣いてしまうという失態はおかしてしまったけれど、わたしのなやみはこれで解決したのだろう。つきものがおちたように、心がふっとかるくなった。
 未来でなにかをしでかすという問題はできてしまったけれど、多分、いますぐにおこるようなことではないはずだ。それならいまは、わだかまりが消えたことを素直によろこびたい。
 照れくさくてわらってごまかすと、はっとあることに気がついた。
「ゆで玉子……!」
「あ」
 わたしはとびつくようにして、ぐつぐつと玉子を煮こむコンロの火を消した。
「わ、わすれてた……!」
 タイマーは、すでにとめられている。それなのに、卵は火にかけっぱなしのままだった。半熟玉子の鉄則五分半から、いったい何分経過したのだろうか。
「もしかして、全部固ゆでになっちゃった?」
「はい……たぶん……」
 がっくりとうなだれる。半熟玉子と固ゆで玉子、半々というわたしの計画は、見事に失敗におわってしまった。たぶん、固ゆで玉子でも文句をつける人はいないだろうけれど、どうせならえらぶたのしみを用意したかった。
「まあまあ、悔やんだってゆで玉子は生卵にもどれないんだし。それより、はやく準備しないとまにあわないとおれのサイドエフェクトが言っている」
「……そうだった!」
 わたしはがばりと身をおこして、やけっぱちでゆで玉子に冷水をあびせかけた。もう玉ねぎが目にしみるなんて悠長なことも言ってはいられない。涙が出てくるよりはやく、切りきざんでやる!
「……桑染」
「なんですか、迅さん」
 包丁をにぎりなおしたところで、迅さんが呼んだ。顔を上げて、見あげる。
「顔、あらったほうがいいんじゃないか」
 じゃがいもの皮むきに戻ろうとまくりあげている迅さんのジャージの袖口は、すこし色がこくなっている。いまさっきまでべそべそと泣いていたことも思いだしたわたしは、はずかしさでベイルアウトしてしまいそうだった。
「顔、あらってきます!」
 逃げるように洗面所へかけだすと、わらい声が背中を追ってきて、ますますはずかしくなった。このまま一緒に晩ご飯をつくらなければいけないなんて、ネイバーを倒すよりも大変だ!

 ばたばたと洗面所へかけこみにいった桑染を見送って、ずるずるとキッチンカウンターにくずれる。
「こうくるか……」
 ぼやかずにはいられなかった。桑染が包丁をにぎりなおしたときに視えた、未来。顔も、耳も、首までも真っ赤にした桑染が、おれとむきあっている。前に視た未来とおなじではあるけれど、決定的にちがっていた。桑染の表情が、告白をするときの、期待と不安にみちたものから、おどろいたような表情へと、変わっていたのだ。
「あれは確定した未来ではなかった、ということね……」
 とんだ読みちがいである。動揺のあまり、冷静な判断を欠いていたのかもしれないけれど、それにしたって、こんな読みちがいをしでかすなんて。
 すこししめったジャージの袖口に指をのばす。ほんの数分まえ、桑染がおれに「告白をする」という未来が変わった。
「おれ、あいつに告白するのか……」
 泣きながら「じんさん」と呼んだ声がはっきりと再生される。あまりにも泣かせすぎたと思っていたけれど、これで万事解決だとばかりに、今度こそ確定した未来だとサイドエフェクトがつげていた。あとは、その未来をいつかなえるかということだけである。
 ――レイジさんに、なんて言おう。あれだけことわると言っていたのに、手のひらをかえしたように好きになっただんて、軽薄すぎるにもほどがあるだろう。
 こんなにもこまりきっているというのに、おれのサイドエフェクトは最善の言い訳をみちびいてくれることもなく、ただ最善の未来をひとつ、しめしているだけだった。


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